ニュートラル・ロード

さかたいった

野外教習

 まるでピンと張った糸の上に座らされている小人のような、不安で、落ち着かない、独特の緊張感。教習所のロビーは穏やかで、さざ波一つ立たない湖のように静かだが、私の内面は試合前のボクサーのように揺れている。

 やがて教習開始の時刻となり、受講者たちはそれぞれ指定された教習車へ向かうよう指示された。私も他の受講者たちに倣い、ロビーから外に出て自分の教習車を探す。間違ってもこのタイミングで近くのコンビニに買い食いしになど行ってはいけない。私は学校の授業をサボる中高生ではないのだから。

「本日教習を担当させていただく、小向井です。よろしくお願いします」

 小向井と名乗ったその男性教官は、三十代中ごろだろうか? 目がリスのようにクリッとしていて可愛げがある。髪は少し違和感があるほどにサラサラだ。私の脳裏にある予感がよぎる。

「沢田です。よろしくお願いします」

 できるだけ愛想よく、私は挨拶した。緊張により若干顔が強張っているのが自分でもわかった。上手く笑顔を作れているか、自信がない。

 挨拶もそこそこに、コースに停車している教習車に乗り込む。もちろん私が運転席で、小向井氏が助手席だ。後部座席には鞄を置いた。

「おっ、今日は初めての野外教習ですね」助手席の小向井教官が私の教習手帳を眺めながら言った。

「はい」私はシートの調節をしながら、答える。

「緊張していますか?」

「はい」

「教習所での練習通りやれば、大丈夫です。ただ、歩行者と自転車には気をつけましょう」

「はい」

 さっきから「はい」しか言ってないぞ自分、と思ったが、他に気の利いたコメントがあるわけでもない。

「大学生ですか?」教官が訊いた。

「えっ?」

「それぐらいの年齢かなあ、と思って」

「あ、はい、そうです」

 教官の唐突な質問に、私は少し戸惑いながら答えた。

「そうですか。きっと、すごく楽しい時期でしょうね」

 小向井氏は車の前方を眺めながら言った。もしかすると私をリラックスさせる目的で世間話をしてくれたのかもしれない。そうだとしたら、優しい人だ。

 シートの調節が終わり、私は今度はミラーを合わせる。左手でルームミラーの端に触れ、車の後方がしっかり見えるように調節する。

 その時、後部座席に何かが見えた。

「えっ?」

 私は瞬間的に後ろを振り返る。何らかの気配を感じたのだが、後部座席には私の鞄が置かれているだけだった。

「どうしました?」怪訝な顔で小向井氏が訊く。

「いえ、なんでもありません」私は前に向き直る。

「なにか気になることでも?」

「いえ、ちょっと見えた気がしただけで」

「見えた? 何が?」

「人のようなものが」

「人?」

 小向井氏が体を捻って後方を向く。もちろん、なにか気を引かれるものが見えることはないだろう。

「べつに、その辺を人が歩いていても、不思議なことはないけど」前に向き直った小向井氏は言う。

「そうですね」

 私が見たと思ったものは、車の外ではなく、中にいた、ということは、小向井氏には告げなかった。

 私はここのところ、体調があまり芳しくない。先週の週末に、友人たちと軽い肝試しのつもりでちょっとした心霊スポットに行ってからだ。それからなんとなく、体がだるい。

 私はそういう類のものを、とくに信じているわけでも否定しているわけでもない。あるならあるで、いいと思う。ただ、私にはそういったものを感じ取るような才覚はなかった。少なくとも、これまでは。

「では、そろそろ行きましょうか」

 小向井氏の合図により、私と小向井氏、男二人のドライブが始まった。


 私が受けている講習は、マニュアルトランスミッション、いわゆるMT車。今どきマニュアルの免許を取ろうとする若者なんて、稀だろう。

 マニュアル車とオートマ車の違いは、つまるところギアチェンジを自分で行うかどうか。オートマならギアを「D」に入れておけば、あとは車が勝手にギアを調節してくれる。マニュアルなら、その都度自分でギアを変えなければならない。発進時はローギア、少しスピードに乗ったらセカンド、それから3速4速5速というようにギアを調節していく。手間がかかる子ほど可愛げがあると思える世話好きな人間なら、マニュアル車が向いているかもしれない。

