最終話 夕映えの告白

/シアン -12

 五月八日、金曜日。お嬢との約束の日になった。

 ここまでの三日間。初めこそお嬢は気恥ずかしそうにしていたが。二日経つ頃には館にいつも通りの日常が流れるようになっていた。

 学校へ行くお嬢を笑顔で送り出し、館の仕事をこなしつつお嬢の帰りを心待ちにする。帰ってきたらお嬢との団欒を過ごし、寝る前には色を取り戻した絵日記を描く。

 だが、お嬢の様子は時を増すごとにどこかそわそわとし、落ち着かない様子だ。

 今朝なんて朝食から、俺の顔を見るなり目のやり場に困るような表情をしてみせ、珍しいことにバゲットを取り落としていたし。昼食の時間もサラダを口ではなくほっぺに食べさせるなど、普段のお嬢からは想像もつかない凡ミスを連発していた。

 俺の方はというと。いつお散歩に行くのだろうと思いながらも、なかなかそれを口には出来ないでいた。お嬢の様子が気になったということもあるが、催促するようで少しだけ気が引けたからだ。

 約束はしているのだし、お嬢から声がかかるまで普段通りにしていよう。

 そう思うたびに、『わんこなら、少しくらい直情的な方がかわいいと思いますけど』そんなベアトリスの言葉が思考に割り込んでくる。

 お嬢のわんこであることに誇りは持っているが動物じゃないし。理性というものがどうしても歯止めをかけるのだ。

 早十三年。見習いから執事であり続ける俺の人生というのも輪をかけているだろう。


 そうこうしている内に陽が傾き、もうすぐ四時になろうとしていた。

 約束だから大丈夫と自分に言い聞かせながらも、不安に思う待ち時間を一人自室で過ごす。

 今か今かとそわそわし、部屋をぐるぐると歩き回っていると、廊下から静かだが確かな足音が聞こえてきた。

 それは俺の部屋のドアの前で立ち止まる。


「すぅーはぁー」


 となぜか深呼吸する息遣いが聞こえ――、コンコンと控えめにノックされた。


「シアン、いい?」

「は、はいっ」


 返事する声がひっくり返る。心待ちにしていたお嬢だったからだ。

 開かれた扉から一歩、バランスを崩しそうなぎこちない足の運びで部屋へ入ってきたお嬢。

 ナイトドレスのような黒いシックなワンピース。髪はいつものツーサイドアップではなく、オシャレに編み込んだハーフアップにしていた。

 黒に銀髪が映え、熱いため息が漏れるほど綺麗だ。


「お嬢、今日はまたずいぶんとオシャレですね」

「お休みに出かけるんだから、オシャレくらいするでしょ普通」


 その割にいつもはヘアアレンジをあまりしない気がする。それにもう夕方なんですが、とはさすがに野暮天だから口にしない。


「……どう、かな?」


 俯き視線をそらしながら控えめに尋ねてくる。


「もちろん、似合ってますよ」

「それだけ?」

「かわいいです、お嬢」

「……そう?」


 照れくさそうに髪に触れる。その際にチラリと見えた後ろの髪に、以前ベアトリスからプレゼントされた銀細工の髪飾りと藍色のリボンが結ばれていた。お嬢の綺麗な銀髪にこれがまたよく映える。改めて感心するとともにベアトリスには感謝せざるを得ない。

