加瀬豪高校~資産運用研究会

祭影圭介

第1話

 エアコンの効いた都内のイベントホールのメインステージで、黒いボンデージ衣装に身を包んだ背の高い良い少女が脚光を浴びていた。

 長いサラサラの黒髪が、妖艶なボンデージとよく似あっている。

 胸は大胆に開き、観客の視線を惹きつけ、すらりとのびた脚で鞭を持って歩き、跪づいたファンの背中に腰を乗せたり、つま先で仰向けに寝そべったファンの顔面を踏んづけたりしている。

 盛んにフラッシュが焚かれ、歓喜と興奮の声が漏れる中、鞭で思いっきり床を叩いて鳴らし、鋭い音で黙らせた。

 女の子のファンもいるようで、OLや制服を着た中高生など数人が、潤んだ瞳で、縛ってください、お尻を叩いてくださいと懇願していた。

 ボンデージ姿の主役の少女は、やや困っていたようだが、常に笑顔を絶やさぬように対応していた。

 大ヒット上映中の映画、『私のM男になりなさい』の公開記念撮影会が開催されていた。


 あ~、俺もカメラ持ってくるんだった!

 正午過ぎ――

 イベント会場のビルのロビーにあるソファに座り、桐谷怜(きりやれい)は幼馴染の女の子が来るのを待っていた。

 高校三年。十八歳。

 黒縁の眼鏡に、卵型の細い顔で、青い半袖のシャツにジーパンを履いている。

 身長は一七〇センチ、体重は五五キロほどでやや痩せ型だ。

 運動は得意ではなく、親が資産運用をやっていて家に株主優待で、クオカードやらハンバーガーチェーンであるヤクドナルドの優待券、牛丼チェーンのクーポンなどが届くので、資産運用に興味を持っていた。

 彼の前には、旅行用の小さめのトランクが置かれている。

 これから部活に行くところだったが、先程見たイベントの光景が刺激的で頭から離れないらしく、やや興奮しているようだった。

 それにしてもあの女王様の格好……エロすぎる。けしからん!

 あいつの仕事場、初めて見た。

 親は何も言わないのか!?

 彼はスマホを取り出して、撮影した初々しい女王様の写真を眺めていた。

 すると、ぐ~とお腹が鳴った。

 朝飯(あさめし)食べたけど足りなかった……。もっと食べておけばよかった。

 今から何か食べようかな――

 と思ってあたりを見渡したが、一階に入っているファミレスやファーストフードやうどん・そばなどの店はどこも混んでいて、時間がかかりそうだ。

 ゆっくりしたいところだが、そろそろ空港に出発しないと飛行機に間に合わなくなる。

 遅い……

 桐谷がイライラして、会話アプリで通話しようとスマホを操作したところに

「ごめーん、遅くなった~」

 パンパンに膨らんだ重そうなハンドバッグを肩からぶら下げ、大きなトランクを両手で押しながら、ノロノロと一人の少女がやってきた。

 黒の帽子にサングラスで素顔を隠し、灰色のシャツに薄い水色のジーパンを履いている。

 唇に口紅つけているが、はっきりいってダサい。

 とてもさっきまでステージで女王様を演じていたの同一人物とは思えない。

 彼女の名前は立華透(たちばなとおる)。

 桐谷と同じ高校三年の十八歳。

 身長は一五五センチで、体重はギリギリ五十キロを切っている。 

 二人とも同じ部活に入っていて、資産運用研究会(マネー・マネジメント・クラブ)のメンバーだ。

「随分でかい荷物だな」

 桐谷が立ち上がって、トランクを引きながらビルの入り口に向かって歩き始めた。

 彼らのトランクの車輪が、床の上を滑ってガ――と音を立てている。

「初の海外だし、仕事から直行だしね」

「それにしても凄かったな……鼻血出そうだわ」

「今日はちょっと露出高めの着せられた! でもAKV48とか次々アイドルグループ出てくるし、最近はバーチャルアイドルなんかも出てきたし、負けてらんないの」

「そうかー。ちやほやされるのも大変なんだなー」

「なに? 怜(レン)もやってほしいの?」

 ちょっと悪戯っぽくニヤニヤしながら、彼女は尋ねる。桐谷の名前はレイだが立華が小さい頃間違えて呼んで、そのままレンで定着している。

「違うわ!」

 彼は立華から離れるようにすたすた歩いた。 

 ビルの外からは、燦燦と太陽の光が入り込んでいる。まだ季節的には初夏のうちだが暑そうだ。

「待ってよー」

 ええっと……、ここから空港まではどう行くんだっけ? 

 とりあえず駅はどっちだっけ?

 と桐谷が立ち止まりながら確認していると

「置いてかないで~。初めての海外なんだから」 

 ぜえ、はあ……と息を切らしながら、立華が追いついてきた。

「まったく。ひどい~」

「こっちの方が軽いから、こっち持て」

 桐谷は立華の大きなトランクの取っ手を掴み、代わりに自分のトランクを渡した。

「え? ……ありがとう」

 立華は唇を尖らせていたが、機嫌を直したようで意気揚々と叫んだ。

「香港に向けて出発(しゅっぱーつ)!」


 香港行き、キャーセイパシフィック航空の機内。

 飛行機は離陸前で、滑走路に向けてゆっくりと移動中だった。

 桐谷はエコノミークラスのシートに身を埋めていた。通路に面していて、隣の席は窓からの景色が楽しめる。

 電車に乗っていた時間を除き、空港に着いてからはずっと走っていたので、疲れた……。

 どうにか間に合って一安心。あと電車が一本遅かったら、危なかったかもしれない。

 出国前の荷物検査が空いていてよかった。

 彼の隣の席には立華が座っていた。

 機内に乗り込んだときは、はしゃいでいたが、朝が早かったようで、今はむにゃむにゃ――と小声で寝言を言いながら寝ている。

 小さくて可愛らしい唇で、思わず吸い寄せられそうだ。 

 すーすーと安らかな息をしていて胸が上下していた。

 いつの間にか発達しやがった――

 機内の後方の座席には、部活の顧問で引率の武田和平先生が乗っている。

 桐谷の父と立華の父は、先生と古くからの投資家仲間だそうだ。

 三人のおじさん投資家達の成果といえば、二十五年ほど前の平聖(へいせい)七年(1995年)、日本でベーシックインカムが導入されたのと同時に預金封鎖が行われ、銀行に預けていたお金が引き下ろせなくなった。

