第17話 仕返し

 ぽこぽこと音を立てる電気ケトルが、カチンっという合図を出す前に高坂はケトルを台から持ち上げると、ココアの粉やミルク、砂糖をあらかじめ入れておいたカップにお湯を注いだ。

 カップから甘い香りを孕んだ湯気が立罩める。


「よかったのかぁ?」耳障りな声が直接脳内に響いた。


 突然湧いたその声に高坂は、鼻腔に含んでいたココアの香りを吐き出すと、眉根を寄せた。しかしそれを気にせず“死神”は喋り続けた。


「お前の予想した通り、アイツは……トキトウ ケイスケは前任の“死神”、つまりお前の両親の仇だ。お前の身体が、産毛の一本に至るまで余すところなく、トキトウ ケイスケに殺意を向けていた。初めてお前からあんなにも甘美な殺意を感じたぜぇ……久しぶりの大量の食事時間を頂けると思ったのによぉ? あの女の、サエキ トモカの一声でこうして逃げ帰ってきてんだから、お前の情けなさも詮ねぇなぁ?」


 そこまで喋り続けると、“死神”は急に黙った。

 高坂の部屋に静寂が舞い戻り、ココアを啜る音がやけに大きく聞こえる。

 時任を殺す直前、佐伯に声をかけられたことで高坂は制止した。その後、胸倉を掴んでいた時任の上から退くと、黒いもやを躍動させて自宅に戻ったのだ。

 確かにあの場で感情に任せて時任に“直接的な死神”を降しても、何も問題がなかっただろう。両親の仇を討ち、大量の“残り時間”を手に入れられた筈だ。

 しかし、高坂は理性的だった。

 佐伯の絶叫のお陰で、高坂は極めて平等な天秤を頭に用意する余裕を手に入れたのだ。高坂は刹那のうちに、一つ一つの事物を慎重に天秤の皿に乗せていき、その結果、時任を殺すのは今ではなく有効活用した後に殺す方が良いと判断した。


「なぁ“死神”。僕の頭の中を覗ける君にならわかるだろう? そう、僕は天秤の結果には些か懐疑的だったんだ。でも、たった今君が犯したミスによって、その疑いは払拭された」

「ミスだ……? おかしなことを言うんじゃねえよ、オレにミスは無い。或いは、お前がミスだと感じているそれは、オレにとっては陳腐でくだらないことだ」

「まぁ、黙って僕の話を聞いてろよ」高坂はそう言いながらココアを嚥下した。うん、丁度いい温度だ。「まず、僕には時任が親の仇だという確信はあったが、確証はなかった。それを今、君は確証を提示してくれた」

「そんなものオレには些末なことだ。ミスとは言い難いな?」

、そう言わなかったか?」


 高坂の口から底冷えするような硬質な声が発される。今まで高坂が放ったことの無い圧に、“死神”は一瞬たじろいでしまった。それが悔しくて、黒い靄を蠢かして高坂の身体を内側から痛めつけたが、高坂は意に関した様子もなく話を続けた。

 何時もならのたうちまわるほどの激痛を、高坂は平坦な顔で許容した事に、“死神”は心の底で何かが揺らいだのを感じた。


「そして、普段喋ることの無い君が、時任への仇討ちをけしかけるような事を喋り始めた。もう一つ、佐伯さんに“直接的な死神”を下すことを提案したのも君だ」


「おかしくは無いか?」口には出さずに、高坂は頭の中でそう唱えた。

 黙っていろ、と言う割には返答を求めるような言葉を聴かせるという、矛盾した行動に“死神”は疑問符を浮かべた。


「今まで、“死神”の行使に君が口を挟むことは無かった。せめて、助言がいくつかあった程度だ。だが今回の佐伯さんと時任――過去に“死神”で生き返った人間と、元“死神”人間に関しては君は積極的に口を挟んできている気がする」


 そこでいさぎよく“死神”は高坂の言っていた自分の犯したミスというものに気がついた。“死神”の動揺を高坂自身もなんとなく感じ取る。


「僕が佐伯さんや時任にあまり接触すると、君になんらかのリスクが発生する。と考えるのが道理だね」


 独りちるように高坂は話し終わると、ココアの残りを全て嚥下した。カップの底にはダマとなった黒いココアの粉の塊が、こびりついている。

 カップを洗い場に置くと、高坂はベッドに横になった。1日のうちに二度も黒い靄を顕現させた身体は疲れ果て、休息を求めていた。今夜はゆっくりと眠れそうだった。


 × × ×


 目を覚ますと、身体が恐ろしく軽く感じた。身を起こし、立ち上がるとそれはより明瞭となった。

 身体の感覚も鋭敏なものとなっていて、足のつま先まで血が行き渡るのがわかり、肌と触れ合うベッドシーツの繊維一本一本までもが克明に確認できた。

 大きな池の中心にボートに乗って浮かんでいるようだ。凪いだ水面を揺蕩うように浮かび、頭上には快晴が広がっている。喧騒は遥か遠く、オールを漕げば何処へでも行けそうな気分だ。これだけ心地の良い目覚めは久しぶりだった。背負っていた重荷を全て池の底に沈めたような……