 マニュアル車にはアクセルとブレーキの他に、クラッチペダルというものが存在する。このクラッチペダルは運転者の左足部分にあり、発進時やギアチェンジ、停止の際に必ず使用する。

 このクラッチペダルの操作が、マニュアル車の免許を目指す人間にとって一番の難関といえるだろう。クラッチはかなりデリケートな操作が必要とされ、失敗すればすぐに車はエンストを起こしてしまう。

 私はこれまでの教習の経験を活かし、マニュアル車を慎重にスタートさせる。ギアを1速に入れ、左手でサイドブレーキを下ろし、右足の踏み込みはブレーキからアクセルに移行し、右足で軽くアクセルを踏みながら踏み込んでいた左足のクラッチを少しずつ上げていく。足の操作と同時に上体では右方向のウィンカーを出し、周囲の確認をしながらハンドルを切っていく。

「良いスタートです。では、ウォーミングアップでコースを何周か周ってみましょう」

 助手席の小向井教官が言った。ちなみに教習車では、助手席側にもブレーキペダルがついている。教官がブレーキを踏まなければならない状況というのは、つまり受講者の運転が至らなかった場面である。教官に止む無く急ブレーキをかけられた時、受講者は少なからずショックを受けることになる。もしそれが卒検であったら、一発アウトだ。

 私が運転する車は教習所の中のコースを周回している。他に違う受講者の教習車も走ってはいるが、外部の一般の人間が運転する車や歩行者の存在は当然ない。

「ではそろそろ、教習所の外に出ていってみましょう。右折して、そこの坂を上がっていってください」

 教官がついにその宣言をした。できることなら、時間までずっと教習所のコースをグルグル回っていたかった。井の中の蛙は、いつまでも井の中に留まっていたいものである。

 初めての野外教習では、外部の人間が全て敵に見えてきた。決して味方ではなく、アクションゲームの途中で出てくるお邪魔虫のような存在。ただ、ゲームであれば何度でもやり直しが利くが、現実の世界はそうはいかない。一度事故を起こせば、私のこの先の人生に暗雲が立ち込めることになる。否が応でも、ハンドルを握る私の手に力が入る。

 教習所内のシンプルなコースとは違い、外は情報がいっぱいだ。信号、標識。道路の中央線、道の幅。前を走っている車、後ろから詰めてくる車。対向車に、歩行者。美人が歩いていたって、それに見惚れている場合ではない。西日が眩しい時もある。鳥がフロントガラスに糞を落下させることもあるかもしれない。その辺の路上をアメリカ大統領が呑気に歩いていたって、不思議ではない(いや、それは多少不思議か)。私は速度に合わせて細かくギアチェンジをしながら、教官の指示に従い車を走らせる。

 前を走っている車に倣ってしばらく車を走らせていると、赤信号に捕まり、私はようやくほっと一息ついた。数十秒の安息の時。このままずっと赤信号でいてくれ、とさえ願った。

 私は何気なくルームミラーに目を向ける。

 後部座席から、色白の若い女がこちらを覗いていた。

「うわあっ!」

 私は驚きのあまり座席に座ったまま飛び跳ねた。シートベルトが体に食い込む。

 飛び跳ねた拍子にブレーキとクラッチから足を離してしまい、車がエンストした。

 助手席の小向井氏が私の叫びと飛び跳ねに驚いて同じように飛び跳ねた。しかしそこは教官、私のかわりに助手席のブレーキをすかさず踏んだ。

「沢田さんどうしました!?」

 私は教官の質問を無視して後ろを振り返った。

 後部座席には、誰もいない。

 もう一度ルームミラーに目を向ける。やはり、誰もいない。

「す、すみません。勘違いだったみたいで」

「気をつけてください。運転中ですよ」

 そんなこと言われなくてもわかってる。こちとら好き好んで飛び跳ねたわけじゃない。

 そうこうしている間に信号は青になり、前の車がスタートした。私は慌ててキーを回し、エンジンをかける。

 後続車が「プップー!」とクラクションを盛大に鳴らした。仮免の教習生を気遣う思いやりは持ち合わせていないらしい。

 右足でアクセルを踏み込み、左足のクラッチを上げていく。慌てていたため、クラッチ操作が雑になった。車体がボッコボッコと先ほどの私たちのように飛び跳ねて、エンストしかける。