 日本中がパニックになったときに、資産の一部を仮想通貨等で保有し難を逃れたそうだ。

 難しい言葉をなるべく使わないように簡単に説明すると、まずそれまで個人が持っていて自由に使えたお金の大部分は、国の借金を返済するため徴収された。

 そして新たに導入された制度が、無理して働かなくても暮らしていけるような仕組みだ。

 ある一定の条件――献血、臓器提供のドナー登録や治験、ボランティア、消防団などの中から選択する。

 軽いものだと献血は年数回行けば一年間ベーシックインカムがもらえる。

 献血だけでなく、献血とボランティアでもいい。

 頑張って、こなせばこなすほど、国から一定期間多くお金がもらえるようになっていた。

 まさに飴と鞭だった。

 格差もだいぶ縮まったが、桐谷や立華の父を始め一部の賢い日本人達は、紙幣を金の延べ棒や仮想通貨・海外不動産に変え、国の手を逃れ自分のお金を守ったそうだ。

 そんな、凄い? おじさん投資家達の薦めにより、彼と立華は日本で契約のできないとても利回りの良い保険があり、もうすぐ新規の申し込みを停止してしまうので、『香港まで渡航して契約して来い! 』と言われ、わざわざ香港まで投資しに行くのだった。

 要するに、内容が良くて凄く儲かるらしい。

 だが、父から一通り説明を受けたものの、実は桐谷はよくわかっていなかった。

 大体何で、日本で契約できないんだ? 

 わざわざ香港まで行かなくちゃいけないんだろう?

 危ない金融・保険商品だから、日本政府が規制してるんじゃないのか?

 さらに難しい点(ポイント)は、大きく利益が出て儲かる半面、払った金額よりも実際の受け取り額が少なくなってしまう、元本割れのリスクもあるという。

「大丈夫、お父さんが契約した保険の運用実績は、長期的に見て6%のプラスだ!」 と言っていたが――

 う~ん……、プロがお金を預かってくれて自分の代わりに運用してくれるのなら、安心して任せられそうな感じもするが、それでもマイナスになってしまうことがあるというのは、やはり気掛かりだ。

 考えれば考えるほどわからなくなる。

 自分でできるようになるのが、一番良いのかもしれないが――

 立華なんかもっとわかっていないのに、周りの薦めと幼馴染がやりに行くと聞いて、ただついてきただけだ。

 とりあえず香港まで足を運んで、現地で詳しい説明を聞けば、なんとかなるんじゃないか――

 と彼は思っていた。

 そう。これは、ただの旅行ではない。

 投資旅行である。

 親が旅行好きで、国内・海外問わずよく旅行に連れて行ってくれたが、今度の旅には目的があり、やらなければならないことがある。ただの観光ではない。

 こういう旅は初めてで、少し緊張する。

 おまけに海外旅行が初めての、幼馴染の面倒までみないといけない。 

 英語なんて、カタコトしかわからねーよ……。

 いつも父に頼っていたから。

 それに香港じゃなくて、どうせならもっと別のところに行きたかったな~。

 例えば……、オーストラリアとか。シーフードも牛肉(ビーフ)もうまいし、コアラ・カンガルー・ウオンバット見てーよ。   

 あー、めんどくせ~

 ちゃんとできるだろうか――

 ほどなく機内の照明が落ち、飛行機は離陸体制に入り加速を開始した。


 夜十九時頃、香港に着き、現地旅行会社の手配したマイクロバスに乗ってホテルへ。

 桐谷達以外にも投資ツアーに参加しているメンバーがいて、総勢二十名ぐらいとなった。三十代、四十代の男女が中心で、若干二十代もいるものの、さすがに十代は桐谷と立華だけで浮いていた。

 ベーシックインカムが導入されても日本国民の多くは働いていた。

 東京の場合、月十二万円ほどが働かなくても国から貰えるが、さすがにギリギリの生活なので週三~四日働くワーキングシェアや、一年フルタイム(週五日)で働いて一年休むなど、働き方が多様化した。

 それでも買い物し過ぎで自己破産したり、ギャンブルに手を出して、借金をして自殺したりするやつもいるが、そういうどうしようもない連中はおいといて、過労死などはほぼ無くなり、働かざる者食うべからずから、『働かざる者贅沢すべからず』の価値観となり、昔と比べて大分良い世の中にはなった。

 そして暇になった日本人は、セックスしまくりで出生率が改善した。 

 少子化なんか吹き飛ばし、各家庭で子供は二~三人いるのが当たり前だ。

 桐谷も立華も兄弟姉妹がいる。

 人口も増え、物は勝手に売れるので、企業業績は向上。

 狭い日本の土地は高騰し、NYダウ100万ドルとともに日経平均株価は100万円を超えた。

 今ではすっかり国力を取り戻し、バブル再来、黄金の国ジパングの復活、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』などともてはやされている。

