第19話 10年後、あたしを殺してくれるのなら、喜んで
その日は特に問題なく学校を終えた。
身体が妙に軽いおかげで授業も久し振りに寝ることなく受けることができた。真面目に聞く授業は殊の外面白く、教師の話に熱心に耳を傾ける高坂を気味悪がる視線がチラホラとあったが、それは特に気にならなかった。
胸腔が心地良く充足している。
それは今日限りで言えば、高坂は極めて一般的な学生として過ごせたからだ。学校に寝坊し、急いで支度を済ませて家を出るが天気予報を見なかったせいで雨に降られ、濡れた制服を脱ぎ1人だけジャージを着て授業を受ける。
そのどれもが高坂にとってはほぼ初めての体験だった。
“死神”の事を一時的に思考の端へと追いやり、穏やかな気持ちで学校を過ごした。鮭が自分の生まれた川に戻ってくるように、高坂は自分が本来収まっているべきだった場所を改めて知ったのだ。
終業のチャイムがなり、高坂は図書室で放課後を過ごした。保健室から職員室へと向かう道すがら、佐伯にそこで待っていてくれと言われていたからだ。高坂は基本、本を読む事をしてこなかった。しかし、図書室で暇潰しに手に取った小説は、どこかの誰かの人生を歩ませてくれた。
僅か317ページの文庫本の放つ彩が、高坂を虜にする。
主人公の男の情熱的な告白で物語は幕をあげる。回りくどい言い回しは無く、誤解の隙が微塵もない直線的な愛の表現。まるで演劇の独白のように、男はその想いの大きさを伝えようと言葉を紡いだ。その愛の応酬とも言うべき告白が、数ページと続く。
2人の関係、女がどういう人間なのか、男の愛の深さ。序盤で読者に伝えられる情報はそれだけだった。
商業作品として、そんなものが出版されることはまずありえない。よくこんな無茶苦茶な本が出版されたものだ、と読書をすることのない高坂でも思うほどだ。
しかし、高坂の文章を手繰る目が、ページを捲る手が止まることはない。主人公の熱量が、それを止める事を許さなかった。
俺の愛を聞け!
主人公が読者に向けてそう叫んでいるようだった。
自分よりもこの架空の人物の方がよっぽど人間らしい。高坂の中に自嘲のような妬みの感情が湧く。
男の告白を、女は涙を流して受け入れた。但し条件を付けて。
10年後、あたしを殺してくれるのなら、喜んで。
そして男と女は付き合い始めた。男は10年後の約束を果たす事を誓って。
「高坂くん、おまたせ」
食い入るようにして読み入っていた高坂に、声がかけられた。肩を叩かれるまで佐伯の接近に気づかず、思わず肩が跳ねる。バクバクと心臓の脈を感じながら、高坂は恨めしげに佐伯を睨んだ。
「あはは、ごめんね? 一応何回か声をかけたんだけど」
「……全然気が付かなかった」
「随分と集中してたんだね? 何を読んでたの?」
高坂が文庫本の表紙を見せると、佐伯は目を丸くした。
「あ! これ私も読んだことある。……高坂くんて恋愛ものが好きなの? 全然イメージになかったな」
「いや、たまたま暇潰しに取った本がこれだっただけ」
高坂が答えると佐伯は一瞬、納得したような顔を見せたがすぐにそれを引っ込めた。代わりに手を後ろに組み身体を前に倒して高坂を顔を覗き込んでくる。好きな子をつい、
「本当に〜?」
「? 何が」
「本当にたまたま手に取った本が恋愛ものだったのかな? 高坂くん実はそーゆーのが好みだったりして」
なぜか偶然性の再確認をしてきた佐伯に、高坂はわかりやすく疑問符を顔に浮かべた。
意図的に僕が恋愛小説を読んでいたとして、それをあえて明確にする意味はあるのだろうか?
声に出さずとも、高坂の思っていることは雄弁に表情が語っていた。
「あはは、いや冗談、ごめんね?」佐伯は体勢を戻すと片手を上げてウィンクをして見せた。「中3の男子なら恋愛小説を読んでるところ見られてキョドルかなって思ったんだけど……残念。高坂くんにそういうのは無いかぁ」
キョドル……恥ずかしがるという事だろうか。別に何を読もうと恥ずかしがるようなことではないと思うけれど……。高坂はそう感じたが特に口には出さなかった。
佐伯が言ったように、中学3年生の男子はそう言ったものに羞恥心を覚えるのだろう。高坂が普通から逸脱しているというだけの話だ。普通と異常は、水と油のように相入れることはない。押し問答のような時間の浪費を繰り広げても意味はないだろう、なにせ時間は有限なのだから。
「佐伯さんはこの小説、最後まで読んだ?」
「うん、一応ね……読んだのは昔だからよく覚えてないけど」
「結末は覚えてる? 主人公の男は彼女を殺すのかな、約束通りに。それだけ知りたい」
「えー、私、ネタバレはするのもされるのも嫌なんだよね」
「お願いだよ、佐伯さん。できれば今日中に知りたいんだ」
切羽詰まった高坂の物言いに、佐伯は怪訝そうに眉を寄せた。
小説があまりにも面白く結末が早く知りたいという訳でもないように見える。佐伯は結末を明瞭にではないにしろ、大まかには覚えていた。だがそれを高坂に教えてしまうのはあまりいい予感がしない。その理由は判然としない。
人の死が関連しているからだろうか。
日曜日のまだ日の登らない朝。黒い炎のような靄を身体から迸らせる高坂の姿が脳裏にまざまざと蘇る。
「どうしてそんなに急いで知りたいの?」
「どうしてって……」高坂の目が佐伯から気まずそうに逸らされる。
「……まぁ言いたくないなら言わなくてもいいけど。代わりに私もネタバレはしないって事で」
「……わかった」
殺せないあなたを僕は殺す Damy @Damy
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