空蝉コンフェッション

冨田秀一

空蝉コンフェッション

空蝉コンフェッション


 着実に晩夏へと近づいているというのに、蝉時雨は鳴りやまないどころか、ここが正念場とばかりに大合唱を始めている。まだラジオ体操をしているほどの早朝に、既に蝉たちは賑やかな鳴き声を轟かせていた。


 近くの公園で行われているラジオ体操は、近隣に住む小学生たちと、PTAのおじさん、おばさん達で賑わっている。


「雫はもう宿題終わった?」


 ラジオ体操第二が始まった頃、健は気だるそうに伸びをしながら雫に尋ねた。


「えっ、うんっ、だいたいっ、おわったっ、よっ!」


 ちょうどラジオ体操第二の最初の運動である、全身をゆする運動で飛び跳ねており、雫の声は途切れ途切れになる。


「そっかっ、いいなっ。」


 腕を曲げ伸ばしする運動に移り、健はがにまたになって腕を曲げる変なポーズになりながら言った。


「健くんは、もう終わったの?」


 雫も同じちょっと恥ずかしいポーズになりながら尋ねると、健は首を横に振った。


「雫、もしよかったら、宿題教えてくんない?」


 思わぬ健からのお願いに、雫は一瞬身体の動きが止まってしまった。その遅れのせいで、みんなと少しずれた動きをしながら、雫は返事を返した。


「えっ、もちろんいいけど…。健くん頭いいじゃん。」


「いや、ちょっとさぼり過ぎて、八月末までに宿題終わりそうもない。」


「そっ、そうなんだ。頑張って終わらせないとねっ!」


 三分弱のラジオ体操第二を終えて、雫と健はスタンプカードに赤いインクのスタンプを押してもらった。


 二人は小学校一年生から現在の六年生に至るまで、毎年二人でラジオ体操に参加している。健は親の命令で仕方なく参加を続けており、雫も表面上では仕方ない感じを演出しながら、その内心には夏休みも健に会いたいという秘めた淡い恋心をもって参加していた。



 最初に健と出会った時を、雫はいつでも鮮明に思い出せるほどよく覚えている。


 健が近くの公園で虫捕りをしていたとき、雫は青葉が生い茂る桜の木陰下のベンチに座って本を読んでいた。当時、悪戯好きのがきんちょだった健は、虫かごから捕まえた蝉を取り出して、彼女の目の前にいきなり突き出した。


 六本の足を蠢かせながら“ジジジジジッッ!!”とけたたましく鳴く蝉が眼前に出現し、雫はその場で悲鳴を上げてのけ反った。


 雫にとって健は、初めは最悪な印象であったが、健とは同じ小学校で、家も近いということがわかり、頻繁に顔を合わせるうちに二人は幼馴染のような間柄に変わっていた。


 小学校六年間という時間は、人間の身体の成長はさることながら、心の成長も著しいものだ。鼻をたらして悪ガキだった健は、背も伸びて成績もそれなりに優秀、地域のクラブチームではサッカーのキャプテンを務める様になった。


 一方もともと大人しく頭もよかった雫は、相変らず周囲より頭一つとびぬけて成績優秀で、おかっぱだった髪は大人っぽく伸ばし、来年度には私立の名門中学に進学する予定だ。


 雫の精神面で一番変わった点を挙げるとすれば、やはり健に対する思いである。


 最初は大嫌いだった健くんは、いつの間にか仲良しの男の子の健くんに変わり、今では密かに思いを寄せる男の子の健くんに変わっていた。


 彼女にはこの夏休み、どうしても成し遂げようと思っていることがあった。それは健に対して、自身の思いを告白することである。


 中学校になると離れ離れになってしまうからこそ、卒業までに告白したい。しかし、卒業式に告白なんてしたら、寂しすぎて耐えられない自信が彼女にはあった。だからこそ、多くの人が浮かれがちになるこの夏休みが終わるまでに、なんとか告白したいという切羽詰まった想いを抱えていた。


 ラジオ体操に参加した人が押してもらえるスタンプの列に並びながら、雫はいつから二人で遊んだり、一緒に勉強したりしなくなったのだろうかとふと考えた。


 三年生ぐらいの時が一番仲が良かったかもしれない。外でも互いの家でもよく一緒に遊んだものだ。しかし、四年生になった頃から、多くの子ども達が性を意識しだし、二人の間を周りに冷やかされたことがあったのも手伝い、二人で一緒に遊ぶことが少なくなっていた。