 ここまでは良かったんだが、勉強しない馬鹿があまりにも増え、大学進学率は下がり、中卒や高校中退などが増えた。

 このままでは国民が努力しなくなり、国が他国に乗っ取られる。

 アホの頭数だけを揃えても意味がないと与党、自由民衆党の麻野(あさの)首相が改革に乗り出し、中学高校での留年の基準がやや厳しくなった。留年や中退してしまうとベーシックインカムが減額される。

 大学も淘汰され数が減り、欧米のようにちゃんと勉強しないと卒業が難しくなったが、その分就職は売り手市場になった。

 また起業推進や、官公庁や公務員は優秀で長く務めた者には多額の退職金を用意し、大企業も特許発明、新製品、新商品開発などイノベーションを起こした人には、多額のインセンティブを払うなど人材確保に努めていた。

 ちなみにベーシックインカムは受け取り拒否もでき、そうすると消費税等の税金が下がり、より贅沢できるようになっていた。

 桐谷も将来どういう生活(ライフスタイル)を送るか決めかねていたが、親の影響で旅行が好きなので、趣味を楽しむためには最初ある程度は働かないといけないだろう。

 中学生の頃、彼が投資で成功するにはどうしたらいいかと父に聞いたとき、「※金融資本と人的資本の両方を最大化することが最も賢明」という答え返ってきた。

 要は働きながらコツコツと稼いだお金を、金利の付かない日本の銀行貯金ではなく、安全性が高く配当金が多い株式などに分散して投資に回せということらしい。

 例えば、4000万円のお金があり配当3%の株式に全部変えたとすると、税金が引かれて大体年間約100万円ほどの収入がある。8000万円のお金で年収200万。

 300万円、株からの不労所得で貰いたいのなら1億2000万円ほど必要だ。

ベーシックインカムと合わせれば、働かなくても年収は450万円ほどになり、それなりの生活は送ることができるだろう。

 まず一億円を作る。

 つまり億り人(おくりびと)になることが、成功への近道へとなりそうだ。

 一気に階段を上るのは無理かもしれないが、徐々に目標に近づけていけないだろうか。

 収入の高い職業に就ければその分リタイアも早くなるだろうし、父のように投資をして不動産や株の配当、仮想通貨の売却益などで、ゆくゆくはベーシックインカムを貰わずに暮らしたいとも考えていた。

 とりあえず桐谷は、できるところまでやってみようと思っていた。


 二十一時過ぎ。

 立体駐車場や十階建て以上のマンションが並ぶエリアの、ショッピングセンターの上に建つ細長いホテルの部屋の一室で、桐谷はベッドに腰をおろして、少しぼーっとしていた。

 部屋は八階にあり、カーテンは少し開いていて、周りは背の高いビルばかりで景色は良くなかった。

 床にはトランクが開きっ放しで置かれていて、机の上には飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルが置かれていた。

 エアコンが頑張って動いている音がするが、やや暑い。

 あ~、疲れた……

 空港からホテルまでは、バスに乗りニ十分ぐらいで着いた。

 その後は夕食で、チェックインしてすぐレストランに集まり、投資旅行に参加しているメンバーのみんなで飲茶だった。

 部屋に帰ってきて休もうとしたら、すぐに立華がやって来た。

 一回目は、スマホの充電ができないということだった。コンセントの形状が日本と違い三角形なので、差せなくて充電できないようだ。仕方なく変換プラグを貸してやった。

 二回目は、日本円を香港ドルに両替したのだが、同じ二十ドル紙幣なのに 三枚の図柄が全部違うという。

 偽札なんじゃないか!? と心配そうな顔で騒いでいた。

 香港は日本と違い、三つの銀行が紙幣を作っているから、デザインがそれぞれ違うんだろうと、ガイドブックに書いてあったことをそのまま言っておいた。

 ついでになんか他にも困っていることが無いか確認したところ、海外用のポケットWIFIも借りていないみたいだ。大手携帯キャリアのサービスをそのまま使うと、国内のパケ放題などが適用されず使い過ぎて二十万、三十万円などの高額請求がきてしまうかもしれない。モバイルデータ通信をOFFにして、必ずホテル等のWIFIに繋ぐように設定した。

 電話も緊急時以外使うな、なるべくメッセージアプリの通話を使うようにと、言っておいた。

 予定では、確か明日か明後日に、自由行動の時間が合ったはずだが、連絡が取れなくなると困るのでなるべく一緒に行動するしかないようだ。

 仕事が忙しいのはわかるが、ガイドブックぐらい買って読んでおいてくれよ……。

 旅行は好きだが、ツアーガイドやコンダクターの仕事はやめておこう――

 と彼は思った。

 そんなこんなで、やっと一息ついた。

 明日は、香港の銀行口座開設と長期積立保険の契約だ。

 今回の投資旅行で、最も大事な内容である。それさえ終わってしまえば、あとはただ話を聞いてるだけでもいいだろう。

 今夜はもう、シャワーでも入って寝るか?

 もちろん普段は寝るような時間じゃないんだが、修学旅行じゃないので無駄話する相手もいないし、持ってきたノートPCやスマホでゲームをやって思わず熱中してしまい、夜更かしでもしたら、契約内が頭に入らないかもしれない。不備があったりしたら大変だ。

 香港まで行って何やってきたんだ!? と怒られてしまう。

 外を出歩こうにも店は閉まってるだろうし、夜道を一人でブラブラ歩いて、万が一トラブルに巻き込まれたりしたら困る。

 ピンポーン

 部屋の入口のチャイムが鳴った。

 桐谷は仕方なく立ち上がって、誰が来たのか不思議に思いながら、やや警戒した表情で確かめに行く。

 先生か立華か?   

 それともツアーのガイドさんあたりが来たのだろうか。または不審者か……?