「アクセルを踏み込んで!」

 教官に言われた通り、私はアクセルを強く踏み込んでいく。

 前進を開始した車は、ボッコボッコと五回ほど上下に振動しながら、加速した。

 ギアを2速に入れ、少し落ち着いた私は、隣の小向井氏をちらっと盗み見た。

 先ほど飛び跳ねた影響だろうか、小向井氏の頭髪が少し前後にズレていた。


 野外教習を始めてから十五分ほど経過し、ようやく私の運転も落ち着いてきた。今のところただの一人も人を轢き殺してはいない。

 交差点を抜けた先には、だいたい左手に標識がある。日本の自動車は左側通行なので、それが普通だ。

「この道路の制限速度は何kmですか?」小向井教官が尋ねた。

「40kmです」私は先ほど目にした標識の通り答える。

「そうです。制限速度をオーバーしないように、注意しましょう」

 前方の道路の路面にひし形のマークが二つ続けて見えた。この先に横断歩道があるというお知らせである。

 左手の歩道に歩行者の存在を確認する。背骨の曲がった、おじいちゃんだ。どうやら道路を渡ろうとしている。決してこれからパラパラを踊ろうとしているわけではない(たぶん)。私はブレーキをかけて、車を減速させた。

 横断歩道の前で停止し、背骨の曲がったおじいちゃんが横断歩道を渡るのを待つ。やはりパラパラは踊らなかった。

「いいですよ。横断歩道は、歩行者優先です。一般ドライバーにはあまり守られていない規則ですがね」

 教習所内の狭いコースでは、速度に乗る前にカーブがくるので、マニュアル車のギアはせいぜい2速までしか使っていなかった。しかしこの野外教習では初めて3速を使用した。

 運転中に左手でレバーで操作するマニュアルの教習車のギアは、バックをしたり駐車時に使用する「R」も含めて六つあり、他のギアに移行する際は必ず中央の「N」を一度通過する。Nはニュートラルの約で、ニュートラルとはどことも繋がっていないどっちつかずの状態を表している。

 私の運転が安定してきて、話す話題も無くなってきたのか、小向井氏は突然こんな話を始めた。

「以前、この近辺で、車に轢かれて亡くなった女性がいます。残念なことに、その女性を轢いたのは、教習中の教習車でした」

 嫌な話だ、と私は思った。初めての野外教習中の受講者に向かって話すことだろうか?

「それ以来、ある噂が立つようになりました。うちの教習所ではわりと有名な話です」

「どんな噂ですか?」仕方なく、私は話の先を促した。

「教習中に、後ろから走って車を追いかけてくる女性の姿が見えることがある、という」

 ずいぶんとシンプルな怪談話だが、私は思わずゾクッとした。反射的にルームミラーに目がいく。女性の姿は見えない。車外にも、車内にも。

「自動車はとても便利な乗り物ですが、扱いを間違えれば、時に凶器にもなります。だから私は、これから車の免許を取ろうとしている人には、しっかりと車の扱いと交通ルールを学んでほしいと思っています。あのような悲劇を今後生まないためにも」

