CHAPTER10:Conquer yourself rather than the world.(5)
リクの振り抜く拳がアクタの視覚から飛び出して肋骨の下へと減り込む。脳までを貫くような衝撃と歪な音。呼吸が止まり、視界が火花を散らして瞬く。がくりと膝をついたアクタの顔面を、蹴り上げられたリクの爪先が穿つ。
「あがっ……」
仰け反ったアクタはそのまま地面に倒れ込む。容赦なく振り下ろされるリクの靴底を、転がって紙一重で躱す。地面に鼻血で線を引きながら起き上がり、血塗れの顔面を荒っぽく拭う。霞む視界は血で赤らみ、凝らしてようやく佇むリクを捉える。
「随分、息があがってるね」
「んな、ことなら、もっとまじめに、訓練受けときゃよかったぜ……くそっ」
「後悔は意味の深い感情だよ。現在における意志の萌芽を感じさせてくれる」
リクが迷いなく踏み込んでくる。アクタは咄嗟に立ち上がり、リクから距離を取ろうと後ろへ下がる。
「さっきの威勢はどうしたのっ! 逃げてるだけじゃぼくは止められないよっ!」
リクの拳が鼻先を掠める。続く蹴りが腿を強かに打ち、傾いだところを肘打ちが襲う。またも顔面を打ち抜かれたアクタはよろめきながらも、今度は倒れることなく踏み止まる。しかし踏ん張った矢先、鳩尾にリクの膝が打ち込まれる。
肋骨が砕け、臓腑の奥から込み上げた血を吐く。それでも倒れず、今にも折れそうな足で踏み止まってはリクを睨む。
「ほら、どうした……まだ、全然やれんぞ」
挑発するアクタに、リクは悲しげに瞼を伏せる。かと思いきや鋭い拳が放たれ、アクタは反応する間もなく頬骨を砕かれる。奥歯が吹き飛び、アクタはたたらを踏んで壁にもたれる。リクはまるでこの時間を一刻も早く終わらせることを願うように、アクタへの追撃を畳みかける。
リクの拳がアクタの鼻梁を圧し折り、蹴りが脇腹を抉る。腕を取られては関節を外されて投げ飛ばされ、痛みに喘ぐ間もなく横たわったアクタの腹に重い蹴りが見舞われる。
反撃の余地はない。
もちろんリクが相手だからと言って手心を加えているわけではない。アクタを殺すつもりで向かってくる本気のリクに、アクタが為す術は皆無だった。
力なく床に転がったアクタを、リクが眉を寄せながら見下ろす。アクタは全身が痺れたように動かない。ぼろ雑巾のほうがいくらかましな状態だというのに、それを見下ろすリクの眼差しはアクタよりもずっと、深い苦痛に満ちているように思えた。
「……なぁ、リク」
アクタは力を振り絞る。掠れた声は辛うじてリクの耳へと届く。
「〈マーキス〉を、倒して……それで、そのあと、お前はどうする、つもり、なんだよ……? 倒したら、それで、満足、なのか……?」
吐き出された問いは真っ直ぐにリクへと向けられる。
「〈マーキス〉さえ消えれば、囚われていたぼくらの意志は取り戻される。生きる以上、あるいは死ぬとしても、僕らは何かを選ばざるを得ないから」
リクはそう答え、口を噤む。アクタの応答を待っているかのようだった。
アクタが応答するには考える時間が必要だった。言葉を選ぶ必要があった。アクタはリクほど聡明ではないから。だがどれほどの時間を掛けても、答える必要があった。もう流されるだけの自分ではなく、同じ地平で向かい合うことのできる存在なのだということを自分にもリクにも、示さなければいけない。
「……〈マーキス〉が、なくなれば、あるのは混乱だぞ……。そんな、未来で、誰が幸せになれん、だよ」
〈マーキス〉がいない未来に幸福はない。少なくとも今〈マーキス〉がいなくなれば人々はただ途方に暮れて混乱に陥るだけだ。アクタたちはその片鱗を目の当たりにしてきた。現代を生きる人々に、リクや百舌のように何かを選び取り、未来を切り拓いて進むような力はないのだ。