 だからこそ、健から提案された宿題を教えるというのは、彼に告白をする大きなチャンスでもあった。


「宿題だけど、今日の昼空いてる?」


 犬のスタンプを押してもらった健は、帰り際に雫の予定を尋ねた。


「うん。大丈夫だけど…、どこでするの?」


「っじゃあ、図書館集合でいい?あそこならクーラーも効いているし。」


「わかった。お昼ご飯食べたら図書館いくね。」


 そう言って、雫の住むマンションの近くで健と別れた。夏休みの昼ごはんは、だいたい冷やし中華や素麺といった、冷たくて消化のいいものが多い。母親がもっと手抜きをするときは、卵ごはんと冷凍食品という時もあるが、雫は卵ご飯に醤油をかけただけの味が大好きだったので、特に不満もなかった。


 昼食を母と下の妹と一緒にすませ、「いいとも」が終わり「ライオンのごきげんよう」が始まる頃に家を出た。


「もう健くんきてるかな…。」


 図書館に近づくにつれて、心臓の鼓動が少し速くなった。家から図書館までさほど距離はないが、額には小粒の汗が夏の日差しに照らされて光っている。


 図書館の扉が開くと、人工的に作られた冷気が汗で湿った首筋を吹きぬけた。外と室内の気温差に体がぶるっと震え、毛穴が収縮して肌が粟立った。


 学習コーナーへと歩を進めると、雫は健の姿を視界に収めた。


「お待たせ。」


 雫の声に、健は計算ドリルから目を離した。


「雫、ありがとうな。」


「全然いいよ。宿題どんな感じ?」


「うん。自由研究と読書感想文は終わったよ。」


 健はしれっと、多くの子ども達が頭を悩ませる二大課題を終了させたことを告げた。


「えっ、普通その二つって最後に残らない?私は今年もその二つが最後に残っちゃったよ。」


「そう?僕は自由研究と読書感想文こそ、夏休みの課題らしくて好きだけどね。ドリルみたいな絶対の答えがある課題より、答えがなくて、自分で作り出せる課題の方が面白いと思わない?」


「う~ん。そうかなぁ…。」


 雫は健の考えがあまりわからなかった。むしろドリルの問題のような、作業的にこなす宿題のほうが得意だ。


 健の隣に腰をおろし、雫は自分の持ってきた読書感想文の課題図書を読み始めた。時折、健は「雫、この問題わかる?」と、算数の立体の少し複雑な問題や、漢字の読み方などの質問をした。


 雫は中学入試の勉強もしているので、どれもなんなく容易に答えられるレベルの問いだった。無駄な会話はなく、二人は黙々とそれぞれの課題を進めた。


 夕方になり、図書館が閉館の合図を告げた。夏休みは図書館の閉館時間も早まる。外を出た時は、昼間の日光を充分に浴びたコンクリートが未だに放射熱を放っていた。


「今日はありがとう。」


「いえいえ、どういたしまして。」


 お祭りに誘うなら今だ、という考えが雫の脳内をよぎった。昼の蝉たちの喧騒は、ひぐらしの物悲しい鳴き声と変わっている。


「あのさっ…。」

「あのっ…。」


 雫が話を切り出そうとしたとき、健も同時に話し始めようとした。二人の声が重なり、慌てて二人とも「あっ、ごめん…。」と互いに謝る。


「先にどうぞ…。」


 雫が健に先に話をするように促すと、健は少し申し訳なさそうな表情で「もしよかったら…また宿題教えてもらっていい?」と尋ねた。


「うっ、うん。全然いいよ。私も自分の宿題進められるし大丈夫。」


「そっか、ありがとう。雫は何て言おうとしてたの?」


 健の問いに対して、振り絞った勇気の出鼻をくじかれた雫は「ううん。私も、また一緒に勉強しようって言おうと思ってた。」と咄嗟に嘘をついた。


「っじゃあまた今度。」


 夕日に照らされ遠くに伸びる影法師を眺めながら、雫は健に手を振った。



 二度目の勉強会は、図書館が閉館日であったため、健の家で行われた。


 久しぶりに入った健の部屋は、四年生のころ入ったときよりも少し狭く感じた。健の母はプラスチックの皿にスナック菓子を盛り、水で薄める濃縮タイプのカルピスを注いでくれた。


「久しぶりねぇ。雫ちゃん、元気してた?」


「はい、元気にしてます。」


「雫ちゃんのお母さんとはよくランチ行ったりするから、色々話は聞いてるけどね。お勉強頑張ってね。」


 そう言うと、健の母は部屋を去っていった。色々話を聞いている…きっと中学受験の話とかだろう。終業式の日に担任の先生にもらった原稿を広げ、私は読書感想文を書き始めた。