 小向井氏は、退屈になったのでこのような話を始めたのではなかった。受講者に運転中の注意を喚起させるため、堅実な運転を肝に銘じさせるために、話したのだ。

 その後、野外教習は概ね順調に進み、あとは無事教習所に帰還するだけだった。

 前を走っている車が止まり、私は車間距離を保って車を停止させた。近くに信号のある場所ではない。どうやら渋滞ができているようだ。

「工事かな? それとも事故かな?」

 小向井氏が前方の様子を探りながら独り言のように呟く。

「これだと、時間までに戻れないかもしれません。仕方ない、脇道を使いましょう」

「脇道、ですか?」私は不安を感じて訊き返す。

「はい。そこの道を、右折してください」

 私は言われた通り、大通りから外れて狭い脇道に車を動かした。入口にカーブミラーのある、細い道だ。

 その道に入ると、私は一瞬、ゾクゾクッと、背筋が凍るような寒気がした。急に辺りが暗くなったような気もする。

「ん? あれ? こんな道あったっけ?」

 小向井氏が呟く。その道は、先ほどまでの道とは打って変わり、急に人工的な建物が途絶え、左右の路肩の向こうには雑木林が広がっていた。

「このまま真っ直ぐ進めばいいんですか?」私は尋ねる。

「うーん、とりあえずは」小向井氏も戸惑ったような表情を見せている。

 私は車を走らせながら、ルームミラーを見た。何か映ってはいけないものはミラーの中には見えない。

 歩道を歩く歩行者の姿はない。他に走っている車も見当たらない。聴こえるのは、3速で走るマニュアル車のエンジン音。この通りに入ってから他者に出会っていない。

 ようやく、といっていいのか、前方からこちらに向かって走ってくる対向車の存在を確認した。荷台に荷物を積んでいる軽トラックだ。徐々にこちらに近づいてくる。

「えっ?」

 私は思わず自分の目を疑った。何か見えてはいけないものが見えたわけではない。

 その逆だ。

 見えなくてはいけないものが、見当たらなかった。

「どうしました?」小向井氏が訊く。

「いえ、あの、たぶん気のせいだと思います。光の反射でそう見えたのかも」

「何の話ですか?」

「今すれ違ったトラック、運転席に誰も乗っていませんでした」

「えっ?」

「自動運転車というやつでしょうか? 普通に公道を走っていいんですかね?」

 小向井氏は何事かを考え込むようにして、黙り込んだ。私の言葉の真偽をはかっているのかもしれない。私自身、先ほど目にした光景を疑っていた。

 前方左手の路肩に、標識が見えてきた。どうやら制限速度が表示してある標識のようだ。

 私はその標識で、この道の制限速度を確認した。制限速度は、時速「400」km。40ではない。確かにそう見えた。

 私は助手席に座っている小向井氏を見た。小向井氏は前を向き、目を若干見開いた状態で、動かない。先ほどの標識は彼も確認したはずだ。それでも、私に何も言ってこない。

 何かがおかしかった。私たちは少しずつ、そのことに気づき始める。

 前方の路面にひし形のマークが見えた。横断歩道を知らせるマークだ。私はブレーキをかけ、車の速度を落とし始める。

 どうやら道路を渡ろうとしているものがいた。私は横断歩道の前で車を停止させながら、信じられない思いでそれを見た。

「足」が横断歩道を渡っている。ハイヒール、スニーカー、革靴に、サンダル。多種多様な靴を履いた「足」たちが、道路を横断しているのだ。いかにも陽気に、今にもスキップでも始めそうな勢いで。人間の膝から下の足だけが、目の前の道路を蠢いている。

 やがて、全ての「足」が道路を渡り切った。

「え、えっと。もう大丈夫みたいですね。発進します」私は言った。

「えっ? あ、はい。そうですね。さすが沢田さん。横断歩道は歩行者優先です」口調は教官のそれだが、小向井氏の目は明らかに泳いでいた。

 もしかすると、光の加減で人の上半身が見えにくくなっていただけかもしれない。

 そんなはずないことは、自分が一番わかっていたが。

 私は車を発進させ、横断歩道を通り過ぎる。

 すると後方から、シャキン、と鋭く甲高い音が響いた。

 ルームミラーで後方を確認する。今通り過ぎた横断歩道の白線のあった場所から、刀のような鋭い刃物の束が二メートルほど路面から突き出していた。ほんの数秒前に私たちの車がいた場所だ。

 本当は今すぐ停車して、現在の状況の確認をすべきかもしれない。ただなぜか、私はブレーキを踏むどころか逆にどんどんアクセルを踏み込んでいた。まるで現実逃避をするように、私は車をグングン加速させていた。

