第18話 あるはずの異常がそこには無かった
学校へと続く黄葉によって彩られた幻想的な道を高坂は急いだ。身体がとにかく軽く、踏み出した足に上半身が置いていかれ、危うくバランスを崩して何度も転びかけそうになる。
今日ばかりは、視界に浮かぶ無数の青い文字を一つ一つ丁寧に確認している暇はない。著しく数の小さい青い文字のみを高坂は凝視して、スマートフォンの地図に“残り時間”と名前を登録した。
5分ほど走り息が切れ始めた時、高坂の鼻の頭に何かが落ちて弾けた。反射的に見上げると、曇天が空の一部分を遮っていた。
高坂のいる地域だけに濡れた埃の様な雲で蓋がされ、光のヴェールが壁のように囲っている。それを認めてから間も無く沛然と大粒の雨が落ちてきた。雨粒が強かに制服の上から身を叩く。
折り畳みの傘を高坂は所持していなかった。いつもは天気予報を確認し、必要に応じて傘を持って行くからだ。寝坊してしまった事をことさらに悔やみながら、学校へと向かう足を速めた。
学校の昇降口に入る頃には、雨雲はその身を大地へと落として雲散霧消し、空は青を取り戻していた。朗らかな陽気が冷えた大地を照らしていたが、濡れた高坂と制服は大雨の残響によって簡単に温度を奪われていった。
靴を脱ぎ下駄箱に入れると、服の裾を固く絞ってから上靴を手にして、保管室へと向かった。保健室は昇降口のすぐ側にあり、高坂は校内を特に濡らすことなく辿り着く。
「すみません、2年5組の高坂です。雨に濡れてしまって……タオルを貸してもらえませんか」
ドアを軽く叩いてから開き、高坂は平坦な声でそう言った。
保健室の椅子に座っていた壮年の女教師は、高坂の濡れた姿を確認すると、
「とりあえず入っちゃって、少し待っててくださいね」
慌てた様子もなく手早く白いバスタオルをタンスから用意した。
雨に濡れてタオルを取りに来る生徒など珍しいだろうが、彼女の対応は物腰が落ち着いていた。高坂は朧げな記憶を頼りに、この3年間の終業式を思い返してみたが、養護教諭が変わったと言う事はなかったはずだ。
高坂がバスタオルを受け取り、飛沫が飛ばない様にゆっくりと頭を拭いているのを彼女は小首を傾げながら見ていた。
「ジャージは持っていますか?」
「それなら教室のロッカーに」
「ではそれに着替えましょうか。取ってきますので待っていてくださいね」
「あ、はい……ありがとうございます。これ、ロッカーの鍵です」
そう言って制服のポケットから取り出した鍵は濡れていて、高坂はそれをバスタオルで拭ってから渡した。
「確か……」そう言って彼女は視線を左上の虚空へと向ける。「……2年5組でしたね。出席番号は」
「7番です」
「わかりました」
そう言って彼女は白衣を翻し、保健室を出ていった。廊下を歩くコツコツという音が、ドアが閉まると聞こえなくなる。学校の中だと言うのに保健室は驚くほど静寂に満ちていた。校内からの喧騒も、外からの雑踏も清涼な保健室への侵入は拒まれている様だった。
高坂は水が滴らない程度に髪を拭くと、次は制服をバスタオルで優しく叩く様に拭いた。
保健室に備えられたベッドは二基とも空き、ベッドを隔離するためのカーテンも仕舞われた状態だ。高坂はこの空間には現在自分しかいないと言う事を確認すると、バスタオルを地面に敷いた。身体に張り付いたブレザーやワイシャツ、ズボン、靴下を脱ぐと、バスタオルからはみ出ない様にその上へと乗せていった。ある程度大きなシワができない様に制服を伸ばすと、バスタオルを端の方から巻いていく。制服も、絞りすぎて水が漏れない程度の力でバスタオルに包む様に巻いていった。
そうして出来上がった一本の棒を片手に奥に置かれたベッドに寄ると、カーテンを引き、自分とベッドを囲む様にする。
足元から伝わるヒンヤリとした冷感から逃れる為、ベッドに腰掛けたいところだが、あいにくと下着まで濡れている為それはできない。何をするでもなく、高坂はベッドとカーテンの僅かな隙間に、パンツだけを身に付け、バスタオルの棒を持った状態で立ち尽くしていた。唯一の救いは保健室には暖房が効いていて、冷えたこんにゃくの様に感覚がなくなった身体をほぐす様に温めてくれている事だろうか。
