乳首なき世に生まれつく

烏川 ハル

乳首なき世に生まれつく

   

「アポトーシスとは、要するに細胞の自殺だ。計画された細胞死とも言われるね。あらかじめ遺伝子によって設計された細胞死ということで、例えば……」

 いつものように、俺は教壇に立って、講義をおこなっていた。

「……オタマジャクシの尻尾。あれってカエルになると消えてしまうだろう? 成長の過程で尻尾の細胞が死滅するように、プログラムされているからだ。また人間の場合でも……」

 ここまでは構わない。問題は、もう一つの例示だ。

 心の中に少しの引っ掛かりを覚えながら、俺は話を先に進める。

「……胎児の段階では、指と指の間に水かきが存在している。SFやファンタジーの半魚人とか、現実世界でもアヒルなんかについている、あのひらたいやつだ。でも我々人間には必要ないため、水かきを構成する細胞はプログラム通りに死滅する。これもアポトーシスの一例というわけだ」

 ここで俺は、学生たちを見渡した。別に不思議そうな顔をしている生徒は見当たらないが……。

「では、次に……」


 しばらくして。

 その時間の講義は、無事に終了。

 俺が教室から立ち去ろうとしたところで、

舞木まいき先生!」

 一人の女子学生から、声をかけられた。

 長くて艶やかな黒髪が特徴の、とても真面目な生徒だ。よく質問に来るので、覚えてしまった。確か名前は、良戸よしど恵理えりと言ったはず。

 こんな目で学生を見てはいけないのだろうが……。俺にとっての良戸は、話をしていて心地の良い相手だった。つい俺は、笑顔で応対してしまう。

「何か質問かい?」

「先ほどのアポトーシスの話ですが……」

 いつも彼女は、スラリと姿勢が良い。目鼻立ちも整っており、いわゆる美人顔。リムの細い眼鏡が似合っているのも、俺的にはポイント高かった。

 しかし残念ながら、良戸には胸がない。ストンと真ったいらだ。俺のような巨乳好きとしては、良戸を女とは思えないくらいだった。

 そんな失礼なことを俺が考えているとは知らずに、

「……先生は例として、胎児の水かきの話を持ち出しましたね。教科書や解説書に書かれているのは、水かきではなく乳首の話なのに。なぜ変えたのです?」

 良戸は、俺に質問をぶつけてきた。それも、かなり重要な質問を。

「ああ、その話か。いや、別に、乳首でも構わないのだが……」

 大勢の生徒を前にして、乳首について語るのは恥ずかしい。抵抗がある。そう言ったところで、おそらく彼らには理解できないだろう。

「……ほら、乳首なんて、俺たち人間には縁遠い話題じゃないか。それよりは水かきの方が、例としてわかりやすいかと思ってなあ」

「あら。乳首くらい、私も見たことありますわ。山羊や牛、それどころか、ペットの犬や猫にもあるのですから。山羊や牛ほど目立ちませんけど」

「まあ、言われてみればそうだな」

「そもそも、人間の胸にだって、昔は乳首という器官がついていたのでしょう? だからこそ水かきと同じく、胎児に乳首がある時期も存在するのですよね? 確か、胎児は成長過程で生物の進化を模しているとか……」

「おお、凄いな。よく勉強しているじゃないか、良戸。もう俺が教える必要もないくらいだ」

 大げさに褒めると、彼女は少し頬を赤らめて、照れ隠しのように眼鏡に手をやった。こういう仕草は、正直、可愛いと思う。

「ありがとうございます。でも先生、独学では――教科書を読むだけでは――わからないような内容を教えるのが、先生の仕事ですよ」

「その意味では、教科書に載っていない『水かきの例』を持ち出した俺は、合格点かな?」

 冗談めかして言った俺に対して、彼女も冗談口調で返す。

「そうですね、合格です。……では先生、わざわざ、ありがとうございました!」

 一礼してから、良戸は立ち去った。

 少し彼女の後ろ姿を目で追うと、友人たちの元へ行くのが見えた。良戸と同じく胸の膨らみが全くない、完全無乳の仲間たちのところへ。


 そう。

 先ほど「残念ながら良戸には胸がない」と言ったが、それは良戸に限った話ではなかった。

 この世界の女たちには、おっぱいと呼べるような盛り上がりは、一切存在しない。その先端でアピールするはずの乳首すら、存在しないのだった。


――――――――――――


 もう何年も昔の話になるが……。

 ある朝、シャワーを浴びている時。

 ふと鏡を見て、俺は愕然とした。いつのまにか、胸から乳首がなくなっていたのだ!

 いやもう、最初は酷く焦った。

 何かの病気だろうか? 不治の病? 奇病?

 そんな言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け巡ったほどだ。

「『両胸乳首の消失』って、何だかラノベタイトルっぽくない?」

 と思ってしまったのは、それだけ俺が冷静さを失っていた証だろう。

 ともかく。

 病気なら病院へ行くべきだが、その前に「今日は休みます」という届け出が必要。でも正直に「乳首が消えました!」とは言えないし、かといって「気分が悪いので」とか「風邪をひいて」とかも違う気がする。