「……っ! “死神”⁉︎」


 脳裏を掠めた危惧が、高坂の口を開かせる。

 夢を見なかった。

 うなされることもなく、ここ数年、毎晩のようにかいていた大量の汗の痕跡もベッドシーツには無い。


(まさか、“死神”が僕の元を離れた?)


 全身の毛穴が開き汗が噴き出す。体温が上気し、頭皮が異様に痒くなった。じっとりとした汗を手で握る。

 しかし、あの耳障りな声が高坂の頭には響いてこなかった。

 足元が音を立てて瓦解していく錯覚に陥る。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱れ、平衡感覚が失われる。上半身と下半身が隔たれて、左右に離れていく感覚があり、膝から脳天へと突き刺すような鋭い痛みが生まれ、気が付くと高坂はその場に跪(ひざまづ)いていた。

 視界が徐に隅から闇に覆われていく。

 崩落する精神が一歩手前で黒い靄を顕現させようとする。せめて、黒い靄さえ残っていれば、両親を生き返らせることができる……!

 藁にもすがる思いで黒い靄の顕現を試そうとした時、


「おいおい? 簡単に絶望の淵へと追いやられすぎやしねぇか?」


 薄気味悪い、高い声や低い声をいくつも混合させたような声が高坂の頭に響いた。平時は嫌悪しか齎さないその声に、今は酷く安堵をさせられた。

 全身の筋肉が弛緩していく。涙が滲みそうになるのを高坂は必死に堪えた。


「そんな脆弱な精神で両親を生き返らせようたぁ……決然としない望みもあったもんだな?」


 恐らく、“死神”は高坂の放つ剣幕に気圧された事を相当根に持ったのだろう。その後も“死神”は「俺に命令するな」、「どうせお前は俺がいなくては何もできない」などとつらつらと文句を垂れていたが、それに高坂が意識を向ける余裕はなかった。

“死神”の声に安堵を覚えてしまった事に、高坂は痛く滅入っていた。栓を抜いた湯船のように、凪いでいたはずの大きな池が渦を巻きすっかりと枯れ果てていた。池という束の間の幻想が乾涸び、眼前に広がるのは乾きひび割れた大地。どこから遠なく聞こえる自分を責め立てる声。


 寄生する“死神”に、高坂は無意識のうちに依存していた。

 情けない。

 高坂は自身を律し、制御できているつもりだった。

 確かに両親を殺したのは時任だったが、それは“死神”の存在が無ければ起こりえない事物だったのだ。目的を果たせば、諸悪の根源を叩くつもりだったと言うのに……


が来たら、僕は本当に“死神”を殺せるのか……?)


 そんな高坂の心境に気が付いたのか、“死神”はお喋りを止めていた。

 しかし高坂が慌てることは無い。どれだけ秘匿したい情報も、“死神”には常に開示されてしまっている。勿論、高坂の意思とは関係なく。

 一方的に高籬こうりした“死神”との境界線に高坂は辟易としながら、部屋に設置してあるデジタル時計に目をやった。

 慢性的な睡眠不足を患うこの身体の疲れがこれだけ取れているのだ。相当長い時間眠っていたのだろう。

 デジタル時計は月曜日の11時を示している。


「月曜日……?」


 遺跡の調査に入った探検家が石碑に書かれた古代の文字列を見た時の様な、間の抜けた声を高坂は漏らした。

 確か……、と高坂は省思する。頭の中で部分的に残る朧げな記憶に斧鉞ふえつを加えていった。そして、最後に自分が眠ったのは日曜の4時頃だと言う事を追憶の果てに見つけだす。

 日曜の4時から月曜の11時までの間には、広大な空白が生じていた。或いはそれは、存在していないものなのかも知れない。つまり、高坂は1日以上を眠っていたと言う事だ。

 高坂の心が焦りに逢着ほうちゃくすると同時に、急いで学校へと行く支度を始めた。

 夜は“死神”を行使して回る高坂だったが、昼はただの学生でしかなく、また授業態度以外の面では優秀な生徒として知られていた。学校を休むと言うことはほとんどなく、遅刻をした事はなかった。

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