「怜(レン)開けてー」

「またか!? 今度は何だよ?」

 彼が扉を開けると、立華が短いスカート姿で、衣類と化粧品を抱えて入ってきた。

長い髪が少し濡れているようだ。彼女は手にしていた荷物をまとめてどさっと、近くのソファの上に置いた。

「シャワー壊れてるの~。だから怜の部屋のシャワー貸して」

「え?」

 呆けている桐谷に向かい笑顔でそう言って、彼女は了解も取らずに、お湯が出るかどうかを確かめにトイレのドアをあけた。 

「お おい!?」

 桐谷が後を追ったが

「入ってこないでエッチ!」

 もの凄い鬼のような形相で睨まれた挙句、扉を素早くバン! と閉められ、ガチャリと音がした。鍵を掛けられたようだ。

 まったく次々とトラブルを持ち込んでくる。

 ……なんて女だ。

「俺だってまだシャワー浴びてないのに。トイレも行きたい」

 彼が少し冷静になって文句を言うと

「トイレならロビーまで降りたらできるでしょ。シャワーはどこかの部屋のを借りないとないじゃない」

 水が勢いよく流れる音がした。

 確かに彼女の言う通りなんだが……、なんか納得がいかない。

「よし。ここのは大丈夫みたいね。私仕事で疲れてるの。だから先に浴びさせて♡」

「俺だって疲れてるよ!」

 桐谷の叫びは無視されたようで、中からは水が跳ねる音と鼻歌が聞こえ始めた。

 しょうがねーなー

 一階のロビーまで降りるのも面倒くさいし、今すぐ行きたいわけじゃないので、出てくるのを待つかと思ってあたりを見回す。

 なんかやることないか、スマホでゲームでもしようかと思っていたところ、ソファの上に無造作に置かれた着替えと、ピンクの小さな三角形の布が目に入った。 

 もしかして、あれは――

 思わず目がそっちに行ってしまう。近づいて確認すると、やはりパンツだった。

 おいおい……。こんなところに置いておくなよ。いくら幼馴染だからって警戒しなさすぎだ。

 俺だって一応、男なんだが――。そういう風に、思われていないんだろうか?

 さすがにさっきまで身につけていたやつではないだろう。これから履く着替えに違いない。

 脱いだパンツの方は、シャワーの脇や洗面台の隅にでも置かれているのだろうか?

 そっちは何色だろう……。

 白やオレンジとか。赤とかも似合いそうだな。

 そしてあの扉の向こうでは、裸になった立華がシャワーを浴びている。

 形の良さそうな胸の上を水が流れ、石鹸の泡が股のあたりを隠していたりするのだろうか。

 ドキドキする。

 覗いてみたい。

 ふと今朝見たボンデージ姿が蘇ってきた。そっちの趣味は無いが、スタイルは良いのでメイド服や定番のブルマ・スク水、チアガールなども似合いそうだ。

 突然、ガチャリとトイレの扉が開き、彼はびくっと反応した。

「なんか変なことしたら殺す」

 空いた隙間から顔だけ出して再び鬼のような形相で睨みつけると、またすぐにバタンと扉が閉まった。

 あぶねえ……殺されるとこだった。

 ――うん。トイレに行こう。

 彼はなんとなく身の危険を感じたので、念のためカードキーを持って部屋を出ることにした。


 投資旅行二日目。

 天気は快晴で暑かったが、朝からエアコンの効いたオフィスビルの一室にこもり、ろくに観光もせずに、説明を聞いて書類にサインしたりなどの手続きを行っていた。

 まず最初に桐谷達は、HMBC(香港マカオ銀行)のマルチカレンシーの口座を開設した。

 マルチカレンシーというのは、日本の大手銀行はクソで主に日本円しか使えないが、アメリカドル、香港ドル、オーストリアドル、イギリスポンド、ユーロなど複数の通貨がいつでもATM等を通して出し入れできるらしい。

 次いで桐谷が最も頭を悩ませた長期積立保険の契約である。

 長期積立保険の内容であるが、二年間は初期口座といって解約や支払いの減額ができない。途中でやめる場合、それまで支払ったお金は、ほぼ戻ってこない。

 例えば最初毎月300USD(アメリカドル)の支払いで始めて、二年経てば毎月100USDとかに減額できる。 

 契約期間は二十五年と長い。しかし例えば十年で解約してしまうと、それまで積み立てた分の50%程度しか戻ってこない。

 死亡したら101%で返ってくる保険付きで、積立中や満期後も支払ったお金を元にプロが運用して増やしてくれるというのが人気らしい。但し元本割れのリスクが無い訳ではない。

 大学卒業までは父が代わりに払ってくれると言っていたが、それ以降は自分でやれと言われた。

 新卒の給料からそんなに毎月払えるか? 

 実家ならまあ大丈夫だろうが、一人暮らしを始めたりしたらどうなるかわからない。

 クレジットカード払いで家族会員になっているカードがあるので、変更するまで請求は親に行くが、満期になる四十三歳になるまで払い続けることができるだろうか。

 もし実際に自分で払うようになった場合、小さい頃父によく円が下がるとドルはどうなるとかなどとクイズを出されたが、計算してみよう。

 ええと……、一ドル110円で計算したとして毎月300USDだと33000円。

 しかしこれが1ドル120円になったとすると36000円になってしまう。

 結構な負担だな。

 最初の四年間は親のすねを齧る(かじる)ことになる。

 まあ、出してくれるって言ってるし――素直にここは感謝して甘えておこう。

 あとは就職してみないとわからないけど、減額もできるし、一時的に支払いを停止することもできるようで、なんとかなるかな……?

 ようし! 頑張るぞ!

 ようやく考えがまとまってきた。

 一方、桐谷が隣に座っている立華の様子を確認すると、彼女は書類に目を通しながら、ぽかーんとしていた。

 あいつの収入いまどれぐらいあるのか知らないけど、毎月いくらで契約するんだろうか?

