終章

終章・一

桃矢とうや? 私だけど、入っていい?」

美伽みかか? 入れよ」


 三年間の留学を大きな国際コンクールでの優勝という形で締めくくってすぐの桃矢のコンサートが、大成功のうちに終わったあと。桃矢の楽屋から出てきたお化粧ばっちりの美人さんが振り返りもしないのを確かめた私は、桃矢の楽屋の扉を叩き、桃矢の許しを得て中へ入った。


 一緒にコンサートを聞きに来てた倉本君たちと別れた私は、桃矢が楽屋で雑誌のインタビューを終わらせるのを待ってた。高校のときよりさらに実力をつけ、実績を重ねた桃矢は、ピアニストだっていうのにクラシック以外のメディアからも注目されてるんだよね。そういうのへの露出はほとんど断ってるらしいけど今回は断りきれなかったみたいで、めんどくせえって電話でぼやいてたのが可愛かった。

 それはともかく。


「桃矢、お行儀悪いよ」


 楽屋の扉を扉を閉めて、近づきながら私はそう桃矢をたしなめた。

 だって安っぽい布張りの椅子に座る桃矢は、パイプ椅子に両足を置いて、ペットボトルの天然水を飲んで寛いでたんだもの。黒いジャケットも脱いでるし、どっかり背もたれにもたれてるし。家に帰るなり家のリビングでだらだらしてる、うちのお父さんそっくり。


 でも……それでもさまになってるからたちが悪いんだよねえ。無駄に顔がいいからってだけじゃなくて、男の色気って言ったらいいのか……いかにも自信がありそうで、ぎらぎらしてどろりとした、人を惹きつけずにはおかない空気。留学とコンクールの優勝で自信を強く持つようになったからか、そういうのをまとうようになってて……それがまた、二つボタンを外した臙脂色のシャツと合ってるんだよね。だらけた様子さえ一流モデルの写真みたいで、彼女の私でもくらっとくる。調子に乗るから、絶対に言わないけど。


 ペットボトルの口を閉めてテーブルに起きながら、このくらいいいだろ、って桃矢は口を尖らせた。


「どうでもいいことを長々しゃべらされて、疲れたんだよ」

「今日は、クラシックの雑誌の取材じゃなかったの?」

「女性誌だよ。それでか音楽に関係ねえことまで根掘り穴掘り聞かれて……挙句、俺に色目使ってきやがるし。付き合ってる奴がいるって言ったのに迫ってくるとか、ありえねえ」


 うわー……マジですか。さっきの美人さん、一瞬顔を見ただけだけど自分の容姿に自信ありそうな感じだったし、二十歳の坊やなんてチョロいとか考えてたのかな。……それなら外で待ってないで、わざとらしく乱入すればよかったかな。


 でも、そうやって色仕掛けされても怒ってるのが嬉しい。そんな話聞いたあとだと、テーブルにほったらかしの破れた紙切れも名刺なんだろうなって想像できるし。私が不安に思わないよう、破いてくれたんだよね。大切にされてるのが実感できる。


「ともかく、お疲れさま。大成功じゃん。真彩まやたちも大絶賛だったよ」

「あのくらいは当たり前だっての。コンクール優勝者をなめんなよ――――それより」


 ―――――っ?

 私の視界が回った。気づけば硬くもあったかくもあるものの上に、強制的に座らされる。

 私は真っ赤になった。


「と、桃矢!? 何すんのよ! ここ、楽屋だよ!?」


 ありえない。なんでひ、膝の上に座らせるのよ! こんなの、誰かに見られたら……!

でも桃矢は、私の抗議を少しも聞いてくれない。それどころかに楽しそうな顔で私の腰に手を回して、服の下に入れておいた私のネックレス――三年前の花火大会でくれたやつを引き出して……口づける。


「あいつらじゃなくて、お前は?」

「っ」


 甘く、甘く。砂糖よりも甘く。笑みと自信を混ぜて、桃矢は私を見つめてくる。桃矢の目に、私だけが映る。

 せっかく色気に中てられてないふりをしてたっていうのに、顔が赤くなっていくのがわかる。それを見て、桃矢がすごく嬉しそうにしてるのも。

 …………ああ、もうっ。


「………………満点」


 桃矢の思いどおりになってるのが悔しくて、きらきらした桃矢の視線がいたたまれなくて、私はそれだけ言って顔を逸らした。今楽屋に誰か入ってきたら、私は多分恥ずかしさで気絶すると思う。お願い、誰も来ないで……!