 しかし、なかなか筆が進まない。毎年結局は、読んだ本のあらすじをただ書いただけのものに、「~なところが面白いと思いました。」と、取って付け足したような感想を書いてマスを埋めている。


「感想文書くの苦手なの?」


 健はのどに粘つくような濃いめのカルピスを飲みながら尋ねた。


「うん…。何書けばいいかわからないもん。そうえば健くん、いつも作文で表彰状もらってるよね。」


 そう言う雫に、健は身を乗り出すようにして、彼女の書いた原稿を眺めた。


「うわー、面白くないなぁ。」


「ひどっ。」


「もっと自分のことを書かないと。本のあらすじなんてどうでもいいんだよ。」


「自分のこと?」


「作者が本の中で伝えたいことは、もうその本に書いてあるだろ。それについて、雫はどう思うかだよ。この場面が面白かったとか、そんな表面的な感想じゃなくて、もっと物の価値観とか、考え方についての雫の意見を書くんだよ。」


「なっ…なるほど…。」


 そうは言われても、いざ書くのは簡単ではなかった。雫が読んだ課題図書には、時間の大切さや、幸せとは何かといった、そういった価値観をストーリー通して描かれている場面があった。


「雫にとって、幸せってなんだい?」


 健は興味深そうに雫に尋ねた。


「私にとっての幸せ…。」


 大好きなカレーを食べる時、たまにお母さんが買い物帰りにミスタードーナッツに連れて行ってくれる時、金曜ロードショーでよくわからない洋画じゃなくて、アニメが放映される時、夏休みの花火にクリスマスのプレゼント、そして…健くんと一緒に過ごす時間。


 雫は思いついたことを言ってみたが、最後のことだけは本人を目の前にして言うことができなかった。


「いいじゃん。そんなことを書いたらいいんだよ。さっきより俄然面白くなった。」


「そうかなぁ…。」


 半信半疑の私に対して、「っじゃあ時間の大切さについてはどう思う?」と健くんは尋ねた。


 時間…。楽しい時間と嫌な時間、楽しい時間はあっという間にすぎて、嫌な時間は長く感じる。例えば、ゲームをしている時間は短く感じるし、勉強している時間は長く感じる。授業の時間と休み時間、平日の時間と休日の時間、予定があって忙しい日と、何もなくてのんびりした日は時間の感覚がまるで違う。


 時間がただの数の集まりだと考えると、一秒が60個で一分、一分が60個で一時間、一時間が24個で一日、一日が365個で一年、一年が12個で、私がこれまで生きてきた時間だ。


 私がこれまで生きてきた十二年という長い時間は、ちょうど健くんと出会う前の六年と、出会ってからの六年という時間に分けられる。


 やっと彼と一緒に過ごす時間の方が長くなりそうなところで、残念なことに小学校を卒業すると健くんとは離れ離れになってしまう…。こうしている間にも刻一刻と残された時間は過ぎ去っていく、そう思うと雫は何か行動しないといけない気がした。


「健くん!」


 雫の声に、健は少しびくっと体をのけ反らして目を丸めた。


「黙ってると思ったら、急に大きな声出すからびっくりしただろ。」


「あっ……ごめん。それよりさ……、夏休みの最後の日、一緒にお祭りいかない?」


 思っていたよりもすんなりと、雫は自分からその言葉が出たことに驚いた。いきなりの誘いに、健は一瞬きょとんとした顔になったが、にこやかに笑って雫に答えた。


「夏祭り?あぁ東山の祭りか。いいよ、二人とも宿題が終わってたらだけどね。」


「そうだねっ。っじゃあ、早く宿題終わらせないと。ほらほらっ!もっと急いで問題解きなよっ!」


「それで間違えたらもっと時間がかかるだろう……。そっちこそ、さっさと作文終わらせなよ。何々……私の思う幸せは……。」


「こらっ、勝手に音読しないでよっ!」


 その日は途中から雑談が増えて、課題の方はあまり進まなかったけれど、夏祭りにも誘うことが成功し、意気揚々と雫は帰宅した。自室のベッドに横になりながら、雫は「あとは…告白しなきゃな…。」と一人つぶやいた。


 ベランダに吊るした風鈴の音が響き、もうじき夏が終わろうとする涼しい風が吹き込んできた。夏休み最後の納涼祭りはもうすぐだ。焦る気持ちを抑えて、雫は告白の言葉を考えていた。