 毎月600USD支払いで、二年間積み立てるとボーナスが出て、多くお金を受け取れるそうだ。

 きっとそこで悩んでいるのだろう。

 彼女にしては珍しく難しい顔をして、うーん、う~~んと悩み始めた。


 湾に面した細長い舗装された散歩道、桐谷は海を挟んで見える香港島の高層ビル群の夜景を柵にもたれかかりながらのんびり眺めて楽しんでいた。

 旅行者や家族連れがデジカメやスマホで記念写真を撮っていたり、カップルがキスをして楽しんでいる。 

 昼間は暑いが、今は夜風が気持ちいい。

 一仕事終わって彼は解放された気分だった。

 いやっほー!

 と両腕を思いっきり伸ばしてみる。

 毎月きちんと二十五年間払えるのかという不安と、将来どれだけ増えているのか、それともまさかのマイナスとなり、やらない方が良かった――

 と後悔することになるのか、ワクワク・ドキドキでいっぱいといった感じだった。

 契約が一通り終わり夕飯を食べた後、桐谷達は絶景の夜景スポットとして知られる尖沙咀(チムサーチョイ)プロムナードという場所にいた。

 遅えなあ……

 立華が近くのコーヒーショップで飲み物を買ってくると言って傍を離れてから、三十分ぐらいが経っただろうか。 

 ついていこうか?

 と聞いたが、大丈夫と断られた。

 緊急の仕事の連絡が来てしまい、やむなく対応でもしているのだろうか。

 まさか迷子とか……。

 でも、それなら近くのファーストフード店やコーヒーショップなどを探して、なんとかWIFIを繋いで連絡してくるだろう。

 ちょうどその時、立華からメッセージアプリの通話でなく、電話が掛かってきた。

 電話!?

 ――嫌な予感がした。

「もしもし?」

「……お財布無くしちゃったみたい」

「まじか!?」

「無くしちゃったのか……、すられたのか、よくわかんない」

 ショックで落ち込んでいるのか、やや元気の無い声だった。

「いまどこにいる?」

「……わかんない」

「はあ!?」

「急にお腹痛くなってトイレ探したんだけど、コーヒーショップのトイレは埋まってて、我慢できないから近くのビル入ってトイレ見つけて、その後なんか女の人が近づいてきて話しかけられたけどよくわかんなくて――逃げたら追っかけてくるし、それで気づいたらお財布も無かった。落としたのかもしれないし、すられたのかもしれないし。もうわかんない」

 泣きそうな声だ。これはヤバイ。

「すぐに迎えにいくから。電話切らないでその場を動くな!」

 まったくもう~

 子供じゃないんだから――

 いい気分が全て台無しになった。


 その後桐谷は立華と無事合流し、タクシーで急いでホテルに帰り、カード会社などに連絡させた。

「一つの財布に全部現金とカードを入れるな! 分散しろって前にも言っただろう!」

 と、彼は怒った。

 立華は聞いてはいたが、終始肩を落としてしゅんとなっていた。


 翌日、午後一時過ぎ。

 桐谷達は二階建てバスに乗って、香港の街の観光を楽しんでいた。

 イギリスと同じ赤色の二階建てで、オープントップバスというらしく、二階には天井が無い。

 桐谷と立華は二階の最前列に座っていた。

 風が気持ちいいが、桐谷の表情はやや強張っていて、内心あまり穏やかではなかった。

 スピードを出しながら、狭い路地に入っていくし、ちょっと怖い。

路地には築三十年は経っていそうなニ十階立てぐらいの細長いマンションが両脇に並んでいて、カーブなんか曲がり切れないんじゃないかというギリギリの速度で走行し、車体が結構傾く。

 マンションに突っ込んだり、横転したりしないんだろうか――と思っていたら、後ろの方の席から話し声が聞こえてきて、やはり年間数件の事故も起こっているらしい……。

 大丈夫なんだろうか?

 こんなところで万が一があって死にたくはない。

 頭上ではマンションから長い五メートルぐらいある物干し竿が延びていて、洗濯物が干してあり、何か落ちてこないか、ちょっとひやひやしていた。

 日本では考えられない光景だ。

 それに、こんなところで洗濯物を干して、排気ガスまみれにならないのだろうか……。 

 なんかのテーマパークのアトラクションのようだ。

 隣の立華の方は爽快といった表情で、いつもの明るさを取り戻していた。いい気分転換になっているようだ 

「あ~、エステや占い行きたかったなー」

「垢すりとサウナ気持ち良かったな~。なんか体の中にたまってた悪いものが、全部出たような感じ」

 彼女は朝一で長期積立保険を契約したオフィスに行き、カードを無くしたことを伝えて手続きを済ませ、昼飯からツアーに合流した。 

 武田先生が付き添ったので桐谷はそれには付き合わず、午前中はマイクロバスに乗り込み、他の投資旅行のメンバーと行動を共にした。

 バスで三箇所買い物に連れて行かれた。

 向かった場所はまずお茶の店で、次に占い師が三十人ぐらいいて腕を競っている建物と枕の店だった。

 お茶は三種類ぐらい試飲した。日本のお茶と異なり、茶台という大きな長方形の高さのある台の上に茶器が置かれていて、ポッドでお湯を注ぐ際、お湯が溢れてもどんどん茶葉の上にお湯を注いでいたのが印象的だった。

 占いはよく当たるというので金運でも占ってもらおうかと思ったり、将来どういうお嫁さんと結婚するのか気になったが、結局やめておいた。

 桐谷はお金が無いので一つも出費しなかったが、ツアー参加者のおじさん・おばさん達が十人以上枕を買っていったことにはとても驚いた。

 そんなに特別な枕なのだろうか?

