すばらしきこの世界

星町憩

すばらしきこの世界

 その素体ができてから数万年をかけ、時に争い滅びを迎えながらもこの地球という一つの青い星の地上で文明を発展させてきた人類は、二度の世界大戦を終え星全体で繋がりを得た。だが、それから数千年の間、悪化の一途を辿る環境問題になんら有効打を打てず、また全体としてその気もなく、三度目の世界大戦の兆候に怯えながら、しかし大戦を迎えることなくして人類は滅亡の歴史を歩み始めたのである。

 南極が瓦解した。南極大陸を構成していたほとんどの氷土が融解し、ここに眠っていたあらゆる病原菌は海に流れ人類を襲った。人類と感染症との戦いは有史以前から続いてきた。西暦一九二九年に抗生物質【ペニシリン】が発明されてからは治療法の研究がより発展し、新種の病原体や薬剤耐性をつけた病原体らに悩まされつつもわずか数百年の間に人類はほとんど全ての感染症を克服した――かに見えていた。しかし、南極の氷によってもたらされた病原体の力と数の暴力の前に、人類の叡智、知能と努力は太刀打ちできなかった。

 数年単位で数千、数億の民が命を落とし、感染症学の発展に費やしたのとほぼ同等の年数が経つ頃には、人口は全体の二割にまで激減した。

 海面上昇により多くの土地は海に沈み、陸生生物は住処を追われた。千年が経つ頃、人類は北極圏への大移動を開始した。南極よりも氷土の残る北極大陸が、人類の最後の砦となったのである。

 そして数世紀が経った。

 最後の人類が、たった一つのAIと共に白銀の世界で寿命までの残された僅かな時間を消費している。


 彼女の名前はウルリカ・フロイライン・Oと言った。ミドルネームの【フロイライン】には【未婚の女性】という意味がある。実に皮肉的シニカルな名前であった。なぜなら彼女は最後の人類であるがゆえに、子孫を残さない。

 ウルリカに物心がついた頃、生き残っていた人間は彼女と一人の老婆だけだった。老婆は天に召される最後の日まで、ウルリカが人間として文化的に生きられるよう多くの知恵を与えた。老婆が死んでからも、ウルリカは過去の遺産を発掘し、退屈を紛らわすことができた。シェルター代わりでもある世界種子貯蔵庫の管理、それがウルリカに与えられた最後の仕事であった。彼女に付き添う一体のAIは、貯蔵庫に関するあらゆるデータを搭載された最後のアンドロイドだ。

 世界種子貯蔵庫の管理人といえば聞こえがいいものだが、実際のところウルリカがやっていることはそこに貯蔵された物資の消費でしかない。貯蔵庫内には映画や漫画、小説、音楽データといった娯楽の類が人一人の一生では到底網羅ができないほどの数保管されていたが、ウルリカはそれらにあまり興味がなかった。

 これから死を待つだけのひとりぼっちの自分が人の財産を鑑賞することに意味を見出せなかった。

 ウルリカのちょっとした楽しみといえば、これまた人一人では到底消費しきれないほどの素敵な衣装に身を包むことくらいだった。そんなおしゃれも、外に出る時にはなんの意味もなさなかったが。おしゃれのかけらもない防寒着で隠れてしまうし、ホッキョクグマの毛皮で作られたブーツは温かかったが汚れが目立って汚かった。

 ウルリカの容姿は、時代が時代であれば美少女ともてはやされたものに違いなかった。氷のように透き通るような白い肌、レモンイエローと形容すべき薄く明るい金髪に、蛍の光のような美しい緑の目を持っていた。しかし今の彼女の目は、人工眼バイオニック・アイである。生まれてしばらく経った頃、紫外線対策として置換手術を受けた。美しい緑の目は鉱物の冷たい輝きである。ウルリカは鏡で自分の姿を見るたびに、本当に自分は人間だろうかと思案する。本当はアンドロイドや人形で、最後の人類だと嘘を教えられただけなのではないかと、夢想する。それでも体は発熱もすれば発汗し、排泄もする。どうしようもなく悲しくなった時には涙する。

