殺人鬼とホワイトクリスマス

千町

殺人鬼とホワイトクリスマス

 12月24日。

 雪のちらつく夜の住宅街を、一人の少女が小走りで駆けていく。

 呼吸は荒く、絶え間なく吐き出される白い息は静まり返った街に溶けて消える。ビニール袋を提げる小さな右手は、かじかんで赤く染まっていた。年の頃はおよそ6〜8歳くらいといったところだろうか。


 街路には少女以外に人の姿は無い。クリスマスの住宅街は驚くほどに静かだった。それぞれの人間がそれぞれの家でそれぞれの聖夜を過ごしているのだろう。住宅の窓から漏れる光が、優しく少女の足元を照らした。

 ここにあるのは、人の住む家と、頭上に瞬く数多の星と、雲の隙間から覗く白い月と、暗闇を照らす街灯と、イルミネーションの色とりどりの光たち。音の殺された世界の中で、動くものは舞い落ちる雪と少女だけだった。


 やがて少女はその足を止める。そこは、とある一軒家の目の前だった。何の変哲もない、ごく普通の一軒家。しかし、少女の瞳に映るその家は、12月の凍えるような夜の中にあってなお、あまりにも冷たい色を湛えていた。


 閉じられたカーテンの隙間から室内の明かりが漏れ出ている。少女は自分を待っているだろう父と母のことを想像してふいに足が竦んでしまった。ここから先に進みたくない。いやだ、帰りたくない。でも、帰る場所はここしかない。今ここから逃げ出したら、あの二人はどんな顔をするだろうか。そんなの決まりきっている。少女にとって、未来とは予め決められた一本道だった。そこから逃れることは、絶対に叶わない。


 少女にとって、この家は絶対だった。

 絶対的で、絶望的な、ただ一つの世界だった。


 そんなことを考えている間にも、刻一刻と時は流れていく。無情なセカイは、少女を待っていてはくれない。

 少女は重い息を吐いた。覚悟とも、諦念ともつかない幼い吐息は、一瞬の内に夜に溶けてゆく。


 これ以上待たせる訳にはいかない。

 少女が一歩を踏み出そうとしたその時だった。


「やあ、おかえり」


 不意打ちだった。絶望の内に身を投じようとしていた少女にとって、その声は、その声が持つ暖かな響きは、世界の外から唐突にやってきた異物以外の何物でもなかった。


「あ、あの……どちら様、でしょうか」


 自宅の玄関から出てきた見知らぬ青年に向けて、少女は若干の恐れを込めて言う。

 眼鏡を掛けた長身の青年は、そんな少女を愛おしそうに見つめて口元を綻ばせた。


「僕は君の仲間だよ。さあ、おいで」


 ドアを開け放して手招きをする青年に、少女は立ち止まったまま動かない。

 少女は感じ取っていた。或いは、あまりにも非現実的なこの状況が少女に囁いたのかもしれない。

 このひとは化物だ。理解の外からやってきて、突然に世界を壊す化物。

 しかし少女は青年の暖かい眼差しに、自分がずっと夢見ていたもの、ずっと欲していたものを見つけたような気がした。星に願いが届いたような気がしたのだ。その願いが何かも分からぬまま。


 少女は右足を踏み出した。その一歩は、これまで少女が踏み出してきたどの一歩とも異なる意味合いを持っていた。

 少女は生まれて初めて、自分の意思で前へと進んだのだ。


 薄い靴底を通して、新雪を踏みしめる感触が少女の身体を打った。



 