「沢田さん。ちょっとスピードの出しすぎでは? この道の制限速度はいくつでしたか?」

「400kmです」

「そ、そうでしたね。確かに」

 車は時速60kmをオーバーする勢いで走っていた。ギアは5速まで上げている。こんなスピードで車を運転するのは、初めてだ。

 前方に信号が見えた。遠目から、赤信号だとわかる。私はギアをニュートラルにし、ブレーキをかけていった。

 信号は、目玉だった。ギョロリとした巨大な目玉が、信号の部分にはめ込まれている。青と黄色の目は閉ざされ、今は赤い目が開いている。

 信号の赤い目玉はキョロキョロと細かく動き、やがて停止線の前で止まっている私たちに目が向いた。人間の顔よりも大きな目玉が、私たちを見つめている。

「あの信号、もしかして私たちを見ていませんか?」私は助手席にいる小向井氏に尋ねた。

「そ、そう、ですね。そのように、見えなくもないです」小向井氏の声は震えていた。

 前方は十字の交差点で、私たちの道と交差している青信号の道路では、複数の車が走っていた。全て黒塗りの、立派な神輿で飾られた霊きゅう車だ。霊きゅう車ばかりが道を走っている。

 私たちの道路の信号が青になった。赤の目が閉じて、青の目が開かれる。青は、どことなく眠そうな目だった。

「直進で、合ってますか?」私は尋ねた。

「えっ? あ、そうですね。とりあえず、真っ直ぐ進みましょう」

 交差点の中央付近に差しかかった時、バラバラと何かがボンネットに降ってきた。

「うわああぁぁ!」

 小向井氏がけたたましい叫び声を上げる。それも無理はない。ボンネットに降ってきたのは、人間の手だ。十数個はある手首から先の手が、一斉に降りかかってきたのだ。

 人間の手が降ってきたことと、小向井氏の断末魔のような叫びを聞いたことにより、私のクラッチ操作が覚束なくなった。クラッチ操作を誤りエンストしかけた車がボッコボッコと跳ね上がる。

「てっ!? てっ!? てっ!? てぇーっ!!」

 車体の上下の振動のリズムに合わせて、小向井氏が上下に弾みながら何事かを叫んでいる。少なくとも私にはそのような発声に聞こえた。

 加速とハンドル操作により手の雨から逃れた後は、まるでとっておきだとでも言いたげに、ボンネットにドスンとそれが落ちてきた。

「キャアアアアァァァーー!!」

 小向井氏の甲高い叫び声は、もはや男性のそれではなかった。

 ボンネットに落ちてきたのは、人間の首から上だ。千切れた首の部分がボンネットにしっかり接着し、首で立っている。クシャクシャで濡れたような黒髪は風で左右に乱れ、目の部分は陥没し目玉だけが飛び出し、口は裂けて耳のほうにまで広がっている。男性とも女性ともつかない、異様な顔だ。顔は真っ直ぐにこちらを向いている。

「あっ!」

 小向井氏が助手席からこちらに体を乗り出し、私からハンドルを奪うようにして滅茶苦茶に動かし始めた。車体が左右に大きく振られ、それに合わせて私の体も揺れた。

「危ない! やめろ!」

 私は教官に向かってもはや命令口調で罵っていた。小向井氏は生首をボンネットから叩き落とす一心でハンドルを操作している。

「どうなってんだよ! コレ!」

 小向井氏の心の声が丸聞こえだった。こんな状況だ、それも無理はない。私のほうは、驚きを通り越してどこか脳の機能が麻痺してしまったのか、それとも車を運転している独特の興奮作用からなのか、周りの出来事がそれほど脅威に感じなくなっていた。それはある意味、危険な兆候である。

 私が小向井氏からハンドルを取り戻し、車を急加速させると、ボンネットに張りついていた気色悪い生首がようやく剥がれ、フロントガラスに「ぶちっ」とぶち当たりながら、どこかへ飛んでいった。フロントガラスに赤黒い液体の跡が残る。

 はあ、はあ、と助手席から小向井氏の荒い息遣いが聞こえる。そちらを見ると、小向井氏の頭髪が今にもずり落ちそうなほどにズレていた。こんな状況であるのに、私はそれを見て思わず笑いそうになった。どうやら私の頭は完全にイカれている。ハイの領域に入っていた。

 一体これは、どういう状況なのだろう? まだ私の中に残っている微かな理性が、それを考えた。私はただ普通に教習所の野外教習を受けていただけだ。なぜこんな状態に陥ったのか?

 もしかして、小向井氏が話していた、教習車に轢かれて亡くなった女性の話と何か関係があるのだろうか? それとも、先週末に行った心霊スポットから、私が何か良からぬものを連れてきてしまったのだろうか?