 歳を取ると睡眠の質が悪くなるという。

 将来、自分もああなるのか――

 デパートの寝具売り場や生活用品も売っている二~三階建ての大きな総合スーパー、ネット通販などで高級な枕は見たことがあるが、これは日本ではまだ出回っていないという。日本では大手メーカーのブランドで発売することになっていて、その分価格が上乗せされるから今買った方が安いそうだ。

 本当かよ? と思いながら、試しに触ってみたものの、一体どこがそんなにいいのかわからなかった。

 最後に買い物が終わってからサウナで汗を流し、昼食は北京ダックなどの御馳走を頂いた。

 それからみんなで二階建てバスに乗り、十五分程が経っただろうか。

 住宅街を抜け繁華街に入ったようで、大きくて綺麗なビルやHELMESやBVLGARYなどのブランド店が並んでいた。道路も車がいっぱいで混雑して、人も多く歩いている。

 車内のアナウンスがあり、乗る前に耳にした単語が聞こえた。

 確か降りる場所の名前だったはず――

 とても充実していて、香港に来てからようやくまともな観光をしていたが、残念ながらここで終了のようだ。

「次の停留所で降りるよー」

 後ろの方から男性の声が聞こえて、「はーい♡」と立華が振り返って可愛く返事をした。

 一応現在(いま)売り出し中の有名人なので帽子とか茶髪のウイッグを被り、素性がわからないようにしていたが、ツアー参加者の何人かには気づかれていた。ちやほやされて機嫌がいいようで、完全に猫を被っている。 

 みんなすっかり騙されているようだ。

 さすがというかなんというか、プライベートも常に見られていて、イメージを崩さないようにしないといけない。客商売は大変だ。 

「ああ、せっかくならティズニーランドも行きたいな~」

「そうだなー。天気もいいし、景色のいいところとか行きたいなー」

 予定では午後二時から、またオフィスに籠って投資案件の話を聞くことになっていた。

 とにかく日本では体験できないことをたくさんしている。中身の濃い旅行で、いい経験になりそうだ。特に立華は尚更だろう。

 二人は荷物を持ち席を離れ、他のメンバーに続いてバスを降りた。


 それから三時間ほどで四つの投資案件を聞いた。

・NYダウ先物アービトラージ

・FX(為替・暗号通貨取引)投資

・海流発電投資

・バイオエタノール投資

 アービトラージとFXは投資では定番で、それぞれの説明を簡単にすると、前者は例えば楽点市場とアマゾソで同じものが売られているのに値段が結構違う場合、安い方で買って高い方で売り儲けを確保する転売みたいな方法だ。

 FXはある通貨、例えばアメリカドルが円より高くなるか安くなるか、1ドル110円から120円になるか、それとも100円になるか、どちらかになるかを当てるゲームのような感じだ。

 いまのところシステムがうまく回っていて、それぞれ年利135%と年利160%だそうだ。

 FXの方は変動が激しく、例えば100万円資金を投入したら60万円ぐらいまで減ることもあるらしい。

 アービトラージの方は毎月5万、10万と着実に増えていき、負けてもマイナス3万、最大でもマイナス12万円程度だそうだ。安全安心を重視する人に向いている。

海流発電投資は、太陽光発電のように自然の力を利用した次世代のエネルギーとして期待されている。

 資金は五年間ロックされ途中で解約することはできず、事業の配当を年に二回ユーロで受け取ることになっていた。五年経てば初期に投資した100万円も戻ってくるが、その会社がもし潰れてしまえば、お金は返ってこない。

 欧州のある半官半民の企業が事業主で公共性が高く、日本の東京電力みたいなところがやっているので、よほどのことがなければ大丈夫だろうと言っていた。

 最後のバイオエタノール投資は、ハイリスクハイリターンという感じで、数年後7倍! 8倍! の可能性はあるが、いつまで経っても鳴かず飛ばずの可能性もある。

 資金に余裕がある人向けだろう。 

 共通する問題は、どれも元本保証がない。100万円投資したら全額失う可能性もあるということだ。

 ツアー参加者達は、説明の合間の休憩時間に投資するかしないか、どちらの方がより安全だろうかなど意見を交換していた。

 アービトラージとFXは投資する人が多いようだ。

 う~~ん、金さえあれば――

 投資できる人達が羨ましいと感じた桐谷だった。

 せっかく香港まで来て日本では聞けない魅力的な投資案件があるのに、みすみす見逃すことになる。ただ黙って、指を咥えてみていないといけないことが、彼にはもどかしかった。