「さあ、中に入って」


 青年に連れられて自宅の廊下を進んだ少女が見たのは、床に倒れ伏した両親の死体だった。

 二人の男女は、仲良く一つの血溜まりに沈んでいた。


「あの、これ」


 少女は恐る恐る青年に問い掛ける。


「これ、あなたがやったんですか」


 青年は少女の方を振り返ると、嬉しそうに笑って、言った。


「うん、そうだね。僕が殺った」


 そう言うと、彼は徐ろに羽織っていたコートを脱いだ。そうして顕になった彼の真っ白なセーターには、赤黒い血がべったりと染み付いている。


「これ見て。服が返り血で真っ赤になっちゃった。まさかここまで勢いよく血が吹き出すなんて、流石に予想外だったよ」


 青年は自慢話でもする少年のように目をキラキラと輝かせて言う。


 それを呆然と見ていた少女は、白いセーターに広がるまだ新鮮な血液のシミを見て、思わずといった風に呟いた。


「サンタさん……」


 少女は自身のその言葉がキッカケとなったのか、堰を切ったように大粒の涙をぽろぽろと零す。


「サンタさんだ……。サンタさんがプレゼントを持ってきてくれたんだ……」


 青年は突然泣き始めた少女に面食らっていたようだったが、やがてその言葉の意味を悟ると、優しい笑顔で少女に微笑みかけた。


「たしかに、服が真っ赤でサンタさんみたいだ」


「うん……。昔絵本で見たサンタさんにそっくり。白いおひげはないけど」


「トナカイもいないし、ソリもないけどね」


「でも、サンタさんだよ。だって、わたしにプレゼントをくれた。わたしが、一番、欲しかったものを」


「喜んでくれたなら、僕も嬉しいよ」


「うん、すごく、すごくうれしい」


 青年は少女の涙が収まるのを待ってから、何かを思い出したように言った。


「それでは、そんなサンタさんから一つ質問があります」


「……?」


「君は、良い子ですか?」


 青年の言葉に、少女は息が詰まったような気がした。良い子。


「わたしは……」


 少女の脳裏に、両親の言葉が蘇る。何度も何度も繰り返されてきた光景が、再び少女を支配する。

 なんでオマエは良い子にできないんだ。オマエみたいな悪い人間は……。悪い、人間。わたしは悪い子。いたい。いたいよ。ゆるして。良い子にするから。なんで、どうして。なにがダメだったの? わたしが悪い子だから? ごめんなさい。いたいよ。いやだ、いやだ、いやだ……。


「大丈夫だよ」


 不意に聞こえた優しい声がやけに力強くて、少女は、なぜか泣きそうになった。泣いてしまった。


「大丈夫だよ。あいつらはもうこの世にいない。この家に、君を傷つけるヤツなんて一人もいないんだ」


 少女は涙でぼやけた視界の中、床に倒れ伏す両親だったモノを見る。


 ピクリとも動かない。その手が、足が、少女を傷つけることはもう無い。


 その手が、箒を、リモコンを、水筒を、鉛筆を、コンパスを、アイロンを、ビール瓶を、包丁を、握ることは永遠にない。その口が不気味に開くことは、もう無い。


 その身体は血に塗れて一寸たりとも動かない。その大きな身体が起き上がることは、もう無い。


 アイツとコイツは、もう死んでいる。

 アレとコレは、もう動かない。


 その事実が実感となって少女の胸に広がってゆく。目の前の、決して覆ることのない現実が、あまりにも頼もしい。


 気付けば、涙は止まっていた。

 代わりに、少女の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。


「わたし、わたし……。悪い子じゃ、ないです」


「わたし、良い子です。これまでも、これからも、ずっとずっと、良い子です!」


「よし、じゃあそんな良い子の君には、サンタさんからもう一つプレゼントがあるよ」


 そう言うと青年は死体を避けてキッチンへ向かい、白い大きな袋を掲げてみせた。


「ごちそうだ。ケーキもある。一緒にお祝いしようよ、ぼくらが呪いから解き放たれた日を」


 少女は手に提げたビール缶の入ったレジ袋を一瞥すると、それを放り捨て、青年の待つ暖かい食卓へと小走りで駆けていった。少女が死体の側を通り過ぎた時、跳ねた赤の飛沫が母親の顔に降り掛かった。血に沈んだ虚ろな目は、もう、何も映してはいない。






「どう?美味しかった?」


 少女と青年は木製の食卓に向かい合って座っていた。ちょうど今最後のチキンを食べ終わった所だ。少女にとってこの三十分間は、驚きと発見に満ち溢れた素敵な時間だった。


「あの、すごくおいしかったです……!」


「なら良かった。まあ、全部市販品なんだけどね」


「……?」


「あはは、分かんないか。でも、美味しいよね、市販品」


「……??」


「世の中にはね、市販品より手作りの方が良いって考え方の人が大勢いるんだよ」


 なんでわざわざ手作りのものなんて食べるんだろう、と少女は不思議に思った。自分が食べるのは大体が冷えた残飯だったし、父だって飯が不味いと言っては母を殴っていた。


「まあ、手作りってのも悪くはないよ。そんなことより、ケーキを食べよう」


 青年は立ち上がると、中庭が一望できる大きな窓の方へ歩いていった。


「雪、綺麗ですね」


 窓の外では、一面に降り積もった雪が暗い世界の中で白く輝いていた。


「そうだね。ホワイトクリスマスだ」


「名前があるんですか」


「特別なものには名前があるものさ」


 青年が窓を開けると、柔らかな冷気が室内に流れ込んでくる。剥き出しになった夜の闇は、此方に向けてぽっかりと大口を開けていた。


 完全なる静寂の世界がそこには横たわっていた。雪が全ての音を吸収しているようだった。その世界がどこまで続いているのか知りたくて少女は椅子から立ち上がろうとしたが、それよりも早く青年は外に置いてあった袋を手にするとさっさと窓を閉めてしまった。


