ある大人の話

長埜 恵(ながのけい)

第1話

 子供の頃、家から歩いて十分ぐらいの場所に公園があった。

 日も暮れかけた頃になると、一人一人ぽつぽつと帰っていく。それが別段寂しいとは思わなかった。私には、迎えに来てくれる人がいたからだ。


 大体いつも、お母さん。時々、仕事が早く終わればお父さん。


 そして、大人。


 大人は、お母さんもお父さんもいない日に私を迎えに来てくれた。


 私は大人と手を繋いで、家に帰る。痛そうに右足を引きずりながら、大人はゆっくり私と歩くのだ。


 交わす言葉は少ない。

 大人は決まった言葉だけを繰り返す。


「家に帰る? 給水塔に帰る?」


 家に帰るよ、と返したら、あとはずっと黙って私の後をついてくる。その足はどんどん重たくなって、最後にはまどろっこしくなった私が手を振り払い、置いてけぼりにしてしまう。


 それが、大人だった。


 ……一度だけ、違う返事をしたことがある。

 お母さんと喧嘩をした日のことだ。


 私は、家に帰りたくなかった。

 だから、その日迎えに来てくれた大人に、尋ねたのである。


「給水塔に帰ったらどうなるの?」


 大人の足が止まった。


 あまりにも突然止まったので、私は前につんのめってしまったのを覚えている。


「給水塔に帰る?」


 大人は、そこだけを繰り返した。

 さっきよりも、低い声で。


「帰ったらどうなるの?」

「給水塔に帰る?」

「お母さんに怒られない?」

「給水塔に帰る?」

「ねぇ」

「給水塔に帰る?」


 しかし、何度言っても大人は同じことを言うだけだった。

 大人の声も、今は聞きづらいほどおぞましいものになって。


「……家に帰る」


 怖くなった私は、そう答えたのだ。


 すると、大人はまたゆっくりと歩き始めた。

 私はホッとして、大人と一緒に家に帰ったのである。


 あれは、一体誰だったのだろう。

 母も父も知らないと言った、あの人は。


 そういえば、顔を見上げたことはなかった。

 繋いだ手に、温かさを感じたこともなかった。


 ただ、痛そうに引きずる右足と、晴れた日でも私の手に落ちる水滴だけが。


 私の胸に、未だ夕焼けと共に残っている。

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ある大人の話 長埜 恵(ながのけい) @ohagida

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