「こほん」と一つかわいらしい咳払いをすると、お嬢はすっと姿勢を正した。その凛とした在り方は、静かに佇む真っ白いユリのように美しい。


「シアン、そろそろ行きましょう。きっといい頃合いだと思うから」

「どちらへです?」

「ついて来れば分かるわよ」


 そう言って笑い、お嬢は弾むような軽快さで部屋を出た。

 頃合いということは時間が限られるということだ。どこへ行くのだろうと少しだけ気になる。

 しかしお嬢とお散歩に行けるのだから、俺はどこだっていい。ついていくだけだから。


「はやくー」


 廊下からの呼び声に、俺は「はい、いま行きます!」と元気よく返事をし、自室を後にした。



 館を出てトラムに乗り、街まで行くとそこからバスに乗り換えた。

 バスの行き先は『教会広場』。ラスクリーネの高台だ。

 窓際に座るお嬢は、流れていく街の景色をじっと眺めている。隣に座る俺に見向きもしないで、ただじっと。

 膝が触れるほどの至近距離。瑞々しい花の香りと、揺られるたびに当たるお嬢の肩に安心感と心地好さを覚える。目を閉じるとウトウトしてしまいそうになるが、まるで待ったをかけるように、ふと誘われた理由へ考えが及んだ。

 俺は真実を知った、そして決意をした。

 だが、お嬢はそのことをまだ知らない。勝手にお嬢も同じ気持ちであってくれたならと思いはしたが。

 もしもお嬢が決意したことがそれではなかったら?


 少しだけ思い返してみる。

 前を向いたと言った時のうら悲しげなベアトリスの顔。

 思い悩みながらも選択し、俺のために決意をしたと告げた時のベアトリスの瞳。

 いまにして思えば、あれは憐憫だったのではないか? 思い違いである可能性もあるだろうが、そうだと仮定すると、このお誘いは少しどころではなくマズいことに……。

 もしかして、俺はクビにされるのではないだろうか。俺をクビにする話をするためにいま高台へ登っているのだとしたら?

 そう思うと不安が一気に押し寄せてきた。お嬢の横顔を見るのが辛い。

 決してそうだと決まったわけじゃない。ただの散歩に誘うにしてはおめかしもしているし。

 もう教会広場のある高台まで数百メートルもない。坂を登るバスはこんなところで停車しない。それに、さすがにここまで来てはもう引き返せない。

 悩み、緊張し、落ち着かずに目が泳ぐ。そわそわと挙動不審になっていたところ、


「大丈夫? もしかして車酔い?」


 とお嬢が顔を覗き込んできた。この際、車酔いだからと気分が悪いことにして降りた方がいいのでは。そんな考えすら一瞬脳裏を過ぎるが――しかしせっかくお嬢が誘ってくれたお散歩なのだから――と結局お嬢を第一に想う心に上書きされるのだった。


「いえ、大丈夫です。執事は車に酔いませんので」

「それどういう理屈なの?」

「お嬢、これは屁理屈ですよ。いや、ただの願望ですかね」

「なにそれ」


 お嬢が無邪気に笑う。その様子からは、クビにする云々を話しにいくような雰囲気は感じられない。

 戸惑い、心細い気持ちを抱えたまま、やがてバスは教会広場の停留所へ到着した。

 バスを降りると、吹き抜ける春の夕風に頬を撫でられる。微かに桜の匂いがした。

 広場の奥にはハチミツ色のレンガで作られた大きな教会がある。ひと際高い塔の天辺には大鐘楼が置かれ、祈りの時間と正時毎で違うメロディの鐘が鳴らされる。

 五百年以上もの間、人々の祈りを毎日のように聞き届けてきた教会は、この時間でもやはり多くの信徒を受け入れていた。

 大鐘楼を見上げたお嬢は懐かしそうに目を細め、決然と背を向けて展望台へと歩いていく。

 コツコツとパンプスが小気味よく石畳を叩く。俺はその音について歩き、手すりに手を置いて街を見下ろすお嬢のすぐ後ろに控えた。


「見て、綺麗ねー」


 振り返ったお嬢から並び立つ許しを得られたので、一歩二歩と進んで隣に並ぶ。

 俯瞰し目に飛び込んできた景色にハッと息をのむ。

 夕映えの赤橙に焼かれたハチミツ色の街並みは、茶色い屋根瓦が焦げたパン耳に見えた。さしずめ木組みの部分はラッピング。


「わたし、この町の風景で一番好きかもしれない。高台から見下ろす、夕焼けに染まるラスクリーネの街並みが」

「たしかに、信じられないくらいに綺麗ですね。なんだかこんがりと揚がったラスクに見えてきますよ」

「ふふっ、本当ね。美味しそう」


  笑うお嬢の横顔に見惚れる。同時、別荘へ行った時のことがふと脳裏に蘇った。

 いま思い返しても辛い出来事だ。お嬢を傷つけ、悲しませ。そして自らも傷つき悲しんだ。

 もしもあの時、俺とお嬢の関係について知っていたのなら、もしかしたら違っていたかもしれない。今だからそう思えることではあるが、けれど果たして本当にそうだったろうか。