 夏休み最終日、雫は納涼祭に出かける前に鏡で自分の浴衣姿を確認した。薄水色の生地は涼し気な水面のようで、青のアサガオと赤の金魚の柄が水に浮いているように見える。少し大人っぽい浴衣に対して、帯は黄色い華やかなものを巻いてもらった。


 会場となる広場の高台にある、茶色の時計台の下で二人は待ち合わせた。少し早めに到着するように雫は家を出たが、既に時計台の下には、健が時計台の柱にもたれかかるようにして待っていた。


「お待たせしました。」


 木製の子ども下駄が地面を蹴る“カラン”と軽やかな音が鳴り、健は雫の到着に気づいた。


「おぉ、浴衣似合ってるじゃん。」


「ありがとう。ごめんね、お待たせして。」


「いや、こっちも今来たとこだよ。ほら、今年も夜店がいっぱい出てる。」


 高台から広場を見ると、真ん中に盆踊り用の太鼓が設置してあり、広場の周囲を囲むように、ガスランプのような灯りを輝かせて、色鮮やかな夜店が立ち並んでいた。


 雫と健はたこ焼きとフランクフルト、焼きそばを購入し、その後屋台の料理の濃い味に喉が渇いてラムネを購入した。


「っかぁ~、夏だね。」


 まるで大人がビールを飲むように、健はラムネの一口目を飲んだ。一しきり屋台を堪能した二人は、涼しい風が吹く高台に戻り、先ほどからベンチに座って広場の方向を眺めていた。


「なんか、おじさんみたいだよ。」


「大人になったら、僕もビール飲めるようになるのかな。全然美味しいと思わないけど。」


「わるーい、健くん飲んだことあるんだ。」


「ちょっと舐めただけだよ。」


 日が落ちて暗くなった広場の中央では、盆踊りの太鼓の音と民謡の音楽が鳴り響いている。広場から少し距離がある高台では、祭りの喧騒が風に流され、屋台の灯りが夏の幻のようにぼやけて見える。


「あのさ…。」


 雫は、遠い祭りの喧騒にすらかき消されそうな声で切り出した。


「健くんはさ、私が私立の中学を受験するって知ってる?」


 雫の問いに、健は広場の遠い灯りを見つめながら頷いた。


「だいぶ前に、母さんから聞いた。ここから結構遠いんだろ。」


「うん。多分、学校の寮から通うことになると思う……、もうすぐ、みんなにさよならしなきゃだね……。」


 雫の言葉に、健も沈黙してしまい、祭りの喧騒が大きくなったような気がした。高台の周囲では、秋の虫の鳴き声も聞こえる。


「そうだな……。地元の中学に通えないのは寂しい?」


 健は空気が重くならないように、軽めの口調でそう尋ねた。


「うん。寂しいよ……。私が私立の中学に行って……、健くんは寂しくない……?」


雫がこわごわと尋ねた問いに、健は静かに答えた。


「僕は、全然寂しくないよ。」


 雫はその言葉を聞いた瞬間、最初は聞き間違えたのではないかと思った。


 しかし、それが聞き間違いでないことに気がつくと、自分の心がどこか遠くへと飛んでいってしまい、胸の内が空蝉のように空っぽになった気がした。


 いくら健が自分に特別な感情を抱いてないのだとしても、少し冷たい……。私の知っている健くんはこんな人だったろうか、と雫の心の殻には悲しい気持ちが溢れた。


「えっ…と……、そっか……。」


 雫は今から、健に告白をするつもりだったが、その告白が成功する確率は零に等しいことに気づき、どうするべきか混乱した。告白なんてしたら迷惑かもしれない、という気持ちの一方で、やはりきちんと自分の気持ちを伝えることを優先したいと雫は結論を出した。


「あの、迷惑かもしれないんだけど……。一応さ……私もすっきりしときたいというか……、隠してたことが一つあって、言ってもいいかな。」


 半分泣き出しそうな気持ちを抑えながら、雫は健に了承を求めた。


「うん……、いいよ。」


「……ありがと。」


 雫は、ここ最近ずっと考えていた告白の言葉を思い返そうとしたが、それはもうどこかに消え去ってしまい、代わりに出てきたのは彼と出会った当時の記憶だった。


「……私ね、最初健くんと会った時、すっごく嫌な人だと思ったんだ。」


 健は黙って雫の話の続きを聞いた。


「でもね……。いつからか忘れちゃったんだけど、私は健くんのこと……、好きになっちゃってたみたいで……、健くんは別に私のこと何とも思ってないだろうけど……とにかく、私は健くんのことが好きです。」