コンコン。と保健室に乾いた音が響き、ドアが開かれる。
「先生、濡れた制服は先に脱いでしまったので、ジャージをカーテンの隙間からもらってもいいですか?」
保健室から自分がいなくなっていることを疑問に思われる前に、高坂は自分からその居場所を発した。
しかし、高坂の耳に先程の養護教諭の落ち着いた物腰柔らかな声は聞こえず、代わりにここ数日ですっかり聴き慣れてしまった声が耳朶を打つ。
「……高坂くん?」
戸惑いを孕んだか細く震える声は、間違いようもなく佐伯 智華のものだった。
高坂は数瞬の間、動揺で状況を理解できなかったが直ぐに持ち直す。
「佐伯さん、どうしたの?」
「いや、えっと……うん」と佐伯は少しまごついた様子で言った。「午前中で体調不良で早退した生徒がいたんだけど、親が迎えにくるまで保健室で寝ているって言うから様子を見にきたんだ」
佐伯の話し方はどこか辿々しく感じられる。それに、ドアが閉じる音がいつまでも聞こえてこなかった。
その反応も仕方ないか。と高坂は思う。
なにせ佐伯は高坂が身に寄生させた悍ましい存在――“死神”の鱗片を目にしてしまったのだから。それに自分の彼氏が殺される寸前だったのだ、怯えるのも、退路を確保するのも当然だ。
「今は僕しかいないみたいだし、もう帰ったんじゃないかな。……それよりも佐伯さん、保健室の先生はいないかな」
すると少し間があってから「いないみたいだけど……どうしたの? 具合……まだ悪いの?」
まだ……というのは昨日のコンビニで倒れたことを言っているのだろうか。
あまり思い出したいことでもないだろうに、探りを入れてくるとはどう言うことだろうか。高坂はカーテンの向こうに疑問を投げかける。佐伯さんは今どんな表情で、何を思っているのだろうか。
「体調はすこぶる良いよ。けれど学校に来る途中で雨に濡れちゃって……先生が教室に僕のジャージを取りに行ってくれているんだ」
「そうなんだ……高坂くん、今日ホームルームに居なかったもんね」
「人生初の寝坊をしてしまったんだ」
不意に会話が途切れる。しかし、佐伯が退室する気配は感じられなかった。ドアを閉める音も、保健室から遠ざかる足音も聞こえない。
早退する生徒の様子を見に来る、と言う彼女の目標は遂げられたはずだった。それでもこの場に残っていると言う事は、新しく用事ができたのだろう。
「……高坂くん。昨日の事は聞いても良いのかな……」躊躇った様子で佐伯が言う。
「コンビニでの事だよね」
「そう……あの時見せた高坂くんの黒い炎――」
「佐伯さん、その話は少し待ってもらっても良いかな」
高坂が佐伯の声を遮ると、廊下から小さく、カツカツという音が響いてくる。“死神”の話は不用意に人前でするものでは無い。
程なくして保健室へとたどり着いた養護教諭からジャージを受け取ると、高坂はベッドとカーテンの僅かな隙間でジャージを身につけた。乾いた素足で上靴を履くと、得も言えぬ触感がある。
「では職員室で遅刻届を書いてください。佐伯先生、よろしくお願いしますね」
「はい、わかりました」
短いやり取りを終えて高坂と佐伯は保健室を出た。
高坂は授業以外で着るジャージはいつもと少し違う材質をしているように感じる。軽くて風通しが良い。けれどもあまり着心地がいい物ではない。違和感という目に見えない泥が身体に付着して離れない様だった。
「佐伯さん、そんなに僕の近くを歩いても大丈夫なの?」と高坂は横を歩く佐伯に尋ねた。
「……距離を開けて歩く方がおかしいと思わない? それにこれから君と話そうっていう時に、怯えていられないよ」
「そっか……安心して、いきなり殺したりはしないから」
と言って高坂は佐伯の頭上へと視線を移した。そこには本来あるはずのないものがあり、あって然るべきものは無い。
佐伯 智華
赤色のゴシック体が表すのは、それだけだ。そこに“残り時間”の存在はない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます