ニャンダフル・ワールド
真野てん
ニャンダフル・ワールド
彼は、自他共に認める極度の方向音痴だった。
ひとたび家を出れば、北を西に進むのかというほどの驚異的な迷い方をする。かつて友人たちと出掛けたときなどは絶対にはぐれないようにと、移送中の犯人よろしく腰紐を厳重にまかれたものである。
しかしここからが彼の凄いところで、談笑する友人たちが横並びで歩いていると、ふと彼の姿が見えないことに気が付いた。きっと興味のない話題だったので、後ろから静かに付いて来ているのだろうと一同が振り返る。するとそこに居るはずの彼の姿はなく、ただ友人の手にした腰紐の輪っかだけが、ずるずると地面に引き回されていたのである。
まったくどうやって腰紐をすり抜けたのか、しかも誰にも気付かれることなく。
もはやここまで来ると特殊能力と言ってもいいだろう。結局そのときは、彼が友人たちと合流することはなかった。
またあるとき。
どうにかしていつも家には帰ってくるものの、彼が行方不明になっている間は心配でおちおち遊んでもいられないということで友人一同は彼の家に集まった。
銘々テレビゲームをしたり、漫画を読みふけったりするなか、気を利かせた彼が冷たいものでも出そうかと言うので、皆素直に彼の心遣いを喜んだ。
だがこれがよくなかった。彼は部屋を出たまま、それから小一時間は帰ってこなかったのである。しかし、そこは友人たちもさるもの。「もしや」と思い、トイレに行ったついでに家中を探し回るが彼の姿はない。言っても一般のご家庭である。
部屋の数など、それこそ数えるほどしかない。「自分ちで迷子か」「これはいよいよ末期だ」などと友人たちが口々にもらしていると、唐突に部屋のドアが開いて彼が姿を現した。
手にはどういうわけだか、上部をカットされた青い椰子の実と、人数分のストローが握られていた。
「すまん。時間掛かった上に冷たくないけど飲んでくれ。ココナッツミルクだ」
さらりとそう言った彼の鼻先は、ちょっと日に焼けていた。訝しんだ友人らは、声をそろえて
「一体どこへ行ってきた?」と訊ねたが、彼は平然とした口調で「台所」だと答えた。だがそんな彼でもちょっと気に掛かることはあったらしく、
「そういえば冷蔵庫のドアを開けたら、なぜだか黒人のおっさんがいてな。このココナッツもそのおっさんにもらったんだ。言葉はようわからんかったが、陽気な男だった」
と口走った。
友人たちは呆れてものが言えなかった。
彼と付き合う上で、友人たちが注意にしなければならない項目がもうひとつある。
それがこの面白くも性質の悪い、ウソの数々だ。しかも彼が巧妙なのは、まるでさも自分が経験してきたかのようにのたまうこと。それにウソといっても色々あるが、彼のウソには悪意がないから、友人たちは皆、彼のウソを聞くことが好きだった。
概ね具体性を欠き、聞く側の想像力を刺激する彼のホラ話だったが、かつて一度だけ妙に凝った話をしてくれたことがある。それもまたなんとも呆れた内容だった。
その日彼は、とある締め切りに追われていた。それ自体はさしたる興味を引くようなものではないから割愛するが、とにかく切羽詰っていた。しかし人間というのは不思議なもので、なにかしなければならない事柄があると、ついそこから逸脱したくなるものだ。
その日の彼がまさにそれ。
枕元に積んである小説でも読もうか、それともクリア目前でプレイをやめてしまったゲームでもやろうか。
「……ツミつながりなだけに」
人生が詰みかけている彼のつぶやきは、夕暮れ迫る地平線へと虚しく溶けた。
とにかく外へ出よう。そう思い立ったのは、ひとりボケが滑ったすぐあとのこと。気分転換に身体を動かすのもいいだろうと、近所の公園まで散歩することにした。たしかに逃避行動としては、いちばん手っ取り早い方法かもしれない。だがそこに、彼の超絶的な特殊能力は計算に入っていなかった。
「はて。ご近所にこんなところがあったかな」
首をひねって見つめる先には、見覚えのない通りが広がっている。未舗装の赤土の道路に背の低い家屋が並び、マンションなどの近代的な建築物はまるで見当たらない。路傍には木製の電信柱と、古めかしい三輪のトラック。しかしその光景をノスタルジックと呼べるほど、彼はまだ長く生きてはいなかった。まるで昭和時代をテーマにした、映画のセットにでも迷い込んだ気分といったところか。
沈むゆく夕日に照らされる街並み、伸びる影。
マジックアワーとはよく言ったものである。その感動的な光景に、彼はしばし時間も忘れて見惚れていた。そしてゆっくりとあたりを見回して、あることに思い至る。
「……やけに静かだな」
いまにも豆腐屋のラッパが吹き鳴らされそうな雰囲気なのに、広い道路には人っ子ひとりいやしない。民家にも灯りはついているが、人の気配はなかった。
彼は不思議に思い、まだ開いている商店を覗き込むが、やはり同じことだった。
ここには誰もいないのか?
