EPILOGUE:My course is set for uncharted sea.

 一見すると不規則に行き交う車は、整然と、予め決められたルートを決められた時間に通り過ぎていく。目を閉じて耳を澄ませば、それは無機質に駆動する歯車のようでもあり、あるいは脈打つ鼓動のようにも聞こえてくる。まるでこの社会全体が、誰もが放棄した意志を持って、どこかに設定された明確な未来に向かって蠢いているように。

 降り続いていた長雨はようやく止んだ。まだ少し雲の残る空の切れ間から柔らかな太陽の光が注いでいる。まだ路傍に残る水たまりは、そんな淡い光を受けて穏やかに煌めきを湛えている。

 やがて信号が赤へと変わり、示し合わせたように一斉に速度を落とした車が白線の道を目の前に開かせる。間もなく変わった青信号をちらと見やり、アクタは脚を引き摺るように歩き出す。



銀色の翼イカロス〉による共同体史上、前代未聞のテロ事件が幕を閉じてからもう三カ月が経っていた。しぶとかった残暑もとっくに過ぎ去り、空気は既に身体の芯を凍えさせるほどに冷たい。あと半月もすればまた新たな一年が始まっていく。

 もう三カ月。あるいはまだ三カ月。安心と安全を体現する共同体社会を襲った混沌は、まだ昨日のことのように鮮明に思えたし、あるいは遥か遠い過去の記憶のようにどこか実感を伴わずに褪せてもいた。

 文字通り命を懸け、無数の犠牲を払いながらも失われた自由を求めたフリーターたちの爪痕は、もうこの都市まちのどこにも残ってはいない。

 結果から言えば、〈銀色の翼イカロス〉の企ては失敗に終わった。

 社会を統べる超高度演算装置〈マーキス〉を破壊することは叶わず、掲げた理念を構成員たちに届かせることもできなかった。彼らの理想は呆気なく散り、儚くも潰えた。

 何より皮肉なのは、〈銀色の翼イカロス〉の理念を打ち砕いたのは共同体社会でも〈マーキス〉でもないということだ。他でもない、〈銀色の翼イカロス〉の革命に敗北を決定づける烙印を押したのは、アクタの意志だったのだから。

 それが正しかったのかは、今でもよく分からないというのが正直なところだった。

 百舌やウサキたちに受けた恩を仇で返したようなものだったし、何よりリクの意志を圧し折り、裏切ることになったのだ。

 だが後悔はアクタになかった。

 あの瞬間、リクが生き残るための道を選ぼうとすれば他に選択肢がなかったからではない。

 それまでリクがしてきたように、アクタもまた借り物ではなく自らの意志で、選んだことだったからだ。

 未曽有の混沌を経て、リクが得たものは何もない。あるいはこの社会自体、ある種の脆弱性を暴かれることとなり、人々の脳裏にはこの平穏が決して盤石ではないという恐怖を刻み付けられただけだろう。

 全ては失われた。自ら選んだ先にあったのは、窮屈な鳥籠から飛び出した先に広がっていたのは虚無だ。

 だがそれでも、自らの翼で飛び立ったのだという事実はアクタに慰め程度の心地よさを感じさせていた。その先が虚無でも、地獄でも。待っているのが絶望でも。あの日のあの瞬間、アクタの意志が確かにそこにあった事実は変わらない。

 やがて歩道を歩くアクタのすぐ脇につけるように、一台のタクシーが停車する。開いた助手席の扉から降りてくる人の姿はない。

 アクタは一瞬困惑し、何者かの視線を感じて振り返る。視線の先にはビルの出入り口に設置された街頭スキャナ。本来ならば真下の出入り口の映像を記録しているはずのカメラアイは、真っ直ぐにアクタの方を向いていた。


「そういうことか」


 アクタは不快感に眉を顰める。だが同時に、ようやく訪れた時の到来に口元は不敵に綻ぶ。アクタがタクシーに乗り込むと、ランプが送迎へと変わり、緩やかに発進した。

 信号で止められることもなく一定の速度でスムーズに都市を走るタクシー。やがて向かう先に、天を貫く巨塔が見えてくる。

 クロノタワー。

 あの未曽有の事件の爆心地であったその場所は、忌々しい記録を塗り潰そうとするかのように人々で溢れ、活気に満ちている。事件後、しばらくは業務を停止していた〈新界興業〉も新たなCEOに正木風那マサキカザナを迎え入れ、既に通常通りのドローン開発ラインを復旧させている。