 あの時に既に知っていたとしても、俺はきっとふさわしくないと思ったかもしれない。

 あの日からお嬢と話せなくなって、悩んで、周りに話を聞いてもらって。そうして得られた答えに行き着けなかったら、恐らく変われてはいなかっただろう。

 その時、麓から涼風が吹き上がり、お嬢の銀髪をそよそよと揺らした。まるで夜空を流れる天の川のように、キラキラと夕陽に煌めいて見える。


「この景色をね、シアンと二人で見たかったの」

「俺と二人で、ですか?」

「うん。前に誘ってくれたじゃない? 結局わたしのせいで来られなかったけど……。本当はわたし、嬉しかったのよ?」


 嬉しいと、そう言ってくれたお嬢の頬がほんのりと桜色に染まる。はにかむ顔も、風になびく髪も。正直、街並みよりもずっと眺めていたい。お嬢の傍で、ずっと。


「俺も、お嬢と来られて嬉しいです」

「いまは? わふわふしてるの?」

「お嬢といる時はいつでもわふわふしてますよ! もちろん今だって」

「そうなんだ……」

「この景色も、時間も。一生の宝にしますね!」

「……うん」


 今日の絵日記はこれで決まりだな。お嬢と一緒に展望台から街を眺める黒い犬。

 幸せな時間の切り抜きだ。

 しばらくの間、互いに言葉もなく街を眺めていた。聞こえてくるのは街の喧騒と、広場にいる人々の声だけ。二人の間には、穏やかで親密な沈黙だけが横たわっている。

 また一つ、取り戻した日常を感じることができた。

 すると突然、教会の鐘が午後五時を知らせるメロディを奏でる。祈りの時間まであと一時間。

 広場に目をやると、先ほどよりも人の数が増えていることに気付いた。先に個人的な祈りを済ませるためだろうか、人々の足は揃って教会へと向かう。

 そして少しもしない内に、辺りにいた人々はほとんど姿を消し、広場は閑散としてしまった。次のバスがくるのは三十分後。そうしたらまた賑やかになるに違いないだろうが。

 やはりこの時間に高台へ来る人たちは、大抵が祈りを捧げるためにやってくる敬虔な信者なのだろう。ともすれば、俺たちは少しだけ外れた存在なのかもしれなかった。

 街に暮らす人々は、展望台からの景色などに今さら興味はないのだろうと、そんな風に少し寂しくも思うが。……いまだからこそ分かる。

 身近であればあるほど、その存在や価値に気付きにくいものなのだと。


 鐘の音が鳴りやむ頃。

 お嬢へ視線を戻すと、胸の前で小さく拳を握っていた。かすかに息を飲み込んでから、何かを決心するようにコクリと頷く。


「――シアン、聞いてくれる」


 穏やかなお嬢の声とは裏腹に、ついに来たと、俺の心臓は何を切り出されるのかと恐縮する。体を強張らせながらも、「はい」となるべく落ち着いて返事をした。

 お嬢は空を見上げると、静かに深い呼吸をしてから花弁のような薄桃色の唇を開く。


「……わたしね、シアンと別荘へ行った時にすごく傷ついたんだ」


 その第一声に、肺を引き絞られるような息苦しさを覚える。

 忘れたいこと、でも忘れられないこと、きっと忘れてはいけないことだと、自責と後悔を奥歯で噛みつぶす。苦い味がした。


「展望台でシアンに言われた言葉になぜかすごく苛立って、でも心は苦しくて、切なくて、悲しかった。それだけじゃなくて、シアンがほかの女性と話してるのを見た時だって、どうしてか嫌な気持ちになったの。でもね、シアンと距離を置いてから、なんでそんな気持ちになったんだろうっていろいろ考えてみた。ずっとずっと考えてたら、わかっちゃったのよ――」