彼がそう思ったときだった。
「ホウ、人間か。珍しい」
ふと聞こえた声に、彼は反射的に振り返る。しかし誰もいなかった。そこにはただ暖かいオレンジ色の灯りをともした街並みが、ひっそりと夜の帳が下りるのを待っているだけ。
気のせいか? それにしては妙に耳に残る声だった。
老人とも若者ともつかない不思議な声色。そして「人間か」とは。およそ一般的な社会生活において、まず使われることのない言葉ではないだろうか。
そんな妖しい声色が、再び彼の耳朶を打つ。
「どこを見とる。こっちこっち」
今度は、はっきりと聞こえた。彼は声のするほう、すなわち自分の足元を見る。
するとそこには、にわかに信じがたい光景が待ち受けていた。
「ねこ……か?」
「猫だな」
そう猫である。しかしこの猫、少々普通とは勝手が違う。若き日のルイス・ウェインが描いた絵のように、二本の後ろ足ですっくと立ち、背はピンと伸びている。猫なのに。
背丈はだいたい彼の膝くらい。丸い大きな瞳は、彼をギョロッと見上げていた。
毛の色は黒く、短い。しっぽは背に向かって反りあがり、ゆらゆらと揺れている。
たしかにどこからどう見ても猫なのだが、顔つきが妙に凛々しかった。
彼は驚きながらも、反射的に口を開く。
「猫がなにゆえしゃべる」
我ながら埒もないことを訊いていると、彼も思ったに違いない。すべては逃避の末が見せた白昼夢かもしれないのに。しかし当の猫のほうは、三角の耳をそばだてて、いたって真顔でこう答える。
「人間がしゃべれる道理を、ぬしが説明できたなら教えてやろうさ」
彼は絶句した。いや一体どこの誰が、その答えを持っているというのだろう。かといって猫に言い負かされたままというのも、これまたしゃくに障る。彼は考えあぐねた結果、よく知りもしない進化論を持ち出した。
「脳が……」
「ホウ」
猫の目が、まるで彼を小馬鹿にするかのようにスッと細められた。ほれ、続きを言ってみせろと。彼は己の無知を悟り、言葉を呑み込む。この猫には初めから、なにを言っても論破されてしまいそうな雰囲気がある。
「たしかに脳の大小は、少なからず知能への影響がある。しかし大きければいいということでもないだろう。だったらば人間の世界はもっと高度で幸福でなければならん」
もっともらしいことを言う猫だ。彼はますますもって、自分の存在が矮小に感じてきたが、それよりもなによりもいまの猫の言葉が気に掛かって仕方がない。
「人間の世界? だったらここはなんだ。猫の世界か?」
「ちがうな」
「なに?」
「ぬしらの世界が、『人間の世界』なんだ」
ここでもまた彼は、爪楊枝で架けた橋ほどの頼りない知識を総動員して、なんとか猫の言うことを理解しようと努めた。「つまりなんだ」と前置きして、
「いわゆる並行世界とかいうヤツか」
「世界に並行も上下も、前後も左右もありはしない」
彼には、いよいよわけがわからない。
「いつかわかる日も来るだろうが、いまは無理だ。かわいそうなことに人間には肉球がないからな」
と、猫は彼に向けて手のひらを突き出してきた。そこには柔らかそうなピンクの肉球があり、ぷにぷにと気持ち良さそうだった。触りたい、しかし失礼じゃなかろうか。正直これ以上の失態は、人間として許されないと彼は感じていた。頭脳で勝てないのであれば、せめて礼節でもって、己が知的生命体であることを示したいものだと。
「いいか人間。肉球こそが真理だ。それ以外はあろうがなかろうが、それほど大差ない」