 件の事件が最小限の被害で留まったのは、カザナの尽力によるところが大きい。事件の最中、織香早蕨オリガサワラビの死によって権限保有者ホルダーとなった彼女は、自主制作のものも含む無数のドローンとともに地上にて混乱の収拾に努めた。

 公式な発表は為されていないものの、構成員たちの多くはクロノタワーでの暴動を鎮圧したのもカザナによる功績だと信じているものが少なくない。

 もちろんアクタの存在はトップシークレットだった。そこにいかなる葛藤や紆余曲折があったとしても、アクタが行ったのはただの裏切り。第三者の目から見れば、仲間割れによって事件が収束したことになる。

 だが〈マーキス〉は共同体の新たなスタートに戴冠すべき象徴イコンを求めた。そしてその役目は他の誰でもなく、早蕨が見出して遺したカザナに課せられたのだ。


「よっ」


 タクシーから降りると、カザナが相変わらずボディーガードの一人もつけずに出迎えてくれた。事件の日以来の再会だったが沸き起こる感情はなかった。

 アクタは彼我の距離感のギャップに依然として困惑を覚えつつ、カザナの先導でクロノタワーの地下へと下る。


「仕事はいいの?」

「うん、まあね。デザイン図だけ書き上げて、ハンコ捺しちゃえばさ、あたしのすることなんてそんなにないの。まぁ対外的な色々はやらなきゃいけないらしいんだけど、面倒だから断ってる」


 CEOとしては不適格な発言だったが、カザナはどこか得意気だ。


「そっちは、学校とかどう?」

「ああ……色々と公になってないおかげで、一応今まで通り。そもそもおれには、離れてくような友達とか恋人すらいねんだわ。進路とかも、たぶん問題ない」

「そっか。ま、ヒナキアクタは共同体を救った英雄だもんね」


 カザナが冗談めかし、アクタは自らを嘲るように乾いた笑みを浮かべる。

 話すべきことはたくさんあるはずなのに、何をどう話すべきか分からなかった。二人は靴音だけを重ねて歩き、共同体の心臓へと辿り着く。

 不意にカザナが立ち止まり、アクタは彼女を振り返る。


「あたしはここまで。それが〈マーキス〉の言いつけ。ここから先は、君が一人で進むの。まだ決着けりついてないんでしょ? 言いたいこと言って、言われたくないこと言われて、きっちり話しておいで。きっと話せば分かるから。なんてったってだし」


 彼女は色違いの目を細めて笑顔をつくり、ひらひらと手を振る。アクタはカザナに背を向け、鉄扉の奥に座す機械仕掛けの女神へと足を踏み出す。


「ここ――」


 背後から、縋るような声が届く。震える声を振り払うことはできず、アクタは立ち止まる。しかし今度は振り向かず、ただ前を見てカザナの言葉を待った。


「……ここ、なんでしょ? リクと、喧嘩した場所」


 言われ、思わず笑みがこぼれる。喧嘩、などという生易しいものではなかった。リクは本気でアクタを殺す気だったし、アクタもまたリクの全てである意志を否定しようとした。


「生きて、るんだよね? リクはこの共同体の、……いや、広い世界のどこかで。生きてるんだよね?」


銀色の翼イカロス〉によるテロ事件は、首謀グループである〈銀色の翼イカロス〉のメンバー全員の死亡で幕を閉じたことになっている。だが実際はアクタが行動の通り、リクやウサキなど数少ない構成員は東部都市圏を脱出し、逃亡している。

 おそらくカザナはアクタが何をしたのか、気付いているのだろう。真実を知ったカザナが権限保有者ホルダーとしての責務を果たそうとするのか、あるいはただ弟分であるリクの身を案じているだけなのかは分からなかった。だがどちらにせよ、アクタの口から語るべきことはなかった。


「……リクは。もうおれらの前には、二度と現れないよ」

「そう、だね」


 カザナが泣きそうな顔で微笑むのが分かった。アクタは振り返らずに歩き出す。きっとカザナには、あの場所で一人になる時間が必要な気がした。

 開いた鉄扉の先にある通路を抜け、二枚目の扉を前にする。ゆっくりと開いていくそれを睨みつけながら、アクタはその手に嵌めた白黒の手袋の感触を確かめた。


        †


『お久しぶりです。ヒナキアクタ』


 耳障りな穏やかな声が、頭のなかで響く。視線の先には乳白色の機械の大樹。その中心には阿比留導火アビルトウカの脳髄が収められている。


「わざわざ呼び出した用件は何だ?」


 何かアクタに伝えなければならないメッセージがあるならば、〈マーキス〉は〈パラサイト〉を経由するだけで事足りる。にもかかわらず、こうして再び姿を見せたことにはそれ相応の理由があるに違いなかった。