 ええホント、桃矢の『愛の夢』はいつだって最高だよ。他のどの曲でミスしちゃっても、あの曲だけは一音だって間違えない。実はリストが人妻との色恋沙汰が破局してから作ったなんて背景をまるきり無視した音色で、リストが懐かしんだのだろう、恋人との幸せな時間を辿るように弾いていく。

 ――――――――そう、今このときみたいな甘ったるい音色で。


「じゃあ、ご褒美をくれるよな?」

「っ調子に乗ら」


 ――――っこ、の馬鹿犬男……!

 私は怒ろうとしたけど、無理だった。

 大きな手で前を向かされ上向かされたら、吐き出そうとした言葉も息も全部飲みこんで、桃矢のキスを受け入れるしかない。かろうじてできるのは、桃矢を心の中で罵って、抱き込まれた手で桃矢の胸を叩こうとすることだけだ。最悪、最悪だよもう……っ!


 三年前、真彩や倉本くらもと君を巻き込んだどたばたの末付き合うようになってからというもの、会うたびに桃矢は私にべたべたしたがる。手を握ったり抱き寄せたりくっついて座ったりは当たり前で、二人きりのときにうっかり隙を見せたり優しくしようものなら、あっという間に美味しくいただかれそうになる。ベルリンへ行ってるあいだもしょっちゅう連絡してきていて、送られてきたスマホの写真の数は三桁になる。こんなの、恥ずかしくて誰にも話せない。


 しかも桃矢は、幼馴染みの彼女がいるってあちこちで惚気てるらしいんだよね……私が迷わずここへ来れたのも、惚気を聞かされ私の写真も見せられたっていうコンマスの女の人と途中で会って、可愛いものを見るみたいな顔で案内してもらえたからだし。去年、とある国際コンクールに出場したとき審査員だった桃矢の伯父さんにさんざんからかわれて、即刻桃矢に抗議したから今更何も言わないけどね。でもものすごくいたたまれないからやめてほしい、ホント。

 長く深いキスを繰り返して、私が酸欠になりそうになったところで、桃矢はようやくキスの嵐から解放してくれた。ああ空気が美味しい。考えるのがめんどくさい。


「桃矢っ……あんたっていつもしつこい……!」

「そうか? 俺はまだ足りないけど」


 睨みつける私ににやりと笑ってみせ、桃矢は私の唇を指の腹でなぞる。背筋がぞくっとして、私は慌ててそっぽを向いた。な、流されてたまるもんか!

 私の拒否を理解した桃矢は、喉を鳴らして笑いながらもそれ以上私にキスをせがんでこなかった。こういうところは、躾のいい大型犬っぽいと思う。……それでも、膝の上から下ろしてくれないけどね。


「ところで、倉本たちはどうしたんだ? 一緒にいたんじゃなかったのかよ」

「公演は一緒に聞いたんだけど、先に帰ったよ。明日の用事に備えて、早く帰りたいからとかで」


 そういうことにしといてください。ホントは『こういうときは二人きりにしないと、あとで恨まれそうだし』って、生温い笑顔で同行を拒否られたからだけどね。皆、桃矢が万年発情犬になっちゃったことは知ってるから。…………桃矢と久しぶりに会うのは皆も同じはずだし、二人きりになるのは、皆でお祝いしてからでも私は充分なんだけど……そんなこと言ったら桃矢が拗ねるだろうけどね。

 というか桃矢、こんなことしてから聞くってどうよ。せめて、先に聞いておくのが普通だと思うんだけど。


 これ以上この状態でいたら、桃矢が暴走してやばいことになりそう。だから渋る桃矢をどうにか説き伏せて私は桃矢の膝から下り、桃矢に帰り支度をしてもらった。桃矢、そんな残念そうな顔しても無駄だから。けちだの何だの文句言っても聞いてあげないから。大人しく帰る用意をしてちょうだい。私を無事に家へ帰してちょうだい……!

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