終章・二
はあ……私、明日から大丈夫かな。
「じゃあ桃矢、帰ろ」
甘ったるくて嬉しくて恥ずかしい日々の予感でにやけてしまった顔を隠したくて、私は桃矢より先に扉へ向かう。こんな顔、桃矢にも他の誰にも見せられたものじゃない。ああもう、早く元に戻ってよ、私の顔。
――――――っ?
突然後ろから桃矢に手を掴まれ引っ張り上げられ、私は目を白黒させた。振り返り、私を引き止める桃矢を見上げる。
「何よ、桃矢」
そう聞いてみるんだけど、桃矢は答えない。どういうわけか、引っ張り上げた私の手の指をじっと見つめてる。
そして唐突に、呟く。
「……いっそ、婚約指輪でもつけるか」
……………………………………はい?
私の思考はこのとき、間違いなく一瞬は停止した。
桃矢、何をつけるって? 婚約指輪とか言ってなかった?
「桃矢、頭のねじ飛んだの?」
「んなわけねえだろ。一々あんな鬱陶しいのをあしらわないといけねえなんて、面倒くせえんだよ。婚約者がいるなら、さすがに諦めるだろ。お前だって、つけてりゃ虫除けになるし」
「彼氏いますって言ったら基本的に諦めてくれてるから、大丈夫だよ。そもそも、恋人がいると知っても迫ってくるような人なら、婚約者がいても気にしないと思うんだけど……それに、婚約指輪つけたら次はいつ結婚するのかって聞かれるよ?」
「だったら、『二、三年の内に』って答えりゃいい」
…………!
はっきりと、強く。桃矢の一言は、他の人がいたら即座に逃げだす甘ったるい空気を一瞬で変えた。これから聞かされる言葉は全部桃矢の本当の気持ちなんだって、言葉がなくて確信できる真剣な目が私を見下ろす。
ぐい、と私は違う世界へ引っ張り込まれたみたいな錯覚に陥った。
桃矢の家の防音室よりずっと狭い、ピアノが置かれた部屋。窓の外は橙色や赤や黄金に染まっていて、眩しいのを少しでも抑えるために水色のカーテンがちょっと引かれてる。
誰よりもお互いのそばにいたのに素直になれなかった私たちが、やっと想いを伝えあえた、三年前の
――――――――あ。
落ち着きかけてた私の心臓が、一つ、胸が痛くなるくらいに存在を主張した。
まさか、これって―――――――――
そして、桃矢は掴んだ私の手に自分の指を絡め、言った。
「結婚してくれ、
「………………!」
私の胸を高鳴らせた予感は、一拍もおかないうちに現実となった。
「お前は全然考えてなかったのかもしれねえけど、俺はお前と結婚しようって考えてた。留学中から、ずっと」
「留学中からって、そんな、あんたは一度も」
「言えるわけねえだろ。ガキ同士の遠距離恋愛で、プロとしてやっていけるかどうかもわかんねえのに結婚まで考えてるとか、どれだけ先走ってるんだよ。お前だって断るに決まってるだろ」
「……」
それは、そうかも。桃矢の客観的な指摘に、私は同意の意味で言葉がなかった。
……うん、絶対、私は今以上に戸惑ってすぐ首を振ってたよ。桃矢の留学中、私は電話とかメールとか実際に会うのとか、色んな形で桃矢と過ごす時間に夢中で、先のことなんてこれっぽちも考えてなかったもの。桃矢と二人きりの時間を過ごせるだけで、満足だった。
でも、私がそうして幸せに浸りきってるあいだ、桃矢はその先のことまで考えてたの……?