『ふふふふ……。用件があるのは、そちらではありませんか? ――〈アイギス〉、気に入って頂けたようで何よりです』

「――――っ!」


 あからさまな挑発に、アクタは漆黒の左手を〈マーキス〉へ向けた。ありとあらゆるセキュリティが突破され、あるいは溶解し、その基幹システムが丸裸になるのが、分かった。だが純白の右手は翳されず、荒れ狂う感情を堪えるように握り込まれた。


「……後悔するぞ?」


 アクタが握った拳を開き、その掌を翳せば、〈マーキス〉はアクタの手に落ちる。停止させるも、私利私欲のままに操るも、全てが思いのままになるのだ。


『脅しは通用しません。だから再びここへ招かれたのです』

「舐めやがって……」

『滅相もない。現在、私はヒナキアクタという個人に対し、権限保有者ホルダーであるマサキカザナより上位の価値を認めています』


 思わぬ言葉に、アクタは肩透かしを食らったような気持ちになる。だが左手は翳したまま、アクタは〈マーキス〉へと問う。


「どういう意味だ?」

『貴方は盲目的、模範的な構成員とは言い難い。ですがその内面は典型的な構成員そのものと言えるのです。〈マーキス〉という存在に対し、あるいは意志の外部委託アウトソーシングという状態に対し、強い反感を抱いています。これは自殺者や鬱病の増加という問題の当事者たちの内面に通じるものです。ですが貴方は共同体社会に、あるいは人類に〈マーキス〉が必要不可欠であることを理解している。このアンビバレントな状態は、多くの構成員が抱く複雑な感情を理解する上で非常に有用なモデルケースとなるのです』


 その言葉に、アクタは奥歯をぎりと噛み締めた。


「つまり何だ? おれは〈マーキス〉を憎んでいるのに、〈マーキス〉に縋らないと生きていけねえって分かってるから反抗はしねえだろうってか? ふざけるなよ……っ」

『どう解釈し、表現しようと構いませんが、事実です。貴方は〈銀色の翼イカロス〉の事件を通し、人々の意志がどれほど脆弱なものかを目の当たりにしました。ミシナリクらのように、自らの意志を明確な指針として行動できる人間はごく僅かなのです。

 無論、人の意志を軽んじているわけではありません。私は一連の事件において、意志が人間の行動制御に関わる側面で持ちうる重要性について再認識しました。だからこそ私は〈アイギス〉をヒナキアクタ、貴方の手に委ね、その行く末を見届けることを決定したのです』


 アクタは怒りに震えた。〈マーキス〉は今も尚、人の意志を弄んでいる。〈銀色の翼イカロス〉の予測通りに動かし、自らの探求と進化の礎にしたように、FEC3の全ての構成員の意志と感情を自らの糧としようとしている。

 だが迸るこの激情を、向けるべき矛先はない。〈マーキス〉の言う通り、アクタにはその支配に終止符を打つことができないのだ。


『恥じることはありません。貴方は有用なモデルケースとして、人類社会の繁栄に寄与するのですから。〈マーキス〉の進歩はこの共同体そのものの幸福を増大させることに等しいのです』


 穏やかな、だがどこまでも傲慢なその声。アクタは荒れ狂う激情を抑えつけ、翳したままの漆黒の左手を固く握った。


「人の意志は、お前なんかに測ることはできない。お前がいくら分析に、おれたちから引き剥がそうと、絶対にいつか、人の意志がお前を選ばなくなるときがくる」


 そう言葉を突き付けるのが精いっぱいだった。今はまだ――。

 アクタも、他の構成員たちも、〈マーキス〉のいない未来を想像すらできないのだから。

 だがそれでも、リクと出会い、道を違った末に掴んだ自らの意志を、手放したりはしない。

 アクタは手から乱暴に〈アイギス〉を剥がし、床へと叩きつける。それが今のアクタにできる、〈マーキス〉の力を拒絶するという意志の精いっぱいの表明に他ならない。


『ふふふふ……。ふふふふ……』


 鈴を転がすような、それでいて自らの優位を確信するような、優しくも高慢な笑みが響く。


『いいでしょう。それが社会の繁栄に繋がるのなら、そのときは喜んで受け容れましょう。楽しみにしています、ヒナキアクタ。貴方の意志が進む先にあるのは、幸福か破滅か――。いずれ分かるときが来るでしょう』



                         〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

タンタロスの庭 やらずの @amaneasohgi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