 色濃さを増すラスクリーネを見つめ、お嬢は優しげに目を細める。


「わたしは、シアンのことが好きなんだって」


 縛り上げられるように息苦しかった胸に、スッとお嬢の言葉が染み渡る。するすると解けていくように心は軽くなり、深い喜びと温かさがそれを追いかけてきた。

 好きという言葉が耳に木霊し、しまいには胸がカッカと燃えるように熱くなる。

 ゆっくりとこちらへ体を向けたお嬢の顔も、真夏の暑さに火照るように赤くなっていた。


「わたしはシアンが好き。……あなたの返事を聞かせて」


 俺の目を真っすぐに見つめてくるお嬢の瞳はまったくぶれていなかった。心を眼差しに乗せるかのようにして真摯に想いをぶつけてくる。

 そして俺は同時に理解した。これが、ベアトリスが言っていたお嬢の『決意』なのだと。


「俺は――っ」


 返事をしかけてつと言葉を飲み込む。そして親父から聞かされた話を思い出す。

 お嬢が十八歳になったら伝えてくれという、ラルフ様の遺言。これは旦那様と、亡き父との間で交わされた男の約束だ。その歳を迎える前のお嬢に返事をし、そのような関係になることは許されない。嬉しさ余って俺がその約束を反故にすることなどできない。