ここに来て彼は、ようやくこの猫にからかわれているのではないだろうかと思い始めていた。
バカバカしい。
ふっと途切れた緊張感が、再び昭和レトロな街並みに視線を向けさせる。
「ところで猫。ここは君以外に誰もいないのか」
すると猫は三角の耳をブルルと震わせて、彼に背を向けた。
夕日が沈んでいく方角を見つめ、しっぽを地面につけないようにして振っている。そこはかとない威厳と、なにびとにも冒されざる気高さをまとわせて。
そしてゆっくりと、しかし唐突にその言葉をつむいでいく。
「我々は、いまからぬしらの世界を滅ぼしに行く」
「なんだと?」
彼は自分の耳を疑った。いま猫は、人間を滅ぼすと言ったのか。
「先日、会議でそう決まったのだ。もはや人間に、世界の一部を託すのは無駄だと判断された。明日の朝、日の出と共に『人間の世界』は滅ぶだろう。いまはその準備で皆忙しい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! そんな無茶な話が」
「一方的だと思うかね? しかし人間よ。ぬしらは木を切り倒すとき、木に意見を求めたことはあるか。息をするとき、空気に吸っていいかと訊ねたことはあるか」
「それは……」
「我々とて、考えに考え抜いて出した答えだ。昨日今日、適当に思いついたわけではない。いままで幾度となく検討されてきた議題なのだ。ましてや決定事項。もはやなにびとも、このうねりを止めることはできぬ」
世界の終末論や、核戦争への危惧。あるいは数多ある胡散臭い予言すらも、かつて一度として彼の心を捉えたことはない。しかしいま目の前に立つ、このふざけた猫の言葉には言いしれない真実味と凄みがあった。
それと同時に「ああ世界が終わってしまうのか」などと、どこか達観とした精神状態にもいるのだ。たしかに彼の知る人間社会の不毛さといったらない。しかし、だからといってこのまま大人しく滅ぼされねばならないほどの害悪なのか。少なくとも自分の友人たちは、理不尽に死なねばならないような人間ではない。彼は、強くそう思う。
助けたい。世界などという不確かな概念によるものからではなく、大切な仲間を。
助けたい。こんな自分を見放さないでいてくれる彼らを。
彼は、猫の前にひざまずいて懇願する。もう一度、考え直してくれないかと。
すると猫は、鋭いツメでひげを弾いて微笑を浮かべた。
「じつは解決策がないわけではない」
彼は、それはなにかと訊ねる。暗闇に浮かぶ一筋の光明でも見出した気分だった。
猫は言う。人間には稀に、彼のような特殊な才でもってこちらへと干渉可能な者がいる。そうした人間が、もし計画を前にして現れたのなら交渉の余地もある。じつはそのために自分は残されていたのだと。
彼は狂喜した。自分にはまだやれることがある。友人たちのために、なにかをなすことができるのだと。
「さあ言ってくれ。おれのできることであればなんだってするぞ!」
「本当だな?」
「勿論だ!」
「では言おう」
彼は緊張のあまり、ごくりと生唾を飲んだ。額からあふれ出る冷たい汗は、頬から首筋を伝って赤土の大地へと吸われていく。
猫は計画を中止するための条件を口にした。
「ネコ缶、三つで手を打とう」
こうして世界は滅亡を免れたのだと、彼は友人たちに真顔で語った。
〈ニャンダフル・ワールド 完〉
ニャンダフル・ワールド 真野てん @heberex
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