「この三年、ずっと不安だった。しょっちゅう連絡してるっつっても遠距離だし、帰国したって言っても毎日会えるわけじゃねえし、お前には男の友達もいて、その中にはお前に惚れる奴はいくらでもいるだろうし…………」
「…………」
「また馬鹿な勘違いしてお前を傷つけて、今度こそお前に捨てられるんじゃないかって…………たまに、すげえ不安になる」
語るほどに、真剣で凛々しかった桃矢の表情からどんどん自信がなくなっていく。その代わりに少しだけ、私の手に指を絡める桃矢の力が強くなる。……まるで縋りつくみたいに。
「だから、たかが形でも、お前がずっと俺の隣にいるって保証が欲しいんだ」
ホント馬鹿みてえだけどさ。桃矢はそう力なく自嘲の笑みを浮かべて、私の手を壊れやすい宝物みたいに両手で包み、指にキスした。
桃矢……………。
桃矢が何かを不安に思ってることは、今まで全然気づいてなかったわけじゃない。鬱陶しいくらいにべたべたしてくるくせに、桃矢はごくまれに、そういう目で遠くを見てることがあったから。でも私が声をかけるとすぐそんな雰囲気は消えてまた甘えてくるから、ちょっとしか会えないことを桃矢もさみしがってくれてるんだろうなって、私はむしろ嬉しくて可愛くて、もっと甘やかしてあげたくなってた。
……それは半分正しくて、半分は違ってたんだ。
包まれた手から、見つめてくる目から、桃矢の熱とひたたむきな思いが伝わってくる。私を望む気持ちが、私の身体中へ広がっていく。
たくさんの言葉が混じった感情が奥底からこみ上げてきて、胸が苦しい。今すぐ桃矢に抱きついて、好きだよ、私も桃矢とずっと一緒にいたいって言ってあげたい。私の全部で、桃矢の不安を全部失くしてあげたい。
けど…………結婚だよ? 受験どころじゃない、人生の大きな選択だ。実力も客寄せのあれこれも充分な桃矢はもうプロのピアニストとしてやっていけるだろうけど、それでも私たち、まだ学生だし。私自身の進路はどうするのかって大問題もあるし…………いきなり答えられるわけないよ……………………。
この気持ちを、どう桃矢に伝えたらいいんだろう。誤解させちゃ駄目だ。でも、言葉が………………。
私が視線をさまよわせて言葉を必死に探してると、不意に桃矢は表情を緩めた。
「……無理に今すぐ答えてくれなくていい。俺が急ぎすぎてるのはわかってる。卒業までまだ時間あるし……まずはそれまで考えて、答えてくれたらいい」
「だったら、こんなところで言わなくていいでしょ。いつ誰が来るかわかんないのに」
「言わずにいられなかったんだよ。……それに、またお前に怒られるのは嫌だったし」
『また』。…………ああ、三年前のことね。桃矢の留学のことを真彩が受け入れる時間を減らすなって、私が桃矢に怒ったんだっけ。懐かしい。――――覚えてたんだ。
あんなことまで覚えてるなんて。それが嬉しくて、頬が緩む。ついでに頭も撫でてあげたくなったけど、桃矢って無駄に背が高いんだよね。私が背も手も伸ばしたところで、ぺたぺた軽く触ってあげるくらいできない。
だから私は代わりに、桃矢の頬に笑顔で手を伸ばした。
「ありがと桃矢。私、桃矢とどうなりたいのか、ちゃんと考えるよ」
「ああ、考えてくれ。……俺は、お前じゃねえと駄目なんだ」
「……っ」
ちょ、桃矢それずるい! 私の手を掴んで頬ずりとか……しかもそんな切なそうになんて。今すぐ頷いてあげたくなるじゃない。
「好きだ美伽。……愛してる」
私の手を放す代わりに抱きしめて、ささやいて。さっきあんなにしたっていうのに、桃矢はまた私にとびきり甘くて深いキスをした。
ああもう、降参だ。
桃矢のことが好きで、こうして会って触れられることが幸せすぎて、それに満足して溺れてる私には、結婚なんて幸せな未来はまだ上手く思い描けない。ずっと一緒にいたいって素直な気持ちさえもが、未来を考えた途端に竦んでしまってる。今の私じゃ、桃矢と結婚できない。
でも逆に言えば、戸惑ってるだけなんだ。だから覚悟さえ決めればいつか、怯えずに未来を受け入れられるようになる。今の私たちは、相手を失くすのが怖くて言葉を惜しんでいた、三年前の私たちじゃない。相手に大切にされてることを知ってる。本音をちゃんとぶつけあうことも、もう怖くないのだから。
だからきっと二年後、小さい頃から思い出を重ねたあの教会で、夕焼け空と大切な人たちに見守られて、私たちはまたキスをするんだ。
夕焼けの夢 星 霄華 @seisyouka
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