路傍の石
銀城蘇芳
拝啓 世界を愛したあなたへ
指定されたのは浜辺だった。休みの日はここで静かに編み物をしているらしい。
空はよく晴れている。雲一つないが、もう9月だけあって泳ぎに来てる人はいなさそうだ。
私はタクシーを降りて潮の香を感じながら歩いていた。薄いザッザッという足音と並のせせらぎが穏やかに調和していく。水平線はどこまでも続いている。
彼女はやはりそこにいた。時折海を見つめながらピンクの糸を編んでいる。
思わず破顔してしまった。その姿は何千人もの前で歌う偉大な
足音が聞こえたのか、彼女は手を止めて顔を上げた。立ち上がらずにっこりと微笑む。
「あぁ、初めまして。来る頃だと思ってたよ」
「どうも初めまして。インタビューお受けしてくれてありがとうございます。早速ですが、よろしいですか?」
「構わないよ」
インタビューの相手は初老の女性だ。子供ほどの小さな身体に辛苦を飲み干してきたような貫禄がある。
「ではマダム、先日のコンサート観させていただきました。初めて観たのですが……本当に素晴らしい歌声ですね。子供の頃から謳ってきたとか?」
「父が売れない芸人だからね、10の頃には読み書きよりも歌の方ができるようになってた。戦前は勉学が貴重だったからね。やがてアタシの方が稼ぎが多くなって父から離れて独立したってわけさ」
「父親とは、その後は?」
「決別したわけじゃないよ。アタシが海外に行くようになってからは会ってないけどね」
彼女は世間話をするように快活に話してくれた。きっと何度もインタビューで答えてきたのだろう。過去に気持ちを馳せることもなく淡々としていた。
「父親と決別してからは順調でしたか?」
「いンや全く。歌には自信があったけど道端で歌ってたって誰も見向きもしない。不況だったし金も意志も投げられたよ。謂わばアタシたちみたいなのは石ころと同じだったのさ。誰も気に留めたりなんかしない。石ころが綺麗だからって、アンタは金を払ったりしないだろ?」
「どうでしょう。あまりに美しければ金を置いていくかも」
「そんな酔狂なのはほんの一握りさ。アンタは変わってるよ」
「しかし、マダムものそ酔狂な誰かに拾われたんですよね?」
「あぁ、尊敬するルプレーにね。彼が死ぬまではとにかく幸せだったよ。彼が拾ってくれたおかげで今のアタシがいるんだ」
ルプレーの死には一時期彼女が関与してるという噂もあったが、私はそこには触れなかった。
本当に聞きたいのはそこではなかったからだ。
「そしてルプレーに見いだされてあなたは名声を得た。大戦時にはレジスタンス活動も行ったとか?」
「ようやく本題みたいだね」
彼女は私の目を見ながら言った。事前に何を聞きたいかは伝えていないのにだ。
自分でも分かっていた。私はこれを聞くために彼女に会いに来たのだと。
「アタシの祖国は負けていた。大勢の兵士が捕虜となり、いつ帰れるかも分からない。そんな中で自分のできることを考えたら……
彼女は目で自分の喉を指した。話してる間も間断なく編む手は動いている。
「具体的には何をしたのですか? 敵国の高官の前でコンサートでも?」
「正解だよ。でもタダでは勿論ない。総統の前で歌う代わりにとおねだりを要求したのさ」
「そのおねだりというのは?」
「捕虜と写真を撮ること」
彼女はおかしそうに笑った。
「連中はポカンとしていたよ、ちょうどアンタみたいにね。すぐに快諾されたけど、連中はアタシの計画に気づきもしなかった。希望通りアタシと撮った写真は漏れなく捕虜の元に渡った。そしてその写真を使って――――」
「――――偽装文書を作って国境を越えさせることができる」
思わず言葉が口から漏れてしまった。
ハッと顔を跳ね上げるが、彼女は驚かずに頷いただけだった。
「そうさ。無事に国境まで脱走できるかは運任せだったけど、望みは託した。連中が気づく頃にはアタシは祖国に帰っていたし、あとはひたすら祈ったよ。一人でも
無事に帰れるようにとね」
「祖国には……恨まれませんでしたか? 総統の前で歌うなど、国を売った行為とも捉えられますが」
「そんなこと気にしたこともなかったよ。だってアタシは祖国のためにやったことさ。それは逃げた捕虜達と、何よりアタシ自身が知っている」
「…………えぇ、そうですね」
穏やかに時間が過ぎて行く。
私も彼女も、それを慈しむように何も言わなかった。
彼女は編み物を終えていた。編み途中の物を片付けると、鞄からつるつるした緑色の小石を取り出し、掌で遊び始めた。
ふと、私は録音用のテープを止めた。水平線を眺めながら口を開く。
「私は……あの時から知っていました」
「何をだい?」
「あなたが売国奴ではないと」