「ケーキは外に置いておいたんだ。ここの冷蔵庫はなんとなく使いたくなかったからね」



 少女は少しだけ浮かせた腰を椅子に落とすと、ケーキの方に意識を持っていった。


 席についた青年が袋から取り出したのは、真っ白な長方形の箱だった。その徹底的な白さに、少女の目は釘付けになる。青年が箱を開けると、中には二組のショートケーキが入っていた。


「わあ」


 綺麗、だと思った。白い、とも思った。苺は、びっくりするほど赤かった。

 少女の目には、目の前にあるものが魔法の食べ物のように映った。


「これ、どうやって作るんですか……?」


「どうやるんだろう。凄いよね、まるで彫刻だ。クリームとスポンジの彫刻」

 

「お兄さんみたいです……」


 お兄さん。少女は、青年のことをそう呼ぶことにしたのだ。そこに違和感はなく、心の中でそう呼べば呼ぶほど、少女の中でお兄さんはお兄さん以外の何者でもなくなっていった。


「それは、白と赤が僕の服みたいっていうこと?」


「そうです。あと、芸術的なところ」


「それじゃあ、例えば、死体を雪の上に放り投げでもしたらほとんどショートケーキなんじゃないかな。芸術っぽいし」


「確かに芸術っぽいですね」


 青年がフォークを生クリームの彫刻へ突き入れる。見事なバランスで成り立っていた世界は崩壊し、みるみる内に消費されてゆく。


 少女は青年に習って破壊と消費を繰り返しつつ、視線は自然と窓の外へ引き寄せられていた。雪は未だに降り続け、この街の全てを覆い隠そうとしている。


「お兄さん。窓の外はどうでしたか?」


 少女は堪えきれずに聞いた。青年が何を感じているのか知りたかったのだ。未知の世界を知っている青年が、何を思ってこの景色を眺めているのか知りたかったのだ。


「それは、さっき窓を開けた時の感想?」


「はい、そうです。どんな感じでしたか?」


 青年は少しばかり考え込む仕草をすると、ぽつりと言った。


「夜の音がしたかな」


 




 青年は少女にお風呂を勧めてこの家を出ていこうとしたが、少女がそれに勘付き、必死に引き止めたことで、青年は今夜だけこの家に泊まることとなった。


 すると今度は以外なことに、青年の方から一緒に寝ないか、という提案がなされ、少女と青年は小さなベッドに身体を押し込め、二人揃って天井を見上げていた。


 窓からは薄く月明かりが差し込んできて、闇の中から二人の身体を掬い取っていた。


「ねえ、お兄さん」


 少女は天井を見つめたまま言う。


「なんでお兄さんはあの二人を殺したの?」


 青年もまた、天井を見つめたまま答えた。


「殺さなければならなかったからだよ。僕が前に進むためには、呪いを解く必要があった。でも、まあ、そう簡単にはいかなかったかな」


「そうなの?」


「世の中ってのは複雑なんだよ。人の心もね」


「呪いっていうのは?」


「君が知る必要はないよ。君はもう解放された。君がそれを知らない限りは、君がそれに縛られることはない」


 青年は窓の外に視線を移した。雪に沈む街を眺めているその瞳からはどんな感情をも拾うことができなかった。多分それは、自分がその感情を知らないからだ、と少女は思った。


 少女もまた窓の外の世界に意識を移した。


 雪がしんしんと降り積もっている。


 音のない、静寂な夜。


 世界が、クリスマスに覆われている。






 翌朝少女が起床したときには、もう青年の姿はなかった。


 代わりに、部屋のテーブルに手紙が一枚残されていた。


 それを読み終えた少女は、手紙を丁寧に畳むと、それをパジャマのポッケに入れて自室を出た。


 一階のリビングに降りると、そこには、昨日見た光景が変わらず広がっていた。


 朝の清涼な空気が、少女の肺を満たす。大きな窓から柔らかな朝日が差し込んでいる。床では両親が血溜まりに沈んでいる。


 もう、自分は大丈夫だ。


 少女はリビングの窓を開けた。


 一面の銀世界が、目の前に広がっている。


 今日から、新しい世界が始まる。


 新しい生活が始まる。


 希望に満ちた、キラキラした日々が。


 ありがとう。


「ありがとう、お兄ちゃん」

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