それに人の意志がもたらす破滅を、何よりアクタたちの知らぬ歴史が証明している。世界紛争は滅亡の一歩手前まで人類を追い込んだ。だからこそ人々は意志を棄てて機械仕掛けの女神に縋った。
その先に待つのが破滅だと分かっていながら、どうしてこうまでして進むのか。
この期に及んでなお、未だ手を取り合う余地が残されていることを願うようなアクタの問いはしかし、二人の決別をさらに強固なものにするだけだった。
「幸せである必要があるのかい?」
その確信に満ちた言葉の意味を理解するのに、アクタに与えられた時間は短すぎた。
「ぼくらが生きるのは今。望むのは今――現在を選択する意志。その結果として未来が破滅だというならば、ぼくはそれを受け入れるべきだと思う。人類滅亡? 大いに結構。それがぼくらの意志がもたらす結果ならば、死さえも価値を持ち尊い。少なくとも〈マーキス〉の言いなりになって得た幸福なんかよりもずっと」
「そう、かよ」
アクタは理解しえない断絶に大きな虚無を抱えながら、左/右――――満足に動かない腕を掲げて掌を翳す。
「無駄だよ。もう〈パラサイト〉はつけてないんだ。視界をクラックすることは――――え?」
振り返ったリクの肘から先が切り落とされ、刃はなおも閃いてリクの左眼もろとも額を断ち割る。
リクはたたらを踏み、アクタのすぐ横に倒れ込む。遅れて、吹き飛んでいたリクの左腕が鈍い音とともに床に落ちる。身体は激痛を訴えているはずなのに、あまりに唐突のことに理解が追いついていないのか、リクは眉根を寄せたまま宙で撓る刃の元を見上げている。
立ち尽くしているのは一機のハウンドだった。マサキカザナが生み出した、尾の電磁パルスを刃に換装された
〈パラサイト〉に干渉できる〈アイギス〉を駆使して戦えば、リクが〈パラサイト〉を放棄するのは分かっていた。そして〈パラサイト〉を捨てれば、消失した反応を追ってシステムに従い動くいずれかのドローンがこの場所にやって来る。
この瞬間を、待っていたのだ。
「……はは、してやられた……」
リクは駆け巡る痛みに表情を歪める。出血は夥しく、地面に広がる血の海はリクとアクタを繋いでいく。アクタはやはり動けないまま、重なり合う二つの呼吸に耳を傾ける。
「死が、尊いわけがあるかよ……。涙が出そうになるくらい、生きろよ。馬鹿野郎」
「……いいね、それ」
リクは微笑み、重たくなっていく瞼を閉じていく。その表情に、もはや苦悶はなかった。
「おれの、勝ちだ。……畜生が」
アクタはぐったりと項垂れながら、か細い呼吸を繰り返すリクにそう宣告する。
†
作戦は失敗した。
ドローンの襲撃を許し、
だがそれでも。
ここで退くわけにはいかなかった。死んでいった仲間のために。百舌の願いのために。最後に残されたのが自分だというならば、突き進んで果てるまでだ。
「百舌……待ってて、わたしも、すぐに、いくから」
もちろんウサキも満身創痍。既に左腕は潰れて使い物にならず、右の腿は大きく抉られて華奢な体躯を支えることさえままならない。だがそれでも、ウサキに退路はない。
壁に血の帯を引きながら、ウサキは前へと足を進める。
そして目の前に立った一人と一機に眉を顰めた。
理由は二つ。一機の背に、傷だらけのリクが担がれていたこと。そして一人――幽鬼のような表情で立ち尽くすアクタの表情が、これまでと決定的に違ったこと。
だからこそ、アクタがもうウサキの知るアクタではないとすぐに理解した。