 結局。

 どう説明したら良いのかわからず、また、体の調子自体は悪いわけでもない。それならば仕事を休むべきではないと判断して、いつものように学校へ行き、授業を行う。

「病院へ行くのは、休みの日でいいや……」

 そう思いつつもドキドキしながら、その日一日を過ごした。


 仕事からの帰り。

 気分転換として――乳首喪失の動揺を忘れるために――、久しぶりにコンビニで立ち読みでもしようと思った。

 弁当やツマミなどをカゴに入れて、雑誌コーナーへ行き……。

 棚に並んでいた雑誌の表紙グラビアを見て、再び驚愕とする。

 確認の意味で、思わず手にとってページをめくるが、異常事態は表紙だけではなかった。巻頭グラビアも、皆一様に同じだったのだ。

「女の子たちの胸がない! 膨らみも突起もない!」

 思わず叫んでしまう俺。店員のいるレジは離れており、その場に他の客は誰もいなかったのが、不幸中の幸いだったかもしれない。

 おっぱいのないグラビアモデルたち。

 正確には、ないのは『おっぱい』だけではなかった。そもそも女性の胸なんて性的刺激を誘発する要素と思われていないらしく、胸を覆い隠す水着まで消えていたのだ。

 彼女たちは全てトップレスであり、つるんとした胸をあらわにした写真ばかり、掲載されていた。


 事ここに至り、俺は理解した。

 おかしいのは乳首を失った俺ではなく世界全体なのだ、と。

 そういう並行世界パラレルワールドに来てしまったのだ、と。

 あるいは。

「女の子には、おっぱいというポヨンポヨンの塊がある。それは、とても魅力的で……。俺は巨乳が大好きだああああああああ!」

 という記憶の方が、妄想であり、夢だったのだろうか?

 そこのところを突き詰めると怖くなるので、なるべく考えないようにしている。

 もちろん誰にも話していないし、病院にも行かなかった。精神科に入院させられたら嫌なので。


 その後、本を読んで、俺は知る。どうやらこの世界では、人間の乳房や乳首は退化してしまったらしい。

 母親が赤ん坊に乳を与えるのではなく、牛や山羊の乳を飲ませるようになったため、進化の過程で「授乳関連の器官は必要ない」と判断されてしまったのだ。

 いや、俺の元の世界にだって、母乳を与えない母親は結構いただろう。それでも退化するどころか、若い女たちのおっぱい平均は年々ねんねん大きくなっていったはず。

 それとも。

 あの世界でも『母乳を与えない母親』ばかりになったら、いずれは退化してしまうのだろうか……?


 ちなみに。

 いくら「巨乳が大好きだああああああああ!」と叫んだところで。

 実は俺、元の世界でも、本物リアルの巨乳は見たことも触ったこともなかった。いや巨乳どころか、普通のおっぱいすら無縁だったのだ。

 要するに、いわゆる童貞だったということだ。

 こんな世界に来てしまうのであれば、その前に風俗の世話になっておけばよかったとか、せめておっぱいパブくらい行ってみるべきだったとか、チラッと考えることもあるが……。

 根が潔癖症なせいか、冷静に考え直すと「やっぱり、そういうのは嫌だな」と思ってしまう。

 そんなわけで。

 俺が童貞を卒業したのは、こちらの世界に来てからだった。

 本当は真剣交際の恋人が出来るまでは『卒業』しないつもりだったのに、ああいうのは、その場の勢いなのだろう。

 こちらの世界の女性なので、当然、胸はツルペタ。まさか、そんな女性に俺が欲情するとは……。

 俺の初体験の相手は、行きずりというほどではないが、それに近い女性だった。結局、数回関係を持っただけで、別れることになったのだから。

 少し残念ではあるが。

 一度童貞を卒業してしまえば抵抗もなくなって、近いうちにまた、そういう相手が出来るのだろう。そう俺は甘く考えている。


 ともかく。

 その『初めての女性』との、夜の営みの中。

 揉みがいのない平坦な胸を――乳首すら存在しない胸を――執拗に、触ったり舐めたりしていたら、

「あぁん。……あなた、変なとこばかり攻める癖があるのね」

 と言われてしまった。

 さすがに、乳房も乳首もない世界だ。この世界では、女性の胸は、一般的には性感帯と思われていないらしい

 それでも、しっかりと相手は感じてくれていたので――演技ではなかったと思いたい――、それなりに気持ち良いスポットではあるのだろう。

 そういえば、元の世界にいた頃、官能小説で読んだことがある。「夫しか男性経験のない貞淑な妻が、ひょんなことから悪い男の餌食になる」というストーリーで、その『悪い男』との行為の最中。

 手足の指や背中など、とても性感帯とは思えぬ部位を愛撫され、それがヒロインには、信じられないほど気持ち良かった。身も心もトロトロに溶かされて、彼女は堕ちていく……。

 残念ながら俺の現実では、相手はトロトロになったわけではなく、堕ちたというほどでもなかったが。

 本質としては無乳愛撫も、背中や指を攻めるのと似ていたのかもしれない。


――――――――――――


 恋人もいない現在。

 いつものように、一人寂しく、帰宅した俺は……。

 ふとテレビをつけて、録画しておいた――保存用ではなく見終わったら消す用の――深夜アニメを鑑賞する。

 実は深夜アニメも、この世界では、微妙に異なっていた。

 例えば、ほら、ちょうど今映っている温泉シーン。元の世界ならば「サービスシーンだ!」となるが、こちらの世界では違う。水着グラビアでもトップレスだったように、女の胸が見えたところで、それほど男は興奮しないのだから。

 当然、乳首を隠すような『謎の光』も、この世界には一切存在しなかった。

 元の世界では、この『謎の光』が画面の大部分を占めるせいで「何が行われているのか視聴者には全くわからず、ストーリー展開が理解できなくなる」という酷いアニメもあり、辟易していたのだが……。

「『謎の光』が存在しないことだけは、この世界の長所かもしれない」

 と、ビール片手にテレビを観ながら、俺は呟くのだった。




(「乳首なき世に生まれつく」完)

   

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乳首なき世に生まれつく 烏川 ハル @haru_karasugawa

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