 今まで両親や祖父母・親戚から貰った、お年玉の貯金をかき集めても10万もいかないだろう。

 100万円なんて大金を手にするのは夢のまた夢――

 就職して二~三年経てば自然と貯まっているだろうか。

 まだ大学生にもなっていないから、それでも五年以上先のことだろう。

「怜、なんかやるの?」

 桐谷の隣に居て、一緒に説明を受けていた立華が、興味津々といった様子で聞いてきた。

 彼女なら稼いでいるだろうから、やろうと思えば全部できるだろう。

 ちくしょう。 

 ただついてきただけで、大して投資の勉強もしてないくせに――

 この金持ち(ブルジョア)め。なんか悔しい……。

「そうだな~。せっかくここまで来たんだから、何か一つぐらいやりたいところだが……。立華は?」

「う~ん、一つぐらいはできなくはないけど、よくわからないから――」

「俺もどれがいいのかよくわからない。手堅くやるのならやはり、アービトラージか……」

「ねえねえ一緒にやらない? お互い半分ずつ50万円ずつ出して、利益も折半とかがいいんじゃない?」

「そんな金ねーよ。親父に頼め」

「え~」

 立華はふくれっ面をした後、口を閉ざしてしまい、それから「う~~ん……」と真剣な顔で悩み始めた。

 明日はもう日本に帰る。

 最初から最後まで、非日常に浸かっている。本当に中身の濃い旅行だ。

 それから一行は誰が言い出したのか、夕飯の席で希望者を集い、予定に無かったマカオに行くことになった。


 その夜二十時頃――

 桐谷達は香港からマカオまで船で行くことになり、十一人だったので香港の港に行くまでホテルからタクシー三台ほどに分乗した。

 近年開通した橋で、公共交通機関のバスに乗り行くこともできるのだが、ずっと移動はマイクロバスだったし、気分を変えてより旅っぽくするため船にしたそうだ。

 桐谷と立華が載ったタクシーは、運転手が三十歳手前ぐらいの若い男だったが、道を間違えたようで、同じところを二~三回走ったり、途中で車を停め誰かと電話していたり、スマホで地図アプリを見ていたりした。

 同乗していた男性二人が、「料金が高い! お前ぐるぐる回ったじゃないか!」と身振りと英語で文句をつけ大幅に負けさせた。

 運転手は、はあ!? はあ!? と何度も繰り返し不満をたらたら述べていたが、多勢に無勢。

 渋々こちらの要求に応じたようだ。

 同情していた男性二人は勝利をもぎとり、上機嫌で車外へ出た。

 桐谷は、すごいなーと思いつつ、タクシー運転手が逆恨みして襲ってこないか、とちょっと怖くなってさっさとタクシーから降りた。

 でも、なんでわからないんだろう――

 マカオに船が出る港って、そんなにいくつもあったりするのだろうか?

 それとも運転手になりたてで、経験が浅かったのだろうか。

 出発前からそんな小さいトラブルがあったが、乗船したのは100人乗りぐらいの平べったい高速フェリーだった。

 船内は明るく、さほど揺れなかった。夜だったので船からの景色は全然見えなかったし、スマホも繋がらないので暇だったが、マカオには四十分ほどで無事着いた。

 島に上陸し、徒歩で夜の街を十五分ばかりウロウロ……。

 大きな郊外にあるボーリングセンターのような建物に入ると、入り口には大型のスロットマシンなどが立ち並び、奥の方へ行くとルーレット、バカラ (トランプゲーム)などの台があり、多くの男女で賑わっていた。

 アジア系を中心に白人もいて、年代も二十台前後の若者から五十代、六十代までと幅広い。

 写真を撮っていた立華が、警備員に注意されていた。

 どうやら撮影は禁止のようだ。

 マカオは特別行政区といって中国本土とは違うが、スパイ容疑とかでいきなり逮捕されたりしないだろうか。

 ちょっと心配だ――

 そこで一際大きな拍手と歓声が上がった。

 騒がしい方に目を向けると、人だかりができている。

 すごい量のチップがバカラのテーブルの上に置かれていた。

 大富豪が大金を投入したのだろうか。黒と白の制服姿のスタッフ達が慌ただしく動き、インカムで何か話している。

 テーブルの前の椅子には、身なりの良さそうな中国人っぽい五十代ぐらいの紫の上品なジャケットを着た男性が、悠然とゲームが始まるのを構えていた。

 桐谷も立華もワクワクしながらそれを見ていた。二人共、もちろんカジノは初めてで、やや興奮していた。

「怜お金貸して」

「ええ!? 先生に借りたんじゃなかったのかよ」

「私もすられた分、取り返す!」

「やめとけアホ!」

 その後二人はルーレットをやったり、スロットマシンをやったりして三十分ほど遊び、1万円が5000円に減ったところで大人しく帰りの船に乗った。

 

「散々迷ってたくせに、結局買わなかったのかよ」

「欲しいのいっぱいあったけど、これ以上買うと毎月の積立できなくなるからやめた」

 最終日の午前中、免税店で立華は桐谷のカードを使い、お土産のお菓子をいくつか買った。他にも服を買おうか化粧品を買おうかなどと迷っていたが、やめたようだ。

 ちなみに昨日、カジノで少し遊んだ後、大人の男達は夜の楽しみにでかけたらしい。深夜二時過ぎに、タクシーに乗り戻ってきたらしく、みんなやや眠そうだった。その中でも元気なおじさんや若い人は、すっきりした表情をしていた。

 桐谷も少し興味があったがそんな金は無いので、立華がいたこともあり、ツアー参加者の女性達と早めに戻った。

 だが、次にもし来ることがあれば――

 一人で行く度胸は無いけど、今回のように複数の人達と一緒に行けるのなら……

とも思った。

 これからまたマイクロバスに乗っていよいよ空港だ。

 初の投資旅行が終わろうとしていた。


 離陸して一時間ほど。日本へと向かうキャーセイパシフィック航空の機内。

「アイキュアの声優とか私もやりたいな~」

 桐谷がノートPCをテーブルの上に置き、ダウンロードしていたアニメ映画を、ハーゲンナッツのカップのアイスクリームを食べながら見ていると、窓際に座っている立華が画面を覗き込んできた。

 彼女はスマホで音楽を聴いていた。

 軽食が配られる前までは、機内のWIFIサービスを契約してスマホを丹念にチェックし、ブログを更新したり、SNSをチェックしたり、仕事のメールを返信したりしていたが、今はアイスを食べながら休憩しているようだ。