ネイルガンを抜く。早撃ちには自信があったウサキだが、引き金を引くより速く、アクタの両手が交互に翳される。一体どういうカラクリか。引き金は固くロックされて動かなくなる。
「なぁ、あんたに頼みがある」
掲げた掌をゆっくりと下げ、穏やかだが有無を言わせない――ともすれば百舌の面影さえ感じさせる響きでもって、アクタが言った。
ウサキは為す術がないと判断したのか、ネイルガンを地面に捨てて両手を挙げる。アクタもまた彼女に対して敵意がないことを示すように両手を挙げた。二人は互いに両手を挙げる奇妙な格好で対峙した。
「革命は失敗した」
まず端的な事実を冷酷に告げた。ウサキの表情が微かに歪んだ。
革命は失敗だった。多くの血を流しすぎていたし、百舌やリクたちが思っているほど人は強くなかった。暗闇のなかで何かを選んで進むことは、彼らの想像を遥かに凌いで困難だった。だからもし今〈マーキス〉を失えば、人類は今度こそ終わりだった。
もし今〈マーキス〉の打倒という革命が成功するならば、それは〈マーキス〉に代わる何かが人々を導いたときだけなのだろう。そしてそれは百舌たちの理念に矛盾する。つまり極論を言ってしまえば、辿り着く先のない革命など端から無意味だったのだ。
「でもおれはリクを救いたかった。だからおれは、〈
「そういう割りに、彼は瀕死のようだけど」
ウサキはちらとハウンドの背に担がれたリクを見やる。何とかシャツの切れ端で止血を試みているものの出血は多く、機械の背は赤黒く濡れている。
「ああ。だからあんたのとこに来たんだ」
「どういう意味?」
「逃げてくれ。リクを連れて。そして生き延びてくれ」
アクタの言葉を突き離すように、ウサキは眉を顰めた。
「ふざけないで。逃げる? あり得ない。ここまでに犠牲となった仲間の思いを無視して、自分だけ生き残るなんてことが許されるわけがない。誰が許しても、わたしはわたし自身を許せない」
「百舌の願いは、あんたがここで後追い自殺みたく死ぬことじゃない」
アクタは語気を強める。ウサキは一瞬だけハッとしたような表情を浮かべ、すぐにアクタを睨みつけるように表情を険しくする。
「百舌の願いは、革命の成就だろ。ならあんたが選ぶべきは、リクと生き延び、時間を掛け、再起を図ることじゃねえのか?」
「どういうつもり? わざわざ敵を見逃して、また仕掛けてくるよう嗾けるなんて」
「敵でも何でもいいんだ。言っただろ、おれはリクを生かす。そのためだけに選んだんだ。何度だって〈マーキス〉に立ち向かえばいい。それはあんたらが、リクが選ぶことだ。だけどおれはその度にリクを生かす。絶対に死なせはしねえ」
たとえ歩むのが決別の道で、その意志を挫き続けることになるとしても。
それでもアクタは、リクが生きる世界で生きることを望む。
それが決して重なり合うことのない、憎悪と怒りに塗れた道だとしても構わない。
ウサキは挙げていた両手を下げる。その表情に反抗の意志はなく、理解とは程遠い諦めのような感情があった。
「
アクタはハウンドに手を翳す。首のない猟犬は従順に、リクに刺激を与えないよう静かな駆動でウサキの元へと進む。
「……後悔するわよ」
「しねえよ。自分で選んだんだ」
「そう」
ウサキはそれだけ言って、ゆっくりと踵を返す。その歩みに付き従うように、リクを背負ったハウンドが歩き出す。
リクの姿が遠ざかっていく。
アクタはその姿を目に焼き付けるように見送り続ける。やがてリクたちの姿が見えなくなるころ、アクタの心身は限界を迎え、深い水底のような暗闇へと落ちていった。
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