 やはり自分は、過去の芸術に描かれた人間と同じ生き物なのだと思い知らされる。AIは泣かなかった。時々オーバーヒートで熱を持つが、生理現象ではない。ただのエラーである。目の前にいるAIと自分がどうしようもなく異なる存在であるということしか、自分が人類である証明がない。物語の中に描かれた虚構の人間とそっくりな自分が虚構でないのが悪趣味な冗談のようだった。

 この日々が夢であればいいのに。本当の私は、同じ姿をして同じ感情を共有できる同類たちに囲まれて楽しかったらいいのに。けれど時間は覚めてくれない。ただひたすら、一日と一生が過ぎ去るのを気が遠くなる程待つしかない。

 ウルリカは、AIのことがあまり好きではなかった。だから、AIのことをAIと呼んだ。おばあさんはなんとかという名前で呼んでいた気がするけれど、覚えていないし、人間のような名前をつけることに意味があるとは思えなかった。だってAIは、自分に名前がなくったって悲しまない。


 苦行のような消化試合、日常という湖面に一石が投じられたのは、ある日のことだった。

 その日は吹雪もない散歩日和だったので、ウルリカはAIを伴って永久凍土の南側を探索することにした。

 真っ白な世界だが、貯蔵庫内と違って外は変化に富んでいる。巨大な氷の柱は日々刻々と姿形を変えるし、その断面は美しいブルーに染まっている。砂糖菓子のようなこのブルーがウルリカはいっとう好きだった。足跡がグレーやシルバーに見えるのも美しいし、空は氷とは違う色合いのブルーで、太陽の位置によってオレンジやヴァイオレットにも染まる。夏が来れば氷がもっと溶け出して、深緑の季節になる。植物の匂いも好きだ。機嫌よくAIにも話しかけた。その日の話題は、珍しく読書をしたウルリカが気に入った本の話だった。ミヤザワ・ケンジの『銀河鉄道の夜』である。

 一人の子供は取り残され、一人の子供は二度と戻れない――美しい銀河の世界に浮き上がる二人の少年の対比がとても美しくて、悲しい、と思った。読み終わった後の余韻と感傷が、自然の世界を見たときのそれによく似ていたのである。

 崖の下だった。何かが転がっていた。真っ白な世界に浮く、色とりどりの石だった。多くは正八面体の形で散らばっていて、そしてその中に埋もれるようにして、人間が、いた。

 正しくは、人間と同じ姿形をした石だった。ヴァイオレット、ブルー、グリーン、ピンク――淡くて鮮やかな、氷の断面のように美しい色合いを持つ人型が、何体も倒れている。腕が折れたり足が折れたり首がなくなっているものもいて、しかしどこもかけていないものが一体だけ存在した。それはブルー系のレインボーのような色合いの石だった。

「何……これは……」

『検索中……このような個体の発見記録、なし。組成を調査します』

 AIは機械的にそう言うと、腕代わりのケーブルを伸ばしいくつかの石に接続した。処理中を示す白い輪状のランプがくるくるとゆっくり回転する。

『解析完了。組成式CaF2、等結晶系、硬度4、フッ化カルシウム石、通称フローライトと判明』

「これが、全部……?」

『はい』

「……なんで人の形をしているの?」

『不明。生物種に固有の【呼吸】を観測中』

「呼吸? 息をしてるの?」

『肯定』

「えっ……」

 思わずウルリカは彼らのそばに駆け寄った。そばに屈み込み、目を閉じたまま微動だにしないそれに手を伸ばす。

「……触っていいのかな」

『手袋が皮膚を保護してくれるでしょう』

「ああ、うん……そうだね」

 唾を飲み込み、ウルリカはそれに触れた。手袋越しにはその温度もわからない。

「もし……ねえ、起きてみて」

『フローライトは割れやすい鉱石であり、取り扱いは慎重に』

「あ、そうなの……?」

『これらの正八面体は、彼らが割れたことにより発生した肉体の一部であると推測』

「ああ、なるほど……」

 ウルリカは慎重に揺すってみた。わずかな刺激だったが、それはぱちりと目を開けた。まるで傾けると目を開閉するビスクドールのよう。

「こんにちは。言葉、わかるかな……」

 フローライト人間は、人間のように小首を傾げた。そっとその頭を撫でてみると、髪の毛のようなパーツもつやつやとしている。警戒はされていないようだった。あるいはそういう本能がないのかもしれない。

