短編 “水夜花”

餅川たる

水夜花

その日は、ジリジリと熱い夏の日だった。

僕たちは大学の長期休みを利用して夏の思い出を作ろうと、電車とバスを乗り継いで県内の流村(ながれむら)にやってきた。


同じ県とは思えないほどに虫の声が響き、8月というのに涼しい風が僕たちの汗ばんだ肌をさっと撫でては消えてゆく。

流村という名前に相応しく、住宅の隙間を縫うように澄んだ川がその巣を張っていた。


「本当に素敵なところだね」


長い髪を揺らしながらそう呟いたのは、僕と同じ大学3回生の田中鈴子だ。

夏の王道といっても過言ではない白いワンピースを身に纏った彼女は、猫のような大きな目を細めて背伸びをした。


「片道3時間かけた甲斐があったね」


僕は滴る汗を拭いながら鈴子にそう返し、とりあえず宿に向かおう、と続けた。


今夜一晩世話になるのは村にある唯一の旅館“蛍の里“だ。

ポケットからスマートフォンを取り出し、あらかじめブックマークしていた蛍の里までの道筋を表示させ…ようとして、そしてそれは失敗に終わった。


「しまった。道中で充電を使い過ぎた」


「あ。私もそういやさっき切れちゃったんだった」


ただの荷物の一つになってしまったスマートフォン。とはいえ、現状を恨むでもなく、持ち運び用のバッテリーを準備してこなかった後悔に苛まれることもなかった。


「田舎とはいえ昼間のこの時間なんだから誰かしら居ると思うよ。ちょっとその辺を見にいこう」


鈴子の言葉通り、ものの数分でお地蔵さんの前でおままごとをする女の子を見つけた。


「こんにちは」


人見知りしない性格のようで、女の子は僕の挨拶に笑顔で、こんにちは、と返した。


「僕たち旅行で来たんだけど、蛍の里っていう旅館を探しているんだ。どこにあるか知ってる?」


「知ってるよ。あのね、此処の道を真っ直ぐ進むと赤い屋根のおうちがあるの。そのおうちの前の川を下っていくと見えてくるよ。」


「ありがとう。ところで、お嬢ちゃんは此処の村に住んでるの?」


持ち前のコミュ力で鈴子が少女に質問を続ける。小さい目線に合わせて、しゃがむことも忘れない。


「そうだよ。ここはね、いっぱい不思議なことが起こるんだよ」


「不思議なこと?」


「うん。昔から”そーゆー類“の話も語り継がれてるんだって」


胸の前でぷらぷらと手首を振る少女の額に白い三角の布が見えるようだ。僕たちを脅かそうと瞼を半分閉じ、舌をだらりと出した所謂安いゾンビ映画に出てきそうな表情を作って見ている。なんて可愛らしい幽霊さんなんだろう。


なんて癒されていたら、思い出したように少女がにぱっと笑った。


「折角流村に来てくれたんだからこれあげる」


そういって差し出したのは淡い水色をした綺麗な押し花だった。


「”水夜花“(みなよばな)だよ。お兄ちゃんたちが困ったとき、きっと助けてくれるよ」


それだけ言い残すと、僕たちがお礼を言う前に少女は駆け出していってしまった。


「初めて見るお花だね、すごく綺麗」


太陽にかざすと透けてしまいそうなくらい薄い花弁を持つ水夜花をなくさないように、電源の切れたスマートフォンのカバーにそっと挟み込んだ。




「…あれ、おかしいな」


少女に教えてもらった通りに道を進み続けること1時間。8月は弱まることなく僕たちの体力を奪う。


「どこかで道を間違えたのかな?」


鈴子は日除代わりに手をおでこの前に添えたまま僕に問いかけた。


「間違うも何も、教えてもらった道はそんなに難しいものじゃなかったはず。案外あと少しで着くのかもよ」


そんなわけないと思いつつ、口角を上げて鈴子に答えた。さて、どうしたものかと下を見て小さく息を吐いた。引っ張っていたキャリーケースがキュルキュルと切羽詰まった音を奏でている。