彼女はまた驚かなかった。ただ微笑みながら話を聞いている。
不思議だ、私の方が年上のはずなのに、彼女の方が年季を感じる。
「あれは冬でした。雪が降ってボロ毛布にくるまって毎晩震えていました。あなたが来る前の日に一番若い青年が亡くなった。この世に神なんていないと絶望しました。彼らにとっては、私達こそ石ころと同じだったんです……彼らにとっては全く価値のないもの。蹴り飛ばしても文句を言わないもの。最後には祖国に投げつけるつもりだったかもしれません」
あなた
――――そこに、 が現れた
アタシ
「アタシを見た感想はどうだったい? 色気のない神様に見えただろう?」
「いえ、まあ……随分と小さな救いの手だなとは思いました。最初はあなたが私達の前に現れた理由も分からなかったし」
彼は懐から綺麗に折りたたまれた紙切れを取り出した。紙は色褪せ、写真は変色して輪郭が分かるくらいだ。
「真意を理解してからは速かった。国境にたどり着くまでに多くの仲間が死んでいきましたが、あなたの写真は越境するには十分でした。終戦するまで地下に身を潜めて、ようやく祖国に復帰できたのです」
「……そうかい」
彼女の言葉はそれだけだった。
それで十分だった。私は偽装文書を懐にしまった。
「私達は石ころ同然でした。ですがあなたが私達を拾ってくれた。国に帰ることができたのも今ここにいられるのも、あなたのお陰です」
「さてね、アタシは自分に正直に動いたまでさ。それにアタシもルプレーも所詮拾ってやっただけだよ。そこから自分を磨いていくのはまた別の話さ」
「ですが、拾われて活きる石もある。あなたは終戦後も優れた音楽家達を見つけては世に放っている。多くの人が素通りするだけの路傍の石をあなたは拾ったんです」
「そこはアタシなりのルプレーへの恩返しさ。この世の石ころはすべて何かの原石なのさ。ただそれを拾ってやったり磨いてやるものがいないだけ。だからアタシが一肌脱いでるってだけの話だよ」
「何故……そこまでできるのですか」
「愛しているからね、この世界を」
それは迷いのない、あまりに美しい言葉だった。
頬を涙が伝っているのに遅れて気づいた。彼女の瞳は美しく、そしてとても澄んでいた。
石を愛でながら遠くを見つめる彼女の横顔は、神々しかった。
「……ところで、その石は?」
「これかい? 死んだ前の夫がくれたものさ。道端で拾ったものだけど、アタシが持ってるだけで価値が出るだろうからってね。なんだかいやらしい話だけど、これを撫でてると落ち着くのさ」
「……素敵な話ですね」
石は大事にされてきたのだろう、表面が輝くほどに綺麗で、まるでエメラルドのようだ。
「さて、もういいかい? そろそろアタシの休暇も終わりみたいだ。戻って空港に向かわないと」
「あっもうそんな時間で……あのマダム、最後にひとつだけいいですか?」
「なんだい?」
「どうして、私に会ってくださったのですか?」
初めて彼女は驚いた顔をした。
でも仕方ない。私は別に記者ではない。
ただ名乗って、話を聞いてもいいかと尋ねただけなのだ。
彼女の顔は次第に笑顔になっていき、やがて大声で笑いだした。混乱する私に向かって、当たり前のようにこう言った。
「覚えてたからだよ」
「…………!!」
「満足したかい?」
「はい、素敵な時間をありがとう……ございました。マダム・ラ・モーヌ」
別れ際の私達は、お互いに心から笑顔だった。
改めて、私は救われた気がした。
1ヶ月後、彼女はこの世を去った。
表向きは元気そうにしながら、実はかなり薬に依存していたらしい。
彼女の葬儀の日は国中が喪に服し葬儀には40000を超える人々が押し寄せ交通が完全に停止したという。
私は参列せず、小さいアパートの一室で原稿を書いていた。
彼女はこの国を、世界を、群衆を愛していた。
ならば、彼女が世界から愛されるのは道理だろう。
そして、これから何世紀もかけて愛されて行くはずだ。
バラ色の人生と言えなかった彼女の生涯は、だけど後悔のないものだったのかもしれない。
路傍の石ころにすら愛を見出した彼女のようには私は振舞えないだろう。だがせめて手元の石だけは全力で磨き、愛しつくそう。
それが、拾い上げてくれた彼女への恩返しだと思うから
。
涙で原稿がダメになってしまう前に、ピリオドを打っておく。
最後に、彼女に、愛の讃歌を。
End
路傍の石 銀城蘇芳 @shil13ver
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。路傍の石の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます