第一章 魔術師と猟犬②
「今日は、何かあるのか?」
その日の晩。『
エラと話し込んでいたアルフレッドが、
たとえるなら、街自体が、どこか不安定に
通りには人が一方向に向かって足早に歩き、時折
「『
二人とは
彼女が動くと、
「何それ」
オリビアは目を
「おやおや。私より若い子達が知らないとはね。王都じゃ有名な
エラに言われてなお、オリビアにはぴんと来なかった。
「大道芸?」
低い声でエラに尋ねる。エラは口紅のにじむ
「そんなもんじゃないのかね。私も実はよく知らないのさ」
「ふぅん。
そう声を
「行かないよ!」
反射的にオリビアはぶんぶんと首を振る。アルフレッドは不満そうに鼻を鳴らしてみせた。
「なんでよ」
腕を組み、幼い子どものようにオリビアを
「行ってきなよ、オリバー」
エラが噴き出しながら言った。すると、目じりの辺りから
彼女の頰に、傷が刻まれたあの晩。
それは、今日の夜のような、
その傷をつけたのは、彼女の
たまたま『
視界に入ってきたのは、女性に馬乗りになって、ナイフを
『自警団を呼ぶわよ!』
アルフレッドが
『やめて。あいつが
女性は
あの男は情夫であること。逃げても逃げても、彼女が
オリビアにとっては何もかもが信じられず、考えられず、思いもしなかったことだ。
自分の父親であるウィリアムが、妻であり恋人でもあるシャーロットに暴力を振るうなど、想像すらできない。
そして、アルフレッドの両親であるユリウスとアレクシアも仲がいい。オリビアの周囲には、「恋人に暴力をふるう男」など存在しなかった。
だが、『
「その奇術師達はどこでやってるの? 今から行っても間に合うかな」
アルフレッドはいてもたってもいられない、と言わんばかりに
───……元気になってよかった。
アルフレッドに説明をしているエラを見、オリビアは思う。
結局、アルフレッドは自警団にエラの情夫の情報を渡した。自警団は情夫を捕まえ、そして『
エラは今後、あの情夫に追い回されることはない。上前を
この、『
そう。裏を返せばエラは、結局『
自分達がしたことが。していることが、正しいことなのかはわからない。いつもこれで良かったのか、とオリビアは自問している。もちろんそれは、アルフレッドもだ。
アルフレッドは、
アルフレッドは自分の力と知識だけで弱者を守ろうと必死だ。『
そんなアルフレッドを見ていると、『じゃあ、私には何ができるのだろう』、そんな問いが、いつも心に
そして、ひとつの答えを出した。自分は、アルフレッドを守ろう。『
それは、父であるウィリアムも、ユリウスに対して日々感じていることなのではないだろうか。
ユリウスが王位にいて善政を
きっと、今、自分がアルフレッドに感じているような。そんな思いに
「……
仕方なく、アルフレッドにそう申し出た。
「楽しんできて」
オリビアとアルフレッドに、エラが声をかけてくる。
オリビアはしばらくそんな彼女を
アルフレッドに腕を取られたまま、
「二ブロック先らしい」
拍車が鳴る音に交じり、不意に低い声が耳元で聞こえた。オリビアは
「なに」
まじまじと見過ぎたせいだろう。アルフレッドが不思議そうに目を
「いや。地声だ、と思って」
ありのままをオリビアが言うと、はん、と
「お前と二人なのに、なんで裏声なんだよ」
低い声で言い放たれ、言うんじゃなかった、と目線を
「知らねぇんだよな」
同時に、どきりと息を
多分、地声で
どきり、と。また心臓が強く脈打つ。
反射的に背をのけぞらせようとするのに、組まれた腕がそれを
───力が、強くなってる……。
ほんの数年前までは、オリビアの方が強かったのに。
それは、誰もが知ることだ。だからこそ、オリビアは女子でありながら、アルフレッドの
『さすがウィリアム
自分も、父のようになれる。本気でそう信じていた。
だが。
その自分は今、アルフレッドの護衛騎士から外されようとしている。
「……なに」
「なんにも」
そう答え、胸から
「知らない、って何を?」
オリビアも
「いや、だからさ」
ごほり、と
「『
オリビアは首を
「王都で
今年もアルフレッドはユリウスに付いて王都に行ったはずだ。そのとき、耳にしなかったのだろうか。
「少なくとも、おれは知らん」
アルフレッドは首を小さく横に
『母国では知らぬものなし』『他領ではすでに
海港都市であるルクトニア領では、そんな触れ込みは
「アルは奇術師って見たことある?」
オリビアはアルフレッドと歩調を合わせながら
「手品師とどう
オリビアが小首を傾げると、「それな」と
「奇術と手品って何が違うんだよ。
鼻息
「剣とか飲んだりするのかな」「
二人とも争うように「自分が思う奇術」を口にしながら、エラが教えてくれた場所に向かう。
エラは「二ブロック先」と言ったが、すでに一ブロック過ぎた辺りから、大勢の
思わず二人は顔を見合わせる。楽しそうだ。あれだけ行き
大きな爆発音だった。
「……え?」
アルフレッドが声を
オリビアは公演を行っているという広場に通じる街路へ、
途端に上がったのは
───何が、起こってる……?