「すごいわね、あなたたち……これって球体関節よね? 動けるのかな」

 ウルリカが頭を撫でる手を止め肩や足をぺたぺた触りはじめると、フローライト人間は器用に腕を動かして撫でられた場所を不思議そうに撫で直した。

「……かわいい、ね」

 ウルリカは感動していた。ひとりぼっちになってから初めて、ぎこちないながら自分と同じような姿で同じような動作をするものに出会えた。知能もある。フローライト人間はその後も、触られた肩や膝を不思議そうに撫でた。

「言葉が通じないって……不便だな。あなたたちがどこから来たのか知りたいんだけど……ねえ、AI。この子達、連れて帰ってもいいかしらね」

『世界種子貯蔵庫の管理は現在フロイラインに任されています。あなたには貯蔵の品目を自由に増やす権利があります』

「そ。なら連れてくわ。ね、ほら、立ってみて。できるかな? がんばれ」

 ウルリカはいつになくひっそりとはしゃぎながら、彼らの前で座ったり立ち上がったりを繰り返した。そろそろと立ち上がった者のうち、何人かは足を滑らせ割れてしまった。ウルリカは慎重に立ち方と歩き方を教えた。身振り手振りというのはなかなか難しいが、久しぶりに楽しかった。青かった空がほんのりと紫色に陰ってきた頃、フローライト人間たちはようやく立ち方を覚えた。立ち上がってみると、彼らはウルリカよりも幼い子供のような姿だった。手足も細いのでバランスが悪いのかもしれない。

「じゃあ、今度は歩きましょう」

 少し歩いて、ちらと振り返る。フローライトの子供たちはやはり不思議そうに首を傾げながらよちよちという形容のふさわしい足取りでついてくる。ウルリカは思わず破顔した。

「私、ウルリカ・フロイラインよ。……って言ってもわからないかな。ついていらっしゃい」

 手足が欠けた子供も、首の取れた子供も、銘々に己の体の一部だった正八面体を抱え、ついてきた。

「いい子! 他の子たちは……今度荷台を持ってきて連れて帰ろうね」

 真っ白の中に残された、動くことができないのだろう大小様々な色とりどりの結晶と破片を名残惜しげに見つめた後、ウルリカは歩き出した。しんがりはAIだった。


 ウルリカが貯蔵庫に帰宅し、フローライト人間たちを着せ替えして遊んでいると、AIが奥から戻ってきた。

『解析の結果、彼らフローライト人間のほとんどは旧世界の廃棄物、回収蛍石で構成されていることがわかりました』

「回収蛍石……?」

 服を抱えてウルリカは立ち止まる。

『人工のフローライト、半導体などを製造する過程で廃棄されるフッ酸含有廃液から回収され精製されていたリサイクル品です。天然物を含有している個体もいるようですが、概ねこの人工蛍石でできた新生物と見て間違いないでしょう』

「へえ? そうなのね、石が知能を持ったっていうことよね……どうして人間と同じ姿なのかしら。どうして球体関節人形みたいな姿なのかな?」

『彼らには人間の筋肉にあたる組織がほとんど存在しません。そのため、関節の屈伸姿勢を保つためにそう進化したと仮定されます。また、彼らを発見したプリオシン地区では地層にフッ化カルシウムが含まれていると過去の研究で明らかになっています。あの崖は地殻変動で今から約二百年前に生じたものであり、地殻変動のエネルギーがなんらかの形で作用した結果、フッ化カルシウムが結晶化し人の形を得たかもしれません』

「さすがAI、なんでも知ってて助かるわ」

『あくまでデータによる仮説です』

「仮説でもなんでもいいじゃない。物語めいていて私は好きよ。それに、これからその仮説を証明する人間もいないわけだし」

『人類の生存者は、フロイライン、あなたがいます』

「私にそれをやれって? 助けてくれる人もいないのに? 協力してくれる人もいないのに! 無理無理。私には無理よ」

『私には人類のサポート機能が搭載されています』

「でもあなた、私の相棒じゃないもの」

『……肯定』

 ウルリカは鼻歌を歌いながら、久しぶりに絵を描いた。服を着たフローライト達は大変可愛らしかった。首や手足が欠けていても、どこか愛嬌がある。今日のこの景色を残すために、指を汚しながら絵の具を溶かした。

