とりあえずコーヒーでもいかがですか?
@kiga3bon
第1話 旅の記憶
乾いた土の匂いが鼻先をくすぐる。ほとんど雨が降らない時期なのだろう。
ピンク色の壁にいくつもの束になった配線が伸びている。薄汚れた屋根瓦は何枚か落ちてしまっているようだ。
さらに、どこで区切るのかさえ分からないアラビア文字の看板があった。
隣に小さくHOTELと書かれていたので、それがホテルなのだと認識できる。
ホテルから出てすぐの細い路地の片側に、幾つも露店が並んでいた。陶器や寄木細工、バブーシュと呼ばれるモロッコ独特のスリッパが色とりどりに並んでいる。
ほとんど値段が書いていない店ばかりだったが、たった今通り過ぎた陶器の店は珍しく、手のひらサイズの小さい器に一つ十ディルハムと値札が貼られていた。ディルハムという金の単位もここへきて初めて知った。だいたい一ディルハムが十円と言う計算なのであの陶器は百円ちょっと、ということなのだろう。
少し歩くとこのマラケシュで一番大きい広場に出る。何軒もフルーツジュースの屋台が並んでいて、どれを選べばいいか分からないので、自分の誕生日の下二桁である二十一番と書かれた屋台でオレンジジュースを一つ買った。
来る前に買った「モロッコのしおり」には、この屋台にも美味しい番号の店と美味しくない番号の店があると書かれていた。二十一番は少なくとも不味くはないようだ。
そもそもオレンジジュース美味い不味いを判断出来るのだろうか。しかし、わかる人にはわかるということだろう。
他にも蛇使いが笛を吹いていたり、猿使いが猿に芸をさせたりしている。黒人の青年が腕時計を腕いっぱいに絡め、歩き回りながら買ってくれそうな人を探していた。
ヨーロッパではバカンス中ということもあり、かなり人が多い。少しよそ見をしていたらすぐ人にぶつかりそうになる。
そのまま人の流れに身を任せ、小さめの通りに入った。スークと呼ばれる商店街のようなもので、路地に無数に広がっている。通りごとに扱う商品も別れているらしく、今通っているところは金属製の小物やランプ、木製の小物などが主商品のようだ。他にも小物や伝統衣装などを売っているスークも存在するらしい。
スークを歩いていると頭上の屋根に少し穴が空き、光が差し込んでいるところがあった。道端に並べられている木の細工が淡く、儚く光を帯びる。チェスの盤と思われるそれの上ではまばらに駒が並べられていた。
ふと思い出したように首から下げたデジタル一眼レフを構える。左目を閉じて右目でファインダーを覗く。単焦点レンズなのでズームを考える必要はない。ただ自分が被写体に近づくか遠ざかるか。あとはオートでピントを合わせてくれる。
ファインダー越しに店の青年と目があう。向こうもこちらの視線に気がついたらしく、親指を立てた右拳を向けて笑った。黒い肌に白い歯がよく映える、いい笑顔の青年だ。
次に、駒の一つであるナイトにピントを合わせ、奥にあるクイーンをぼかして写す。距離があったので少し近づき、シャッターを切った。
「オニーサン、オニーサン、アマリ、タカクナイヨ!」
海外を旅しているといつも思う。店を営んでいる現地の人たちは一体どうやって日本、韓国、中国、その他の国の人種を見分けて声をかけているのだろうか、と。
以前ベトナムに行った時、前を歩いていたアジア系の顔の家族がいて、僕はてっきり日本人だと思い声をかけようとした。そしたらなんと現地の人に中国語で話しかけられていて、流量に答えていた。つまりあの家族は中国系だったということだ。危うく恥をかくところだったが、あの現地の人間の人種を見抜く能力は凄い能力だと思ったのは一回や二回ではない。
『ごめんね、綺麗だったから写真を撮っただけなんだ。もうちょっと他も見てみるよ』
『わお!オニーサン、フランス語上手だね。日本人なのに珍しいよ』
ありがとう、とだけ言いその場を離れる。あまり長居するとうっかり店に引き入れられて買わされてしまう。それを昨日嫌という程味わったからだ。その度に商品の正規価格を見抜き、その値段まで値引き交渉するのがとても大変だった。
やがて木製のスークは通り過ぎ、革製のカバンや藁で編まれたようなかご(モロッコかごというらしい)が並ぶスークに出た。そこでも大体先程と同じようにブラブラと周り、時々写真を撮りまた次のスークへと入っていった。
暑さと乾き切った空気のせいもあり、すぐに疲労感がたまる。まだ二十二という若さなのにこの疲れ具合。普段外を出歩いていない証拠だろう。
ちょうどスーク街から抜け出し、先程とは別の少し小さな広場に出た。カフェのようなバーのような店がいくつか並んでおり、そのほかにも肉の串焼きのようなものも売っている。煙が辺りに充満し、少し目に染みた。
せっかくモロッコに来ているので旅行雑誌にも載っていたミントティーを飲むことにする。メニューをちらりと見ると二十ディルハムと書かれていたので、たっぷりと髭を蓄えた黒人系のマスターを呼んで注文した。
待っている間に店内の様子(と言っても席数は四席しかなく周りに小さな雑貨が並べられているだけだが)を見回し、写真に収めた。店のフリーワイファイに繋ぎ、SNSのタイムラインをチェックしているとミントティーが運ばれて来た。そのままテーブルの上に置くと思いきや、目の前でカップに注ぎ始める。
ミントティー用のカップが乗っている盆は腰の位置のまま、ポットを持つ手が段々と高くなり、満タンになる直前で止まった。その高さはちょうどマスターの目の高さまで来ていて、目があうとニッコリと微笑んだ。
『どうぞ』と言いながらカップをテーブルに置き、続いてまだたっぷりと中身が残っているポットも小さな鍋敷きの上に置いて戻っていった。小さい声で『ありがとう』と言うとマスターはこちらを振り返り、再度微笑んだ。
そっとカップを持つとミントの爽やかな香りと程よい暖かさが心地良く感じられる。てっきり冷たいものが来ると思っていたのだが、どうやらミントティーは温かい状態で飲むらしい。
外が暑い中温かい飲み物を飲むのは少し変な感じがしたが、思ったよりもすんなりと喉を通る。ミントの独特な香りのおかげだろうか。しかしその香りも強すぎず、さっぱりと味わえるものになっていた。
『ミントティー、二十ディルハムね』
ポットの中の残りも全て飲み干し、喉も潤ったので店を後にする。
『はい、とても美味しかったよ。ところでこの茶葉はどこかで買えるの?』
『ああ、この近くのスークで買えるよ。でもスーパーの方が簡単に手に入ると思うよ。値段もあまり変わらない。種類は少ないけどね』
マスターはこの辺りの観光客へのぼったくり事情をよく知っているようだ。彼らを相手するくらいなら、最初から適正価格で売っているスーパーマーケットに行った方が話は早いと思ったのだろう。
『ありがとう、行ってみるよ』と言って僕は歩き始めた。
『どういたしまして、良い旅を!』
マスターは笑顔で手を振り送り出してくれた。幸いにも滞在期間はあと二日日もある。二日しかないという考え方もできるが、もうすでに丸二日も観光しているので充分といったところだろう。
明日の朝にでも行ってみようと思い、再びスークの迷路へと足を踏み入れた。
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