オリビアは慎重に一歩
そしてすぐに足を止め、息を吞んだ。
群衆が、一気にこちらへなだれ込んできたからだ。
多分、公演を
完全に体勢を
ねじられるように背後から腕が引かれる。
痛みに顔を
ふわりと甘い香水がよぎる。
背中に軽い
「
予想外に間近から声が降ってきて
「……
それだけの動きに、空気が揺れ、
甘い。桃に似た香り。
「……アル」
声が震えた。「おう」。ぶっきらぼうな声が左耳の
不意に、ぎゅっとアルフレッドが
「ってぇなあ! おいっ」
アルフレッドが背後に向かって、
あれだ。自分が群衆に押されて
「待って、待って! 大丈夫だから、私」
オリビアは慌てて姿勢をただそうとしたが、膝を伸ばせばアルフレッドと顔がくっつくし、縮めれば護衛としての役目はほぼ
「ぐへっ」
頭頂部でアルフレッドの胸に
「
出てないかな、とオリビアが周囲を窺った側では、アルフレッドが胸を押さえてむせていた。
次の瞬間、再び軽快な音楽が鳴り始めた。
ぴたり、と。群衆が足を止めた。オリビアもそうだ。今度はなんだと周囲を見回す。
「さぁさぁ、まだまだ!」
朗々とした男の声が広場の方から聞こえてくる。ガツガツと
「……まだ、やってるのか?」
「なんだ、さっきのは事故じゃなかったのか」
オリビアの周囲の男達がそう言うと、苦笑いを浮かべながらまた広場に
誰かが指笛を鳴らすと、
「……落ち、ついた……?」
「よか……。痛っ!」
よかったね、アル。そう言おうとしたのに、ぱちり、と頭を
「何すんのよっ」
「それはこっちの
頭を
「
「アルが離れてくれなかったからじゃないっ」
「離れて、って言えばよかったろうよっ」
「言った!」
「言ってねぇ!」
その後も、「言った」「言わない」の不毛な会話を数十回ほど
「そこのレディと
二人の会話に割って入る、低い声があった。
背中に氷水でも流されたように二人は背筋を
まずい。咄嗟に無表情で顔を
───聞かれた……っ?
オリビアはぎゅっと
「いやいやいや、ご無事で何よりでした」
目の前に立っていた
「レディ。何事もなく、心より
するりと背を伸ばして目を
黒いシャツに黒い上着、
「お怪我は? 大丈夫ですか?」
のぞき込むように男が
「お
オリビアは小さく
「よかった。あちらで見ていたら、人が
男は公演会場の方を指さし、
「
オリビアは会話を
「これは」
男は、ぱん、と上着の
「『
ノアと名乗った男は、人好きのする笑みを
「先ほどは、うちの
ノアは
「まだまだ未熟でお
そう
「は?」
思わずオリビアも
「ぼくに名前を尋ねた騎士殿のお名前を
甘い笑顔で尋ねられ、
「オリバーだ。騎士位を持っている」
わざわざ言わなくて良いことまで口にしたのは、
「そう。やっぱり騎士殿か」
返すノアの言葉にオリビアは戸惑う。なんというか、目つきや
この『
───……育ちの、いい男なのかな。
オリビアは
「レディ」
ノアは灰緑色の瞳をアルフレッドに向ける。
「お名前を伺う
目を伏せ、わずかに頭を下げるノアに、アルフレッドは生来の
「アリーよ」
短く答えると、「ああ」と彼は声を上げた。
「あなた方が『
目を細めてノアは笑みを深めた。
「子ども達に文字を教え、
アルフレッドは興味なげに
「『
アルフレッドはしばらく無言でノアを
「これ、自警団や衛兵の許可を得て
ぶっきらぼうに尋ねると、ノアは「許可証は出ていますよ」とにこりと笑った。
その笑みに、オリビアは首を傾げる。
さっき自分に見せたような笑みと、どうも種類が
「事故は起こさないで頂戴よ」
アリーの言葉に、ノアは慎ましく頷いた。そのやりとりを見て、オリビアは少し気の毒に思えてくる。確かにさっきは危険な場面ではあったが、一方的にノアは言われっぱなしだ。アルフレッドが次の言葉を
「ノアも奇術師なのか?」
低くそう尋ねる。「ぼく?」。ノアは真正面からオリビアを見、薄い唇を三日月にかたどる。
「そうだよ。興味ある?」
「興味は、ある」
「どんなことに?」
ノアはくすりと
その態度がオリビアの気持ちを立て直す。負けん気が首をもたげて彼女の瞳を光らせた。そこに「
「奇術師とは、どのような
オリビアはおどけて「
「そうだな。ご迷惑をかけたお
言うなり、ノアはするり、と腕を解く。無造作にぐい、と
「ほら」
いきなり二人の目の前に
くすり、と笑い声がする。ノアの灰緑色の瞳が
ノアはその手を
「うわっ」「にゃあっ」
二人は同時に悲鳴を上げる。
ノアの右掌から、
「
「「大丈夫」」
アルフレッドはオリビアの睫が焦げていないことに頷き、オリビアはアルフレッドの鼻がついていることを
そんな二人はすぐに
「失礼、失礼」
ノアは口元を軽く握った
「あんまり、