「あは、私にも何かを残したいなんて気持ちが芽生える日が来るなんてね。それってなんていうのかな、人間の本能? 生き物の本能だっけ。子供を残すことで栄えてきたんですもんね、人間も、いなくなっちゃったたくさんの生き物たちも。そうそう、AI。私この子たち一人一人に名前をつけてあげようかなって。名づけ辞典はどこにあったかしら。後で検索しておいて――」

『一人一人に、ですか』

「うん? 何か問題でもある?」

 AIの声が妙に無機質に、奇妙そうに響いたような気がした。ウルリカは振り返ったが、相変わらず顔を持たない機械がグリーンのランプを点灯させているだけである。

『フローライト人間が微弱に発する電磁波と音波、放射能を記録し、解析した結果、彼らは全ての個体が同じ一つの意思と意識を共有しているようです。恐らくは光に関するネットワークと推測――』

「何、言ってるの……? AIったら」

 理解が追いつかずに、ウルリカはぎこちなく笑った。

「みんな色合いも違う。髪型も、ほら見てよ、目の形も少しずつ違ってるの。それぞれに個性があるんだ。それをいっしょくたにするなんて――」

『彼らフローライト人間は、素体こそ分割されていますが一人の新人類と言えます。これは素晴らしい発見です』

「……そう」

『恐らくは、フローライトという破損しやすい物質で構成されている生物としての脆弱性を補うために進化の過程で取得した種としての知恵だと推測』

「そうですか。……もういいわ。ええ、そうなのね……」

 ウルリカは視界を覆う水の膜がこぼれ落ちないように目をしっかりと見開いて、立ち上がった。描きかけの絵を裏返した。フローライト人間たちはウルリカを不思議そうに見つめてくる。けれどウルリカに今彼らを構う余裕がなかった。

 ウルリカは踵を返して自室へと早足で歩いた。

「……そう、そうなの。そうよね、夢も見させてくれないのね。事実だものね。データ上はそうなんでしょう。……だから、AIなんて嫌いよ」

 呟いた言葉が広い廊下にぽつりと響き、足元にはぽたりと雫が落ちた。


 結局、ウルリカはフローライト人間にただ一つの名前をつけた。

 フロレンスと呼ばれ初めのうちは不思議そうにしているばかりだったフローライト人間たちも、やがてそれが自分の名前だと理解をし、ウルリカが名前を呼べば喜んで反応するようになった。人間と比べるとぬるりと笑う。恐らくは顔の奥が流体のようになっていて、笑ったような表情を作るのである。

 フロレンスは物覚えが良かった。AIの言うように一つのネットワークで連携していることで、学習速度が速かったのだろう。ぎこちなかった動作は日に日に滑らかになり、不自然だった表情もどんどん感情豊かに変化していった。言語の覚えも早かった。一年が経つ頃には、フロレンスはウルリカと対等に話すことができるようになった。

 そうなると混乱したのはウルリカの方だった。同じ声で一つの文章を単語ごとに分割・分担され大勢で一度に話されたところでうまく聞き取れなかったのである。人間の混乱と言語能力についてAIがフロレンスに噛み砕いて説明し、フロレンスは何かそうしなければならない理由がない限り、一対一でウルリカと話すようになった。誰か一人が話し、ウルリカの相手をし、ほかのみんなたちはめいめいに好きな行動をする。ある者は裁縫をしたり、ある者は映画を見たり、ある者はAIのメンテナンスを手伝ったり、ある者は昼寝したり……

 はたから見ればたくさんの同じ人種の人間がそれぞれに個性を持ち、それぞれの活動をしているように見えた。けれどそれらはフロレンスにとって並行運動のようなものでしかなかった。ウルリカが音楽をかけた部屋で食事をしながら本を読めるのと同じで、フロレンスは人間一人では不可能な数の行動を一度に行うために、体を分けている――ただ、そういうことなのだ。