 最後までしっかり言い切れた、そのことに雫は気恥ずかしさよりも、安堵の気持ちを覚えた。告白が成功するのは無理だと分かっていても、好きだという気持ちは伝えられた。返事は聞かなくてもいい。ただ好きだと伝えられた、それだけで十分だ。


 そう思ってもう帰ろうと健に背を向けた瞬間、後ろから抱きしめられる強い力を雫は感じた。


「えっ……、なに……?」


 自身の身体を引き留めている腕を見て、後ろから抱きしめているのが健であることに雫は気づいた。


「ごめん、僕も一つ隠してたことがあるんだ……。いや、二つかな……。」


 雫の耳元からは健の少し緊張したような声が聞こえる。健は雫を抱きしめた腕を少し緩めた。


「実は僕も……雫のことが、ずっと好きだった。低学年のときにいじわるしたのも、雫の注意を引きたかったからだ。」


 健は雫を抱きしめた腕をもう完全に緩めていたが、雫は驚きの余り、健の方へ振り返ることができなかった。


「僕は最初から……、木漏れ日の中で、ベンチに座って本を読んでる雫を見た瞬間から……ずっと一目ぼれだった。」


 その言葉を聞いて、雫は健の方へ振り返り、彼の胸に顔をうずめた。


「……ほんとう?」


 雫の問いに返事する代わりに、健はもう一度雫の身体を強く抱きしめた。どれくらいの時間、二人がぎゅっと抱き合っていたのか、どちらもよくは覚えていなかった。


 六年の蓄積された恋心という想いと、身体がくっ付いてる熱でヒートした脳が、夏の夜風に冷やされ始めた頃には、二人はもとのように並んでベンチに腰掛けていた。


「そうえばさ……。もう一つの隠してたことってなんなの?」


 一通り両想いだった嬉しさを噛みしめ合った後、少し冷静になった雫は、気になっていたそのことを尋ねた。


「あぁ、実をいうと……、僕も私立の中学に行く予定になったんだよ。しかも……、雫と同じ学校にだよ。」


 雫は驚きのあまり、口をぽかんと開けて、その直後に「えぇっ!?」と高台に響く声をあげた。


「いや、本当はさ。勉強がんばって、一般で受験しようと思ってたんだけど……、こないだ連絡が来てさ。サッカーの推薦がもらえることが決定したんだ。」


 四年の時に、雫が私立受験を考えてることを親の情報ネットワークから聞いた健は、自分も同じ私立に行けるようにと、密かに勉強へ力を入れ始めたらしい。


「ほら、あの頃からあんまり遊ばなくなったじゃん。頑張って勉強したんだけど、もとが頭そんなよくないからさ。結局私立を受けられるほど賢くはならなかった。だけど、ずっとやってたサッカーの方で推薦もらえてね。いやぁ、よかった。」


「そうだったんだ……。嬉しい。」


 そのまま二人はベンチに座って話し込んでいたが、納涼祭の終わりを告げる花火があがり、それを見終わったあと、二人は家路へと向かった。


「ところでさ……夏休みの宿題、読書感想文はいいの書けた?」


 納涼祭の帰り道、ふと健は雫に尋ねた。


「もちろんだよ。せっかく健くんにアドバイスもらったから、いい文章を書きたいと思って、あれからずっと読書感想文だけしかやってないよ。でも、満足できる自分の文が書けた!」


「そっか。それはよかった……、ってあれ? 雫って宿題であと残ってたの、読書感想文と自由研究じゃなかった?」


 健のその言葉に、雫は一瞬きょとんとした表情になったが、水が滾々と湧き出すように、焦燥感が胸に溢れてきた。


「あっ……。やばい……読書感想文に夢中になって、自由研究するの、完全に忘れてた……。」


 最後の夏休みの夜、祭りから帰宅した雫は画用紙を引っ張り出し、母親に泣きついて冷蔵庫の野菜でアルカリ、酸性を調べるという急ごしらえの自由研究を作り上げた。


 睡眠不足のまま始業式を迎えると、健はいじわるそうな顔で雫に近づいてきた。


「自由研究はいいのができたかい?」


「もう、大変だったって分かってるくせに……。」


 もちろん、急ごしらえの雫の自由研究は、校内表彰にかすりもしなかった。しかし、今年の雫の読書感想文は、健の感想文とともに校内表彰に選ばれた。

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空蝉コンフェッション 冨田秀一 @daikitimuku

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