「わあ!見て、すごいよ」


鈴子の興奮して上擦った声に顔を上げると、そこには先ほどとは違う景色が威風堂々と広がっていた。

一言で言えば、美しい。そんな景色だった。


白く雪が積もったような山に360°囲われ、その山々の中心、つまり、ドーナツの穴の部分には青く透明な湖が横たわっていた。

足元は粒子の細かい白い砂と共に、海でよく見る小さな貝殻までもがあちこちに散らばっていた。

世界が作り変わったのだと本気で感じた。

夏の暑さでやられてしまったのだ。

本気で、そうだと思った。


「どういうことなんだろう?住宅や川はどこに行った?」


「そんなの分からない。考えたって答えが出てくるとは思えないし…。ねえ、わたし湖なんて初めて見た」


今起きている”不思議“を気にするよりも、目の前の湖に心を奪われたようで、鈴子は青い透明を掬って、指の間からそれらを滴らせた。


僕は典型的に頬を抓ってみたり、目を擦ってみたりしたけれど、どうやらこれは現実らしい。しがない大学生に現状を打破する案など思いつくはずもないので、鈴子に倣って湖の一部を掬い上げた。


さっきまで恨めしかった太陽の光が、今はとても輝かしい。実際は太陽が湖に反射して、水面の方がキラキラと光を放っているのだが


砂で塔を作ってみたり、形の整った貝殻を探してみたりして、僕たちは時間を持て余した。


一通り遊んで満足した鈴子と此処から出る方法を話してみたりもしたのだが、どれも失敗に終わった。頭を抱え、俯いたその刹那。


また世界が作り変わった。


真っ白だった山々は瞬時に漆黒に染まり上がり、空は灰色に。足元は枯れ果てた池の底のようにひび割れている。


「鈴子!こっち」


彼女の手を引くと同時に、鈴子がつい数秒前まで座り込んでいた地面が音を立てて崩れた。


柔らかい餅のように、形を維持できない。そう形容すると、言葉がストンと胸に落ちた。理解はできないけれど、納得はできるというやつ。


「湖が…」


太陽に負けない光を纏っていた湖が、少しずつ、だけど確実に引いていた。

水嵩が下がり、曝け出された底の部分はやはりひび割れて、薄茶色に力尽きていた。


「どうしよう。此処にいたら死んじゃうよ」


漠然とした死を感じ取った僕たちは、なす術もなく途方に暮れることしかできなかった。


ヴーッ、ヴーッ


諦めに似た感情を整理していると、ポケットが震え、何か訴えるように低い音を鳴らす。


驚いてその中を探ってみるも、電源の切れたスマートフォンしか入っていない。極限の状態らしく、幻聴でも聞こえていたのかと息を吐いてもう一度それをポケットに直そうとして、あっと声が出た。


少女にもらった押し花がぼんやりと光っていた。


破ってしまわないようにそっと取り出してみると、花びらの一枚だけが青白く点滅し始めた。

その花びらが光る方向を思わず見つめると、水溜りほどの大きさになった'元'湖の水が、小さく渦巻いていている。


「行こう」


鈴子も僕が考えていることが分かったようで、意を決したように力強くうなづいた。


水溜まりを上から覗き込むと分かったのだが、幅は狭いものの、底は見えない程深いらしい。

更に1歩踏み出すと、手に持っていた押し花が深淵の中に吸い込まれた。その押し花を追いかけるように僕は渦の中心に手を伸ばした。


水がまるで僕の腕を掴むように形を成した





水の中に取り込まれたところから僕らの記憶は欠落していた。

気がついたら、お地蔵さんの前でおままごとをして遊ぶ女の子のそばに立っていた。

僕らに気づいた少女は振り返り、言った。


「何か不思議なことでもあった?」


年不相応の悪戯な笑みを浮かべる少女の右手には、若々しい水夜花が握られていた。



今度は、少女の案内で旅館に向かった。


何でも、ここの村の川は突然、何の前触れもなく流れが逆になることがあるのだそう。

10年に一度、必ず起こるそうだ。

運がいいのか悪いのか。今日が偶々”その日“だったようで、少女に教えられた「川を下ると見えてくる」に従って歩いていたつもりが、『川を上って』いたようだ。


赤い屋根の家の前の川を上流に向かって行くと、村人も滅多に立ち入らない神社があるそう。そこには昔、村のしきたりで生贄にされた子供のために出来た祠が祀ってあるという。


きっとその子に化かされたんだねと、道中少女は語ってくれた。


無事旅館に着くと、少女にきちんとお礼を告げ、女将に案内された部屋に入った。


「なんだか、夢だったみたいだね」


キャリーケースを開きながら鈴子は懐かしげに呟いた。ついさっきの出来事なのに全く現実味が湧かないのは僕も同じだ。


実は2人とも熱中症で全部ほんとに夢だったのかもね、なんて笑って話しながら名物の温泉に入るべく部屋を出た。


キャリーケースのタイヤの隙間からサラサラと綺麗な砂が落ちてきて、旅館の畳の上を舞っていたことは2人は知らない。

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