 そんなフロレンスが、全員で同じ行動をする時がある。

 ウルリカが寝る時だけは、みんなでウルリカの側に集まり、一緒に寝るのである。

「なぜフロレンスは私が寝るとみんな私のそばで寝るのかな? 別に、私が寝ても起きてていいのに。床で寝る子とか、体が痛くないのかしら」

『不明』

「そうよね……AIにもわからないことはあるわよね。あの子たち、新生物みたいなものだし……鉱物が生物になった例は過去にも報告されていないみたいだもの」

『彼らはあなたを親と思っているのではないかと推測します』

「親ですって?」

『肯定。多くの生物種は、幼少期は親のもとで過ごすようにプログラミングされています』

「ええ、どうしてそれ僕に聞かないの?」

 側で読書をしていたフロレンスが不意に声をかけてきた。ウルリカとAIは共にその個体に向き合う。淡いピンク色の子だった。

「ああ、ごめんねフロレンス。あなたたちってほら、いつもかならず視界のどこかにはいて、それぞれ好きにしてるでしょう。いるのが当たり前というか……いっそ空気みたいっていえばいいのか……時々話しかけるの忘れちゃうのよ」

「そういうの、サボタージュ、とか、怠慢、っていうんだよ、ウルリカ」

 フロレンスはむくれて見せた。

「僕がどこにでもいて、好きなときに話しかけてくるからって、最近僕にかまうのサボってるでしょ」

「そんなことは……ないわよ」

『否定。観察データの集計によれば、直近半年のフロイライン能動による会話数は最大数の三割にまで減少中』

「えっ、そんなに……?」

「そうだよう」

「で、でも……ほら、最初の頃はあなたに教えることも多かったから。だから必然的に私があなたに話しかけることが多かったのよ。それに私は一人しかいないのよ? あなたはしゃべる体がたくさんいるじゃない。私と違ってしゃべり倒して疲れて黙り込むなんてことないでしょう。体をかえればいいんだから」

「それは……そうだけど」

 フロレンスは、顎を引いて唸った。

「でも、僕、もっと君の声を聞きたいなあ、ウルリカ。僕が君が寝ると君の側でみんなで眠るのはね、君が起きていない時間なんて退屈だからだよ。君がちゃんと明日も目が覚めるか心配で、不安なまま夜を過ごしたくないんだ」

 フロレンスの言葉に、ウルリカは一瞬言葉を失った。フロレンスの輝く目がじっとウルリカを見つめる。

「僕よりもずっと、短命なんだろう? 人間って」


「アイちゃん、ウルリカはあとどれくらい生きる?」

『個体差があります。フロイラインは現在健康体ですので、この健康状態を維持できれば、あと八十年ほどの寿命が見込まれます』

「そっかあ。僕が来てどれくらいだっけ」

『三年と二ヶ月十五日です』

「えっと、じゃあ……」

『……今までの期間の約二十五倍の時間が過ごせます』

「そうだった。ねえ、アイちゃん、やっぱり君、生き物だよねえ。こうして僕の言いたいこと、わかって先に答えをくれるもの」

『行動パターン、音声パターンの解析により、予測が可能です』

「そんなの僕もウルリカも一緒だよ。ね、どうしてウルリカはアイちゃんを名前で呼ばないんだろうね」

『……私はフロイラインの友人ではありません』

「そうかなあ……哀しくない? 僕もウルリカが好きだよ。アイちゃんだって好きでしょう?」

『好き……ですか。感情的なデータを搭載されていません』

 AIは、ほんのりと雑音混じりの声で答える。


 その日、ウルリカが機嫌が悪いことにフロレンスは気づいていた。どうしたのかAIに尋ねれば、ウルリカには初潮というものが来たのだという。初潮とは何かAIに尋ねると、学術的な答えが返ってきた。内容が難しくてフロレンスにはよくわからない。

 ただ、それが自分のような鉱石の体では到底起こりえない生理現象だということは理解した。血が出るというのは、体液がだらだらと垂れ落ちることで、それって死んでしまうのじゃないだろうか、だいじょうぶなのかと不安でたまらなかった。AIによれば、それははらに貯めていて使わなくなった血をただ外に捨てているだけだというけれど。

『卵子という、子供の材料の半分が先に体から排出されます。精子という、子供の材料のもう半分が卵子と出会い結合しない限り、使わないものなので、捨てられます。その結果、子供をお腹の中で育てるために貯めていた血もいらなくなるので、体の外に捨てる。そういう仕組みです』