「今度これのコスプレしてくれ。俺もカメラ買って撮影したい」

「えー、やらしー」

 ちょっと照れるような仕草をしながら、わざとっぽく身を遠ざける。

「全然そんなことないよ。フリフリの衣装で可愛いし……、この前もっとやらしい格好してただろう」

「スケベ、変態。もうしないよー」

「そっか……。だよなあ~。残念だなぁ」

 桐谷が、ちょっとがっかりしていると――

「キュアな心を持たない悪い子は、アイドルに変わってお仕置きよ! 踏んづけてやる♡」

 両手で可愛く決めポーズを取った後、彼女は彼のつま先を踏んづけた。

「いてっ。お前なぁ……」

 桐谷が文句を言おうと睨む。

 すると彼女はいたずらっぽく笑い、それから大きく伸びをした。

「あ~あ、疲れたし眠くなってきた」

 食べ終わったアイスのカップを通路側の桐谷の席のテーブルの上に置いて、シートにもたれかかって彼女は目を閉じた。ピンクのシャツに包まれた胸が静かに上下している。

 まったく自由なやつだ――

 それにしてもトラブルだらけな旅行だった……と思って、桐谷はPCを閉じた。

 時刻は午後二十時頃。

 空港の滑走路が混雑していたらしく出発が二時間ぐらい遅れて、帰りの電車やバスがあるかギリギリだ。まあ、多分大丈夫だろうけど、混雑した待合室で一時間ぐらい待たされたし、飛行機に乗ってから離陸までも、同じぐらい待たされた。

 疲れた……

 でも、もう大丈夫。

 あとは日本まで一直線だ。安心して休んでいられる。

 そこで英語でのアナウンスが入った。

 機内がざわつく。

 嫌な予感がした――

 桐谷が聞き取った英語は、”Back Honkon”だった。

 もしかして――

 まさか……

 その後、女性の落ち着いた声で、日本語でのアナウンスが流れた。

「お客様にお知らせ致します。当機は機体に整備が必要な箇所が見つかったため、香港国際空港へと引き返します」

 やっぱりそうだった!

 機体に整備が必要な箇所ってなんだよ!? 日本まで飛べよ!?

ただでさえ出発が遅れたのに、待機してる間にちゃんと整備しとけよ、馬鹿野郎!

 今日中に日本に帰れるの?

 いや無理だろう。引き返してすぐ飛んでも、今度は日本の空港で始発が動くまで夜を明かすことになる。

「明日、オーディションなのに~どうしよう」

 隣では立華が頭を抱えていた。慌ててスマホを取り出して、文章を打ち始める。

「起きてたのか?」

「うとうとしてたけど、なんか周りが騒がしくなって目が覚めちゃった」

 彼女は彼の方を見ずに答えた。マネージャーさんなど、仕事関係の相手に連絡を取っているのだろう。とても真剣な表情で、忙しそうだ。

 その後、座席の前に埋め込まれたモニター画面の飛行機の航路は、見事なUターンを描き、目的地は香港に変わっていた。


 香港国際空港に着陸し飛行機を降りたのは、午後九時頃だった。

キャーセイパシフィック航空のカウンターには五十人以上の列ができた。振替便は未定。

 最悪だ。

 桐谷は他の多くの客と同じように待合用の長い椅子に座っていた。立華は隣に座ってハンドバッグを抱えながら、うとうとしている。

 こういうときツアーで来て、本当に良かったと思う。

 個人旅行なら、英語でトラブルに全部対応しなければならないからだ。

 ツアーで来ている他の団体客の話が耳に入ってくるが、とりあえず今夜の宿を航空会社の方で手配してくれているらしい。二人の代わりに先生が並んでくれていた。

 そんな乗客の脇を機長や副操縦士と思われる男性二人と、客室乗務員達が陽気にキャリーケースを引きながら通っていた。

 一言ぐらいなんか無いのかよ……

 日本の航空会社ならこの対応は無いだろう。

 親に連れられ海外も色々旅行したことはあったが、こんなトラブルは聞いたことが無く、初めてだった。


「あ~疲れた……」

 ホテルのベッドに立華が大の字に横になる。ベッドの端に座っていた桐谷は、親への連絡を済ませ通話を切った。

 午後十時過ぎ、空港から無料のバスで近くのホテルへたどり着き、チェックインを済ませた。

 同じ投資旅行の参加者でも全員同じ宿泊場所というわけではなく、いくつかのホテルに分かれたらしい。

 今日中に日本に戻れないのは確定で、明日もどうなるかわからない。

 なんかどっと疲れた。

「俺、自分の部屋に戻って寝るから」

「うん、わかった」

 桐谷は立ち上がって、寝っ転がりながらスマホをいじっている立華に言った。

「お休み」

 彼が疲れた身体を引きずって、扉を開けて廊下に出て、閉めようとすると

「あ、待って――」

 立華がべッドから起きて、彼の方へと近づいて行った。彼女は彼を見上げるようにして、しばらく無言で立っていた。

「なんだよ……」

 桐谷は、うんざりした面倒くさそうな様子だった。

「ああ、充電のプラグか? 貸そ――」

 その頬に立華の唇が触れた。

 彼は一瞬、何が起こったのかわからなかった。

「色々と守ってくれてありがとう」

「あ、ああ……」

 桐谷は、まだ固まっていた。

「立派な投資家になってね」

 立華はやや恥ずかしそうにしながら身を引くと、バイバイと小さく手を振ってから、ゆっくり扉を閉めた。

 桐谷は彼女の姿が見えなくなってからも、それの前でしばらく呆然としていた。

 立華の方からあんなことしてくるなんて、夢か幻か……

 他の部屋に宿泊している人達が、ちらちら不思議そうに彼のことを見ながら廊下を歩いて行った。

 たまにはこういう旅もいいかもしれない――

 と彼は思った。


 その後、二人は無事振替の便に乗り、日本へと戻ったのだった。


 ※出典 バフェット太郎さんのブログ

 http://buffett-taro.net/archives/33132137.html


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加瀬豪高校~資産運用研究会 祭影圭介 @matsurikage

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