 私は何気なくルームミラーに目を向ける。後方の遠い場所に、黒っぽい物体が見えた。

 車は時速60km前後で走っていたが、その黒い物体は徐々にこちらに近づいてくる。少しずつその輪郭が露わになってきた。

 どうやらそれは、人だった。白い服を着た、黒い長髪の人間が、後方から走ってこの車を追いかけてきている。なんということでしょう。

「小向井さん」

 私は教官の名を呼んだが、教官は体の震えでガチガチと歯をかち合わせながら、体を丸めて自分の世界に閉じこもっていた。先ほどの生首でついに心の許容範囲を超えてしまったのだろう。完全に現実を拒絶している。

 どうやら担当教官は頼りにならなそうなので、私は自分でどうにかするしかなかった。とりあえず、あの走ってくる人間、おそらく女性に追いつかれることは好ましくない。かつてあなたを轢いたのは私たちでないと弁明しても、聞く耳があるかどうかはわからない。

 車をどんどん加速させていく。スピードは80、90を超え、時速100kmを超えていく勢いだ。

 それでも、走ってくる女との距離は広がらなかった。むしろどんどん近づいてきている。なんという快速だろうか。その人間離れした動きが、これまでの何よりも恐ろしかった。

 前方に青い道路標識が見えた。私は目を凝らして、その標識を確認する。

 どうやらそれはこの先で辿り着く場所を表している案内標識で、左斜め前が「現世」、右斜め前が「黄泉」とあった。

 黄泉? つまりあの世ということか? なんということでしょう。この先の道を右に進むと、黄泉の国に辿り着いてしまうらしい。

 この先にあの世があるとするなら、ここはまだ完全に死者の世界ではない。同じ意味で、ここは現実の世界でもないということだ。

 あえて表現するなら、ニュートラル。どちらにも属していない、どっちつかずの状態。

 生きて現世に帰りたいなら、左の道を進まないといけない。あの快速女に捕まらないようにしながら。

 ドン!という鈍い音とともに、車に衝撃が奔った。私はルームミラーでそれを確認する。走ってきた女がついに追いついて車の後部ガラスに張りついていた。先ほどの生首のように、異様な顔だ。

「うぎゃあああぁぁぁ!!」

 助手席の小向井氏が後方の女を確認し、またしても絶叫した。煩くて敵わない。そのまま自分の世界に閉じこもっていればよかったものの、なぜまた目覚めたのか?

 前方の道が右と左に分かれていた。絶対に間違ってはならない選択だ。私は迷わず左にハンドルを切った。

 緩やかな左カーブ。その先に眩い光が見えた。

 私は最大までアクセルを踏み込み、光に向かって走り抜けた。


「教習、おつかれさまでした」

 小向井氏が言い、教習手帳を私に返した。場所は教習所のコース内で、路肩に止めた車の前に私と小向井氏は立っている。

「これからもしっかり交通マナーを守り、運転免許獲得に向けて頑張ってください」

 そう言った小向井氏の頭からは、すっかり頭髪が無くなっていた。端っこにちょこちょこと生えているだけである。どうやら頭のカモフラージュが外れてしまっていることに、本人は気づいていない。あんな出来事の後であれば、それも仕方ないだろう。おそらく今日家に帰った後、小向井氏は溺れるほどに酒を飲むに違いない、と想像する。

 走ってくる女を振り切ってあの異様な場所から抜け出した後、私と小向井氏はとくにそのことについて話し合うことはなかった。まだあの体験を受け入れられていないことと、信じたくないという心理が働いてのことだろう。

 こうして私の初めての野外教習は終わった。今後高速道路での講習などもある。卒検も頑張らないといけない。せっかくここまでやったのだ、しっかりと免許を手にしたい。

 私は教習所の建物に向かおうとしたが、自分の鞄を教習車に置いていたことを思い出し、教習車の後部座席のドアを開けた。

 中に色白の女性が座っている。

「エンストに気をつけて。あなたの心臓の」妖しく微笑みながら、女性が言った。

 私はすかさずその場でUターンをし、ローギアに入れて発進した。私のクラッチはスムーズだった。一気に加速して、その場から走って逃げだした。

 今日も良い天気だった。

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ニュートラル・ロード さかたいった @chocoblack

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