「人間って、お腹の中で子供を育てるの? この間見たアザラシやホッキョクグマもそうなの?」

『肯定』

「生き物って不思議だねえ……でも僕とアイちゃんはお腹の中に子供ができないんだよね?」

『はい』

「どうして?」

『私たちは、子孫を残すために作られた物ではないからだと推測します』

「じゃあ、ウルリカは子孫を残すために作られたの?」

『肯定』

「誰に?」

『不明。長い人類の歴史でも解明されず、人類は創造主たる存在を神という名で仮定しました』

「ふうん……」

『月経の間、人類の女性は腹痛、目眩、貧血、憂鬱といった様々な身体的精神的不調に苛まれます。いたわって差し上げてください』

「うん、わかったよ!」

 AIと話をしていた体の情報を取得し、ウルリカの部屋でくつろいでいたイエローのフロレンスは体を起こした。

 伏せって枕に顔を埋めたままのウルリカの頭を優しく撫でる。

「ねぇウルリカ、どうしてそんなにつらそうなの。苦しそうなの。お腹が痛い? 頭が痛い?」

「……痛みなんてあんたにはわからないでしょ」

「うん、僕には痛覚がないから。でも痛いはつらいものだってアイちゃんが教えてくれたよ」

「……お腹も痛いし、頭も痛いし、でもそれよりずっと、胸が痛い」

「胸?」

 フロレンスは首を傾げた。胸が痛くなるとは聞かなかったような。他にもどこか悪いのだろうかと心配になる。

「だいじょうぶ? 薬飲む? 探してくるよ?」

「これは、薬では治らないわ」

 ウルリカはやっと顔をあげ、仰向けになった。

「心が痛いのよ」

 心、とフロレンスは呟いた。小説でも漫画でも映画でもよく聞く言葉だ。けれど、ウルリカから聞いたのは初めてだった。

「ウルリカにも、心があったんだね」

「そうだよ、私にもあるの。……って、ちょっとそれはひどいんじゃない? しつれいね!」

「あっ、違うよ! そうじゃなくて……映画の中の人間って、確かに君と同じ生き物だということはわかるんだけど、さわれないから……なんだか本物って感じがしなくて、あんな偽物とウルリカが同じものなんだなって不思議で……」

「そう。それは……そうね、私も毎日思ってる」

 ウルリカは、ふと息を詰まらせ、静かに涙を流した。フロレンスは、ウルリカの涙も今初めて見たのだった。

「ウルリカ……それは、涙?」

「そうよ。嬉しい時にも出るけど、悲しい時にも出るのが涙よ。感情が、どうしようもなかった時に私たちは泣くの。AIにも、あなたにもそんな機能、ないみたいだけど。こんな機能必要ないもの、ね」

「ウルリカ……」

「そうよ。生理だってそう。必要ないのよ、AIにも、フロレンスにも。人間には必要なだけ。でも、本当は私にだって、必要ないのよ!」

 話しているうちに、ウルリカの感情はどんどん昂ぶっていく。

「だってそうでしょう? 私はね、私、最後の人間なの! 相手がいないの! 私が子供を産むことなんてないのよ! こんなの、子供を産むためだけのいらない機能じゃない。なのにどうして私、必要のないこんなもので苦しいなあって思わなくちゃいけないの? これからずっと、ずっとずっと毎月毎月これが続くの! 繰り返されるの! 気が狂ってしまいそう!」

「ウルリカ、ねぇ、ウルリカ。君は……君、子供が欲しいの? 僕じゃだめ?」

「わからない……あんたたちのこと、我が子みたいって思うときもある……あんたたちのこと、かわいいって思ってるよ。きっと愛しいってこういうことなのって。教えてくれたのはあなたたちだよ。さびしかったの、埋めてくれたのもあなただった……」

「アイちゃんだけじゃ、足りなかった?」

「AIはただのロボットじゃない……! 私のこと、わかってくれない、共感もしてくれない、心のわからない機械でしかなかった」

「僕は? 僕は足りてる?」

「あなたは、AIよりはずっとましだわ」

 ふと、フロレンスは、フロレンスたちは。

 一斉に、体が軋んだような気がした。

 見れば、内側から、ヒビが入っていた。

「……ウルリカ。僕ね、いつも君の視界に映るようにしたよ。君が寂しがりやなの、寂しいって言葉を知らないうちから知ってたんだ。どうしてだろう、わかったんだ。だから僕、君の世界にずっと映っていたかった」