 俺を拾ってくれた旦那様にも、病床でそれを聞き届けた親父にも申し訳が立たなくなる。

 逡巡する間にも、お嬢はただ黙って俺を見上げていた。一切の曇りもない、無垢な宝石にも似た青い瞳。澄んだ青空みたいで、大好きだ。

 絆されそうになる心を必死に抑え込んだ。いまはまだ、駄目なのだと。


「あの、……お嬢……」

「ん?」

「そのお返事なんですけど。あの、来年のお嬢の誕生日まで待ってもらえませんか……?」

「えっ、なんで一年も先なの? いやよ、そんなに待てるわけないじゃない。それとも、そんなに考えなきゃ答えられないことなの?」

「そういうわけでは、ないんですけど……」


 むっとするような困惑するようなお嬢の顔が俺を責める。

 一大決心をして告白してくれたのだ。その返事を一年も先延ばしにされることを思うと理解は出来る。けれど……


「……わたしのこと、嫌い?」


 もげるのではと思うほどぶんぶんと首を振り、咄嗟に声を上げる。


「そんなことっ! あるわけないです。……でも、これだけは今すぐ返事を出すわけにはいかないんです。忠義なので……」


 いつもの口癖が、いまは力ない言葉となってこぼれ落ちた。

 情けなく思う心が頭を垂れさせる。


「またそれなの……。その忠義ってのとわたしは、どっちが大事なわけ?」

「俺にとってはどちらも同じくらい大切なことです……すみません、いまはこれしか言えなくて」

「そう……」


 断腸の思いで告げた俺に、寂しそうに呟いて今度はお嬢が顔を伏せてしまった。

 悲しませてしまっただろうか、また傷つけてしまったのだろうか。せっかく二人でこうしてお出かけ出来るようになったのに、また以前のような険悪ムードになるのは嫌だな。

 申し訳なさと不安と心配と緊張で胸がつぶれそうだ。

 おろおろと狼狽えながら気を揉んでいると、お嬢が不意に顔を上げた。

 先ほどとは違い、見上げてくる瞳が頼りなげに揺れている。


「……わたしは、期待してていいの?」


 先の見えない道に不安を抱くような顔をして問う声に、


「お嬢が、期待してくれるのであれば」


 俺は真っすぐにその瞳を見返して、お嬢の心に言葉をそっと置くようにはっきりと告げた。

 一度、二度とお嬢の目が瞬く。

 ややあってから、小さな吐息とともに頷いた。


「……わかった、待ってる。わたし、ちゃんと待ってるから。……だから約束して」


 言いながら軽く両腕を広げた姿がまるで聖母像のようで、そのポーズに困惑する。

 お嬢はなにをしているのだろう、約束とは跪いて宣誓でもすればいいのだろうか? と不思議に思っていると、


「――ぎゅって、抱きしめて」


 桜も恥じらうほど頬を紅く染めて、囁くようにしてそう言った。

 別荘へ行った時、雨宿りに入った洞窟では背中越しだった。お嬢の顔を見ていなかったし、あの時は何も知らなかったから割とすんなり出来た気がするが。

 それが想いを自覚し事実を知って、しかも真正面からそうねだられると、こうもドギマギするものなのか。

 鼓動は正しくあろうとするけれど、どう頑張っても早鐘を打ってしまう。


「あの、お嬢、それは少しばかりマズいのでは……?」

「約束してくれないの?」

「い、いえ約束ならしますから――」

「だったらぎゅってして」


 少しだけ拗ねながらそうしてくれるのを待つ姿に、昔抱っこをねだってきた時のことをふと思い出した。親父が忙しくてお嬢のお守りを頼まれたあの時も、こんな顔をしていたな。

 けれどあの時はまだ互いに子供、いまはお嬢も立派なレディになった。まだ階段の途中ではあると思うが、それでも素敵な女性になったのだ。弥が上にも緊張する。

 それを知ってか知らずなのか、なんだか今日のお嬢は少しだけイジワルに見えてきた。

 だがこのままでは埒が明かない。お嬢はいつまでだってここでこうしているだろう。

 幸い、辺りには俺たち二人以外にほぼ人はいない。あと三十分もすれば、祈りへやってくる人がまた集まってしまう。するならまだ注目されることのない今の内だ。


「――お、お嬢、だったらあの、後ろを向いてくれませんか? さすがに気恥ずかしくて」

「いやよ。前からが、いい…………ダメ?」


 見上げてくる円らな瞳が潤んでいる。お嬢も相当恥ずかしさを忍んでいるのだと窺える。

 普段のお嬢を考えれば、それは容易に想像がつくことだった。

 主人にだけそのような思いをさせては駄目だろう。俺はそう思い覚悟を決めた。

 どの道、一年後にもこんなことになるかもしれないのだし……。


「じゃあ、いきますよ?」

「……うん」

「いいですか? ぎゅってしますから」

「うん、だからいいってば」

「……あの、目を瞑っててくれませんかね?」

「イヤ。シアンがどんな顔するのかじっと見てるから」

「~~~~っ」


 どうしたって今の状態からは変わりそうにない。俺は諦めて肩を落とす。

 こういうのはノリと流れだ。ごく自然に、当たり前のように。ベアトリスやセバスチャンに突っ込むくらいな感じで……。

 背筋を伸ばして、一度大きく深呼吸。

 けれど心臓は落ち着きなく、どこぞの部族が夜通し太鼓を打ち鳴らすように煩いくらい跳ね回っている。肌を撫でるそよ風がひんやりと感じられ、顔どころか耳までも熱くなっているのが自分でも分かる。

