真夜中の鼓動

スエテナター

真夜中の鼓動

 初冬の夜、空気は冷たかった。どこか寂しく満たされない気持ちを抱えてぼんやり家を出て、住宅街になっている丘の坂道を下り、常夜灯が煌々と灯る工場街をあてもなく歩く。

 こういう気分の時、工場を囲む緑色の金網も白いガルバリウム鋼板の壁も、その壁から出ている煙突の煙も、無機質ながら何より優しく心を慰めてくれる存在のように思えた。

 僕が生まれた時、両親は心を込めて名付けをしてくれたんだろう。だけれども、僕はその名前を捨ててしまった。人間として生きるにはつらすぎたから。『記号名』になれば、きっと生きることも楽になるだろう。そう思った。

 僕が記号名になったことを、色んな人が悲しんでくれた。でも、僕は僕のまま、結局記号名になっても生きることはつらかった。

 ぽとりぽとりと足音がアスファルトに落ちる。それを聞いているうちにだんだん息苦しくなって、ふと足を止め、緑の金網にひたいをつけ、縋るように指を絡めた。自分の体温が伝わったのだろうか。冷たいはずの金網がじんわりと温かかった。

 僕が名前を失った時、クラスメイトの中で一番悲しんでくれたのはあの子だった。その子が、自らも名前を手放したと聞いて僕はショックだった。あんなにきれいな名前だったのに。一度名前を失ったら、その名前は人々の記憶から消えていく。悲しかった。きっと同じ悲しみを、僕もあの子に与えていたんだろう。今さらそんなことに気付くなんて、僕はいたらない人間だと思う。でも、もう何をどうしたらいいのか分からない。虚しくて寂しくて泣きたい気持ちだった。

 金網にひたいをつけたまま目を閉じると、工場の機械音が身近に感じられた。こんなに温かいのはなぜだろう。体温だけではない。今、金属音を立てて動いている機械の温もりが、この心臓にまで届いている。

 名前を捨てて記号名になった僕と、無機質ながら熱を放って動く工場機械と。

 僕らは何だか似ているような気がする。僕の体の中にも人知れず人工的な機構が宿っているような気もするし、工場機械にも人肌の温もりが宿っている。

 このまま寒さも忘れてずっと金網越しに機械の音を聞いていたい。丘の上の家からは、何も聞き取れないから。

 工場の排煙が白く濁って夜空にほどけ消えていく。僕の吐いた息も同じ空へ消えていく。

 煌々と灯る工場夜景の灯りが一粒、人間の涙のようにぽろりと落ちる。僕の代わりに泣いてくれたんだろうか。

 初冬の夜の冷たい空気と機械の温かな音と僕の心臓の鼓動と。すべてが一つになって、大きな宇宙の片隅で、静かな調和を生んでいた。


(終)

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