「そう……そうなのね」

 ウルリカは涙で濡れた頬を拭って、困ったように微笑む。

「そうね、どこに行ってもフロレンスがいたから、私寂しくなかった。夢を見る時はまた一人になりそうで怖かったけど、フロレンスがそばにいてくれたから。あなたの冷たい体がいつも私のそばにあったから、ああ、いるんだって」

「うん……そうだよ、そうなんだ……ねえ、ウルリカ。僕ってもろい石なんだよ。知ってた?」

「知ってるわ」

「アイちゃんもね、ああ見えて、中の部品とかすごくちっちゃくて、壊れやすいんだ。定期的に頑張ってメンテナンスしてるんだ」

「あれは精密機械だもの」

「うん。それでね、君の体にも、免疫細胞っていうのがあって、君の体を毎日メンテナンスしてるんだって。でもね、僕にはそんな機能ないから、僕は……僕は、あの地層から体をどんどん増やしていくの。ここにはね、小さな小さな生き物がいて、それが僕らの体の中にいて、僕に命をくれたんだ。僕は、風や雪や氷の囁きを聞いて、ずっと君のこと知ってたんだ。君に会うために生まれてきたんだ」

「うん」

「でもね……僕、本当は壊れやすいんだ。一度壊れたら、直らない。体が全部砕けちゃったらもう動けない……僕の体の材料にも、限りがあって、もしかしたら僕、君より先に死ぬのかもしれない」

「やだ。そんなこと言わないで。歩き方だって走り方だって、跳び方だってうまくなったじゃない」

「だって、ウルリカ、僕今、みんなヒビが入ったよ。内側が割れたんだ。どうしてかわからないけど、君の言葉で、割れたんだ。また体、補充するよ。でも今動いてる僕たち、多分また何か衝撃があったら全員割れちゃう」

 ウルリカは体を起こして、うろたえたような声を出すフロレンスの両手をとった。優しく撫でる。気遣うような明暗が、その綺麗なグリーンの目に浮かんでいる。

「フロレンス、それは……もしかしたらそれが、あなたの心のあり方なのかもしれないわ。傷つけてごめんね」

「じゃあ、これが……怖いってことなのかな。つらいってことなのかな。あのね、ウルリカ。僕もアイちゃんも、君を一人にしないためにいるのに、そのために生まれてきたのに、君より長く生きてるって限らないんだ、きっと」

「うん」

「子供を残せないって、こんなに怖いことなんだね。僕は何も生み出せない……自分の体しか。君も何も生み出せない。君は、僕を見つけただけで、僕を産んだわけじゃないんだ。だから、そうだ、君は僕のお母さんなんかじゃなかった」

「そうよ。最初からそう言っていたじゃない。私はあなたのママじゃない。私たちは、ただの友だち」

「友だちでも、いい……君の特別なら、僕それでいいよ。でも、もし一番望まない未来が来たら? 君を看取りたい僕の願いが叶わなかったら? 僕は何のために」

 ウルリカはフロレンスを抱き寄せた。

「……そうね、あなたがいなくなったら、私生きていけるのかもうわからないわ。でも……思い出は、あるから」

「それじゃ足りないよ。僕、今初めて気づいたよ。最後って、終わりって、怖いんだね。僕の最後の一体もなくなったらどうしよう。君が死んじゃった時、本当に僕、耐えられるかな?」

「わかるわ。だから……だから人間もね、ずっときっと、何かを残してきたのよ」

 ウルリカはフロレンスを撫でた。フロレンスは、ウルリカを抱きしめ返した。縋るように。

「この貯蔵庫は、そういうものでできてるの。人間が歴史を重ねて残したくて残してきたものが、全部この中にある。でもね、私はその全部を大切にするだけの寿命がないわ」

「僕が……僕が、全部引き受けたいと思ってきたよ」

「うん……でも、不安だね。あなたみたいな新しい人間が、他にもたくさん生まれてきてくれたらいいのに。あなたみたいな奇跡が、また起きてくれたらいいのに」

「そんなの……」

 そんなの、どうしたらいいかわからない、きっと無理だと言いかけて。

 フロレンスは、ふと思いついた。

 種だ。

 種を作れば、もしかしたら。


 川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えている崖の下に、白い岩が、まるで運動場のように平らに川に沿って出ているのでした。そこに小さな五六人の人かげが、何か掘り出すか埋めるかしているらしく、立ったり屈んだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。