 きっと同じくらいなのだろう、真っ赤な顔をしてじっと見つめてくるお嬢の瞳を見返しながら、俺は近づき、そして流れるように――ぎゅっとした。


「――あっ」


 胸元で、お嬢が小さく驚くような声をあげる。

 不意打ちというほどではない気もするが。もう少し悩むかと思っていたのかもしれない。

 両腕をしっかりとお嬢の背中で交差させ、壊れ物を扱うように優しく抱き寄せる。

 体のやわらかさと温かさ。互いの心音を交換し合う距離。ふわりと立ち上った花の香りに混じって、懐かしい少女の匂いが鼻腔をくすぐった。

 穏やかで優しくて。花壇の近くで一緒にお昼寝をしたことを思い出して安心感を覚える。

 いっそのこと、このまま告げてしまいたい衝動に駆られるが、口を真一文字に閉じてグッと息を飲み込んだ。

 たったの一年だ。まともにお嬢と会えなかった日々を足してもそれに及ばない。

 だけどもう大丈夫。どのような関係になったとしても執事であることと、お嬢への想いが心にある限り、俺はもう迷ったりしない。

 だから大丈夫。

 俺の背中に腕を回して、お嬢がぎゅうっと抱きしめてくれる。しばらくの間胸に埋めていた顔をおもむろに上げると、安心しきったような柔和な顔をしていた。


「……約束、ぜったいに忘れないでね」

「はい、絶対に忘れません。来年になったら、その時こそはちゃんと答えます。必ず」

「うん」


 頷いて、お嬢は再び俺の胸に「ん~」と嬉しそうな声を出しながら額を擦りつける。

 くすぐったくて、照れくさくて、なんだか少し恥ずかしい。

 夕焼けに染まる街も、穏やかな風も。静かに見下ろしている教会の大鐘楼も、いまだけは、俺たちを祝福してくれる為だけに在る気がした。

 それから少しして、お嬢はそっと体を離す。名残惜しい気もするが、三十分置きのバスがもう少しで来てしまう。そろそろ帰らなければ、館のみんなも心配するだろう。

「んん~~はぁ――」とお嬢は寝起きの猫みたいに一度大きく伸びをすると、手すりに背もたれながら空を見上げた。


「あ~あ。早く来年にならないかなぁ。もしも時間を進められる砂時計があったら早く落とすのに」

「そんな道具があれば、確かに誕生日まですぐですね」

「あ、でも誕生日よりも前で止めるわ」

「どうしてです?」


 尋ねる俺の顔を見て、お嬢は懐かしいものでも見るような優しい目つきで微笑む。


「十一月一日、シアンの誕生日でしょ。その一週間くらい前で止めなきゃね」

「一週間も前でですか?」

「プレゼント選ばなきゃいけないから」


 毎年なにかしら贈られる誕生日プレゼントは、一週間も前から選んでくれていることをいま知った。去年のスワロフスキーのカフリンクスも、一昨年のネクタイも。それ以前から贈られてきた数々のプレゼントだって。

 そこでふと思い立ち、少しだけいじわるな質問をしてみたくなった。


「お嬢は、もしもその砂時計がたった一度しか使えなかったら、ご自分の誕生日と俺の誕生日、どちらに使います?」

「そんなの、シアンに決まってるじゃない」


 なんの躊躇いも迷いもなく、お嬢はそう言ってくれた。

 答えを先に延ばすことへ、最初はそんなに待てないと駄々をこねたのに。

 嬉しさとお嬢の優しさに泣いてしまいそうだった。


「それに、わたしの誕生日の前にはメイドのみんなの誕生日もあるしね。まだ先の話だけど、誕生日、ちゃんとお祝いしましょ。楽しみにしててねっ」

「はい!」


 気持ちよく返事をする俺に頷き返したお嬢は、最後に街の景色へ目を向けた。

 空にはわずかに群青が混じり始め、夕焼けは押し流されるように少しずつ西へと追いやられていく。

 今日というこの日に、お嬢と綺麗な景色が見られたことへ感謝したい。

 そして、いま一度俺は心に刻む。

 館のみんなと、この先もずっとお嬢を守り続けていくことを。

 俺とお嬢の関係がどう変わろうとも、俺はお嬢の執事としてもずっと傍に在り続けることを。

 なによりも、俺はお嬢のわんこであるということを!

 来る明日へ向けて沈みゆく太陽に、ラスクリーネの街並みに、俺はそう強く心に誓ったのだ。



                                      ~fin~

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アッシュベリー家の犬 黒猫時計 @kuroneko-clock

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