視線を向けられ、オリビアはそう言われる。
「無礼者」
短く切って捨てると、「失礼、
「タネはこれだよ」
そこにあるのは、一つまみの綿だ。
「……綿?」
アルフレッドが
「綿って、結構燃えにくいよ」
ぼそり、とオリビアが言う。火種を包むときに使うことがあるが、さっき見たように燃え上がることはない。どちらかというと、火が「こもる」のだ。
「これは、
ノアは
「
ノアは
「この硝化綿に熱を近づけると、
「……でも、今は燃えてない」
オリビアはおそるおそる、ノアの掌に
「今は火と
ノアは笑った。
「さっき、お二人の興味を右手に
そう言って、上着の
「公演でもこのようなことをしたのか?」
オリビアは首を
「もう少し
「例えば?」
アルフレッドが
「過酸化水素水の分解による化学反応を使った
「……なんだって?」
オリビアが
「過酸化水素水に石けん水を混ぜるんだ。その後、ヨウ化カリウムを混ぜると、分解反応が起こって、勢いよく
「………ふーん、なるほど………」
オリビアは
「単純なものなら、口からアルコールを噴いて火をつけたりとか……」
「皆が
アルフレッドの質問に、ノアは口をへの字に曲げてみせた。
「マグネシウムを
へぇ、とオリビアは素直に
「ルクトニアは海港都市だから。他領よりも
アルフレッドがファルセットの声を放つ。オリビアはふと彼を見上げた。
同時に、ぴくり、と、背筋を強ばらせる。
それほどアルフレッドは
「もちろん、王都でもあんた達の
「おや、そうですか。なるほど。ぼく達も、まだまだだ」
ノアはアルフレッドの視線を
「しかし、この海港都市の
ノアは穏やかに笑う。
「そうだろう」
「なにしろ、前王ユリウス様が治める領だ。他領とは格が違う」
「まったくだ。ぼくのようなよそ者でも、そのことは重々わかるよ」
ノアは目を細め、オリビアに視線を合わせて腰を折る。同意されたことに気をよくしたオリビアは、さらに何か言いつのろうと口を開くが、ノアの方が先に言葉を発した。
「まさに、王都を
とん、と。ノアの言葉は、オリビアの心に確かな
オリビアは改めて目前の青年に
「ぼくが子どもの
ノアは曲げていた腰を
「モノは
ふわり、と笑った。首を傾げ、静かに。
「領主が
ノアはくすり、と声を立てて短く笑った。
「前王は
ただただ、落ち着いた低音でオリビアに尋ねる。だが、オリビアは口を引き
警戒音が、鳴る。
頭の奥底で、危機を知らせる何かが
「このような
「……ガラス玉よ」
アルフレッドは首をねじってノアの手を
「ガラス玉、ですか。なるほど」
そう言い、目を細める。
「言われてみれば、これほどの孔雀石。本物であれば、
ノアは、首を傾げてみせた。
「国王か……。この領でしたら、ユリウス閣下でしょうか。それとも、そのご子息か?」
親し気に話しかけるが、アルフレッドは
「ルクトニアは海港都市。レディも外国語に
アルフレッドは口を引き結んだまま、相変わらず、だんまりだ。
「
「帰ろう、オリバー」
オリビアが何か言う前に、アルフレッドは短く告げる。その声には
「……待って、アル」
路地を曲がったところで、オリビアは先を歩くアルフレッドの手首を
「あいつ、変だ」
足を止めたアルフレッドは、手首を摑まれたまま振り返り、口早にそう言った。
「……確かに。言葉の
戸惑ったオリビアはそう言うが、「普通の奇術師ってなんだよ」と
「じゃあ、アルは具体的にどう思うわけよ」
むっとした顔でオリビアは言い放つ。
「こっちを
「こっち……。うーん……」
首を
「まぁ……。そう、かな」
ぼそり、とオリビアが
「おまけにあいつ、絶対おれとお前の性別のこと、気付いてるって!」
オリビアは「えぇぇ?」と
「だって、お前を女として
アルフレッドにそう
そして同時に、ノアがアルフレッドに向けたのは、明らかに「高位の人間」への対応だった。
自分達は「アリー」であり、「オリバー」だと名乗った。オリビアに関しては「
「あいつ、おれ達に近づいたのは
「……どういうことよ」
アルフレッドの低い声に、オリビアは目を見開いた。偶然以外に何がある、というのだ。
「なんか、気になるんだよな……」
湖氷色の
オリビアはその
そう決意した矢先、アルフレッドの双眸が自分に向けられた。
「……なに」
ノアに感じた『危機意識』とはまた別の『
「明日、もう一度『
案の定、そんなことを言い出す。
「はああああああ!?」
オリビアは
彼の決断が
【書籍ver】ルクトニア領繚乱記 猫かぶり殿下は護衛の少女を溺愛中 さくら青嵐/角川ビーンズ文庫 @beans
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