「行ってみよう。」二人は、まるで一度に叫んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になった処の入口に、〔プリオシン海岸〕という、瀬戸物のつるつるした標札が立って、向うの渚には、ところどころ、細い鉄の欄干も植えられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。

「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議そうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきの尖ったくるみの実のようなものをひろいました。

「くるみの実だよ。そら、沢山ある。流れて来たんじゃない。岩の中に入ってるんだ。」

「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」

「早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘ってるから。」

 二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい稲妻のように燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさえたようなすすきの穂がゆれたのです。

 だんだん近付いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、長靴をはいた学者らしい人が、手帳に何かせわしそうに書きつけながら、鶴嘴つるはしをふりあげたり、スコープをつかったりしている、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしていました。

「そこのその突起を壊さないように。スコープを使いたまえ、スコープを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」

 見ると、その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣の骨が、横に倒れて潰れたという風になって、半分以上掘り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。

「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。

「くるみが沢山あったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまえ。ていねいにのみでやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」

「標本にするんですか。」

「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてる筈じゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。

「もう時間だよ。行こう。」カムパネルラが地図と腕時計とをくらべながら云いました。

「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。

「そうですか。いや、さよなら。」大学士は、また忙がしそうに、あちこち歩きまわって監督をはじめました。二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息も切れず膝もあつくなりませんでした。

 こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。


 フロレンスはウルリカの気に入りの物語が好きだった。その中でもいっとうフロレンスの心――というものがあるのならば――を震わせたのは、プリオシン海岸の物語だった。

 奇しくも、AIとウルリカがそう呼んでいたのだ。あの、彼らが生まれた崖を。崖下の海岸を。

 なぜそういう名前なのかと尋ねれば、ウルリカが名付けた、ただ空想上のそれの風景に似ていたから、という。それが運命だと思った。

 ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう――

 カムパネルラの想いは、フロレンスの想いでもあった。そのカムパネルラが拾い上げた胡桃の化石を、学者は証明に必要なものだと言った。あれはきっと、生きた証明になる化石だったのだ。

 僕たちに必要なのが、きっとあの胡桃なんだ――

 そう、フロレンスは思った。

 体を持つ全てのフロレンスが、砕けて結晶になってしまったそれらが、まだ体を持たぬ材料が、きっと同じことを考えた。


「種子?」

「うん。あのね、僕はフローライトになるための材料と、この氷の大地に生きる小さな生き物と、この寒い世界と、そして人間になりたいという僕の願いで生まれてきたの。だからね、同じように僕たちが僕たちの手で、僕のと同じ材料を種にして世界に蒔いたら、もしかしたら……」

 フロレンスは、手を握りしめた後、目を輝かせた。

「いつか、僕みたいに誰かが生まれて、動き出すんじゃないかって。ちゃんとアイちゃんにも相談したんだよ。アイちゃんも、試してみる価値はあるって」

『どんな発明も、実験がなければ生まれません』

「……ね、ほら!」

『種子は鉱物ミネラル種子と呼ぶのがふさわしいでしょうか。貯蔵庫内のまだ息のある機器を使えば精製が可能です』

「できれば胡桃の形がいいなあって……僕思うんだ」

「胡桃……」

 ウルリカは、呆然といった様子でフロレンスとAIの言葉を聞いていた。ややあって、「ああ、」と吐息を漏らした。

「銀河鉄道の夜の、胡桃の化石かしら」

「うん。ロマンチックだと思わない? ウルリカ、僕ね、僕、君を愛してるよ。人間の数万年の歴史にも財産にも負けないくらい、どんなダイヤモンドよりも君のことをいっとう愛してる。僕から君に贈ることができる最高の宝物は、きっと生きた証明だけだと思った。だから――」

「物語らしくて、いいと思うわ」

 ウルリカは柔らかく目を細めた。

「……いつかの未来、きっと私たちのこの日々も、物語になる。虚構フィクションになる。無味乾燥なただの記録よりはずっと、輝いてていいじゃない。未来を夢見るなんて、思いもつかなかったわ。私には、生まれたときからずっと未来がなかったから」

 ウルリカは目尻の涙を細い指で拭った。

「一緒に銀河鉄道に乗りましょう」









(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

すばらしきこの世界 星町憩 @orgelblue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