第2話 午後三時二十七分

 時刻は午後三時二十七分。飛行機が大きな音を立てながら関西国際空港に着陸した。スチュワーデスが「まだ立たないでください」というような注意喚起を仏英日の三ヶ国語で行っていた。小さな窓には雨粒がぶつかり、弾ける。滑走路は濡れ、空港の係員たちも着ている意味があるのかどうかすらわからないレインコートを身にまとっていた。


 やがて機体は止まり、シートベルト着用サインと禁煙のサインが消灯した。乗客が次々と立ち上がり、荷棚から荷物を取り出す。少し前の方で背の低いフランス人の婆さんが取り出すのに難儀していた大きめのバッグを、近くにいた日本人の青年が軽々と取り出し婆さんに渡していた。


 婆さんは礼を英語かフランス語かで迷ったのか一瞬口を開けたまま青年を見つめたが、すぐに「Merci.(ありがとう)」とフランス語で言った。青年は、皺の多い顔を少し綻ばせいる婆さんに向かって、「Je vous en prie.(どういたしまして)」と同じくフランス語で答えた。どうやら彼もフランス語を学んでいるようだ。


 僕らはこのような小さな善を積み重ねて生きているんだと実感する。助けられた婆さんも助けた青年も少し気持ちよくなっただろう。そこに人種の違いや言語の違いなんて必要は無いのだと思った。


 窓側に座っていた僕は、隣のフランス人男性が荷物を持って通路に出るのを待たなければならなかった。普段から大抵最後の方に出るのでなんら苦痛ではない。空港に待たせている人がいるわけでもないし、電車の本数が少ないわけでもない。


 もちろん入国審査は少し並ばなければならないし、色々と面倒はある。しかし、焦って出ていき途中で忘れ物に気づく方が面倒臭い。普段から度々出かけ先で忘れ物をしてくる僕は、特に慎重に確認していた。

 そこでふと隣の席に目をやると先ほどのフランス人が忘れていったのであろう帽子が、前のネットに入っているのを見つけた。いつもならスチュワーデスに預けて出て行くのだが、今はなぜかその人まで届けてあげようという気持ちになった。先ほどの婆さんと青年のやりとりを見ていたからかもしれない。


 僕はもう一度荷物の確認を手早く済ませ、立ち上がり棚から荷物を取り出す。幸いにも既に人の数は少なくなっており、スムーズに通路を通り抜け空港内に入ることができた。顔はほとんど思い出せないが、彼は確か茶色いリュックサックを背負っていたはずだと思いながらその男性を探す。


 あたりをキョロキョロしている僕は不審者に思われているだろうか、などとくだらないことを考えながら歩いていく。エスカレーターを歩きながら降りていくと茶色いリュックサックを背負った外人の姿が目に入った。彼は丁度出発直前のウィングシャトルに乗るところで、僕は慌てて追いかけてそれに乗り込んだ。


 シャトルが今居る先端駅から本館駅へと向かって出発する。そういえば着陸時からトイレに行きたかったのを忘れていたな、という気持ちを飲み込みながら同じシャトルに乗っている目的の男性に近づいた。モロッコからフランス経由の便なのでほぼ確実にフランス人だろうと見当をつけてフランス語で話しかける。


『すみません、これ、忘れ物ですよ』


 そう言うと彼は持っていたスマホから顔を上げこちらを向いた。彼は僕が持っている帽子を見ると、自分の頭を触り帽子を被っていないことを確かめた。自分が帽子を被っていない事に驚いたのか、はたまた突然日本人が自分の帽子を持ってきた事に驚いたのか目を見開き、「オー!」と言って帽子を受け取った。


