第5話 旅立ち

 ガヤガヤと生徒の声が聞こえ始める。きっともう終業式も退任式も終わったのだろう。この学校はホームルームの後に式があるので、式終了後はそのまま帰宅だ。

 結局私は終業式をサボってしまった。こんなことは初めてだ。真面目だけが取り柄だったのに……。

 でも後悔はしていない。高校生活で一度くらい、羽目を外したっていいじゃないか。誰にも迷惑はかけていない。かけたとしたら、杏と蓮に対してだけだ。

 蓮に教えてもらったマッサージのおかげで、腫れた目は元通りになった。杏に借りた色付きリップのおかげで、私の唇は綺麗な桜色になった。

「ほら、行って来いって! 公開告白にならないようにね!」

「先生の前に立つとき、もう1回鏡見るんだよ!」

 2人の声が、私の足取りを軽くしてくれる。陸上部で良かった。長距離選手で良かった。短距離選手と比べて派手ではないかもしれないけれど、好きな人を見つけるまでバテない体力がある。

 今までで一番綺麗なフォームで走っている自信がある。職員室、数学教員室、どこにも彼はいなかった。でも思い当たる場所はまだある。何で思いついたのなんて、自分でも分からない。


 筧先生は、ゴミ箱の前にいた。文化祭の時の臨時ゴミ箱を、そのまま常時置くことになったらしく、私の思い出の初恋の場所は残ってくれることになった。ゴミ箱ごときで喜ぶなんて、我ながら少し変態なのではないかと疑ってしまう。

「先生、なんでこんな所にいるんですか」

 先生は呆けた顔で振り返った。よく見ると彼はビニール袋を持っている。退任式の後にゴミ袋を替えるなんて、真面目過ぎるというか、少し天然なのではないかと思う。そんなところも好きだ。


 なんと言って告白したのか、自分でもあまり覚えていない。脇汗がじんわりと滲み、見られないように脇をしっかり締めたのだけは覚えている。自分の受験番号があるか探した、一昨年の晩冬を思い出した。

 結果はあっけなく玉砕。あんなに長い間片思いをしていたのに、たった数分で終わってしまうなんて、すこしガッカリしてしまった。私の受験番号はなかったのだ。

 先生は最後まで真面目だった。先生と生徒だから、という理由だけでなく、故郷に好きな人がいるということまで教えてくれた。彼の丁寧さに、傷つくのを通り越して呆れてしまった。

「そういや平塚、終業式の時どこにいたんだ。いつも真面目だから心配したよ」

「よく分かりましたね。あんなに人いるのに」

「平塚はいつも真剣に話を聞いてくれるからなあ。授業中も、しっかり目を見てさ」

 気づいてたんですね、という言葉は声にならなかった。こんなことを言われたら期待してしまいそうになる。ある意味酷な人だ。

 今思うと、私は先生の顔をまじまじと見たことはなかった。明るい茶色の目だけを見て、他のパーツは恥ずかしくて見ていなかった。よく見ると髭の剃り残しがあったり、寝癖が残っていたりしている。

 恋は盲目、なんてよく言ったものだ。私は先生の顔もろくに見ず、鏡ばかりを見ていた。

「先生、鏡見た方がいいですよ」

 なんだか悔しくて、私は先生に言った。顔の周りにたくさんのはてなマークを飛ばす彼を見ながら、自分のこめかみを指さした。彼のこめかみには可愛い寝癖がついている。


 この恋はいい経験になった、と言い切れるほど私は大人じゃない。先生に背を向けた瞬間、涙があふれ出た。

 中庭で待機していた杏と蓮は、私の涙を見た瞬間駆け寄ってきた。2人に抱きしめられて、子どものように泣いた。

「フラワー行こ! 食べまくろう!」

 杏は涙でぐちゃぐちゃの頬を思い切り上げて言った。蓮は「なんであんたの方が泣いてんの」と笑っている。


「鏡の中の自分が一番可愛いのってね、意識的に顔のパーツを綺麗だと思う場所に動かすからなんだって」

 私はしゃっくりを無理やり止めながら話した。目が赤くなっているせいか、周りの通行人からの目線が痛い。

 私の蘊蓄うんちくに、2人は感心したように感嘆の声を上げた。

「でも私、鏡を見てるときの凛より、先生を見てるときの凛の方が可愛いと思ってたよ」

 杏は屈託のない笑顔でそう言うと、肩を組んできた。酔っ払いみたいに3人でフラフラと歩く。

 通り道の駐車場を、車にぶつからないように注視して歩いている。ふと斜め下を見ると、赤い車のサイドミラーに自分の顔が映っているのが見えた。

 目元は腫れて涙の痕が残り、鼻も擦りすぎて赤くなっている。どっからどう見ても不細工だ。でもこの顔は嫌いじゃない。

 私はふっと鏡に笑いかけてみた。鏡の向こうの私が微笑み返す。よく頑張ったね、と言われたような気がした。

 

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鏡の中と瞳の奥 大江ひなた @suihe

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