『ありがとう。日本人は親切だと聞いていたけど本当だったみたいだ』


『どういたしまして。ようこそ日本へ』


 そう言って話を切り上げ、僕もポケットに手を入れ先ほどまでの彼と同じように、スマホに目を向けようとする。しかし彼は続けて話しかけてきた。


『実は日本に来るのは初めてでね……もし良かったら少し案内してくれないかい?』


 僕は少し考えたが、特に断る理由もないので承諾した。どうせ帰っても家でダラダラしてしまうだろう。旅の疲れが僅かに残っているがそんなことは大した問題ではない。


『ありがとう!僕の名前はフローリアン、フローと呼んでくれ。君の名前は?』


『オーケー、フロー。僕は水無人、二十二歳。よろしく』


 フローが手を差し出してきたのでそれを強く握り返した。


『ミナトだね、わかった。僕は二十歳だ、よろしく。早速だけど、天王寺までは電車で行けると書いてあるが、本当かい?』


 彼はスマホの画面を見せながら問うて来る。言語はもちろんフランス語で、細かいところまではハッキリとはわからないが大体のことは理解できた。


『ああ、乗り換えは必要ない。大体一時間くらいかな』


 そして大体の運賃を説明しようと思ったところで本館駅に到着した。他の乗客たちがぞろぞろと降りるのに続いて僕たちも降りていく。長い通路を簡単なフランス語で雑談をしながら通り抜ける。彼はよく話す男だった。子供の頃の話や今働いているレストランの話、家族のことや日本のアニメのことを話した。

 たまにわからない単語が出てきたが、その都度わかりやすい言い回しに置き換えて話してくれた。それでもわからない場合はスマートフォンの辞書アプリで単語を調べる間、彼は話を止めて待っていた。知らない土地で不安な面もあったはずだ。同レベル、とまでは言えないがフランス語で話せる人間を見つけて嬉しかったのだろう。


 そうして話しているうちに荷物受取場所に到着する。人々の色取り取りのスーツケースがまるで回転寿司のようにくるくると回っていた。どうやらまだ僕のスーツケースは回ってきていないようだ。フローも自分の荷物を探している。さっき聞いた話では彼のスーツケースはよく目立つように赤を選んだと言っていた。

 少し待って僕が自分の荷物を見つけた時、ちょうど彼も自分の荷物を見つけたらしく回転台から引き摺り下ろしていた。彼は長期滞在するのか、かなり大きく重たそうにしている。


『そういえば、ミナトはどうしてフランス語が話せるんだい?』


『ああ、実はね……』


 僕はフローがいずれ聞いて来るだろうと思っていた質問に答え始める。互いに重たい荷物を引き摺りながら税関検査場へと歩き出した。複数の荷物を一緒に乗せるカートもあったが電車に乗る予定なので使わなかった。


『昔、と言っても四年ほど前のことなんだけどね。パティシエを目指していたことがあって、いずれ使うだろうと思って勉強してたんだ』


『過去形ということは今は違うのか?』


『うん、今は少し違う。今は……』


 続きを話そうと思ったところでポケットのスマホが鳴り出した。ちょっとごめん、と言ってスマホを取り出し電話に出る。着信画面には「はらだ」と書かれていた。


「もしもし、水無人ですけど〜」


「やっと出た、もー!」 


 少し怒り気味の若い声が電話越しに響く。やっと、ということは何度か電話をかけていたのだろう。先ほどまで機内モードにしていたので気がつかなかった。


「どうした陽菜、なんか用か?」


「なんか用かじゃないでしょ、もうずっと待ってるんだけど!」と電話の相手、原田陽菜がさらに甲高い声で叫んだ。


「待ってるって僕を?」


 待たれる覚えがないので素っ頓狂な声で返事をしてしまった。なんか約束でもしていたっけ、と記憶を探る。


「また忘れてる、仕方ないなぁ。空港まで迎えに来てっていうから迎えに来たのに……帰りの日の天気予報が雨だから迎えに来てって言ってたじゃん」


 そう言われたところで入国審査の順番が来てしまったので一旦電話を切る事にした。


「え、ごめん一旦切る」


「ちょっと!」


 そういえば出発前にそんなことを言ってしまったような気がする。まさか本当に迎えに来てくれるとは思ってもなかったので、そのような話をしたことすら忘れていたのだ。

 フローが『大丈夫か?』と聞いてきたのに対して『ああ、うん』と曖昧に返事をする。なんの問題も無く窓口を通り抜け、フローの通過を待ちながらスマートフォンを手に取った。二ヶ月前に買ったばかりの最新機種には傷一つついていない。一秒とかからずに水無人の顔を認証してロックが解除される。よく使う緑色のアイコンのメッセージアプリを起動し、陽菜とのトーク画面を開く。


「Dのゲートから出たところに車停めてるから」というメッセージとともにパンダのスタンプが送られてきていた。それに対し、フローと知り合ったことや、天王寺まで送ると言ってしまった話を端的に送った。送った瞬間すぐに既読マークがつく。そして「じゃあその人も一緒に。」と、次はスタンプも無しに可愛げもないメッセージが送られてきた。

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