とある腐メイドの最推しは

エノコモモ

とある腐メイドの最推しは


『貴女をラルカンジュ家のメイドとして雇うわ』


運命のあの日。血に塗れたわたくしの手を取って、奥様はそう仰いました。


『貴女はもうじゅうぶん、国のために尽くした。この力は、貴女自身の為に使いなさい』


月並みな結末でございました。国家の諜報員スパイとして、時に敵国へ潜入し時にこの手を血で染め上げ、幾人もの要人の弱味を暴き陥れて参りました。そうしていつしか誰の手にも負えなくなった駒は、最後には裏切り者として捨てられるものです。


けれどそんなわたくしを拾った奥様は、そのような過去は些末なことだと仰いました。

忘れもしません。あたたかな風に花の香りが乗る陽春の候。わたくしの手を取り、柔らかな微笑を浮かべた奥様は、こうも続けました。


『見るべき景色を変えれば――世界はとても、美しいものよ』






「貴方、また来たのですか?」


抜けるような晴天の下。巨大なお屋敷の中心に、皮肉の籠った声が響き渡ります。


バスチアン・ラルカンジュ。23歳。ラルカンジュ伯爵家第14代当主であらせられます。幼き頃は天使と見紛う美少年でありましたが、青年となった今でも奥様譲りの美貌には更に磨きが掛かっておいでです。そんなお坊っちゃまは、輝く新緑のごとき鮮やかな瞳を廊下に向けて、眉間に皺を寄せています。


「バスチアン。お前こそまた居るのか」


対するはルイ・アンリオ。20歳。アンリオ財閥総帥のご次男。黒髪に青色の瞳、東洋の血が混じる顔立ちは、こちらもお母上からの血筋だそうです。バスチアン様に負けず劣らず、現在の彼もまた眉間に皺を寄せています。


「大体、俺の名前はルイだって言ってるだろ。アナタじゃなくて、ちゃんと名前で呼べよな」

「おや、そうでしたか。てっきり名前などないのかと」

「……。お前は本当に腹が立つ奴だな」


このやりとりをご覧になった方は、バスチアン様とルイ様はさぞ険悪な仲だと思われたことでしょう。全くその通り。これがこのおふたりの通常営業なのでございます。


「けど、バスチアン。お前とのこんなやりとりももう終わりだ。奥様との契約は無事に済んだ」


アンリオ財閥は国外との貿易事業を主たる業務として取り扱う企業グループです。ルイ様は、傘下の子会社のひとつに属し、バスチアン様のお母様との取引の為に毎週いらしておりました。


「これで、お前ともさよならだな」


ルイ様はふんと鼻で笑います。その煽りを受けたバスチアン様もまた、悠々と微笑んで、嫌味を口にしました。


「せいせいしますよ」






「ううう…」


そしてその数分後、バスチアン様は苦悶の表情を浮かべ床に這いつくばっておいででした。毎週金曜日、ルイ様がお帰りになった後の恒例行事になりつつある光景です。そんなバスチアン様は、頭を抱えながら後悔を呟きます。


「何故俺は、ルイにあんなことを…!」


その明晰な頭脳と端正なお顔立ちから、お坊っちゃまは非常に人気のあるお方です。それこそ女性からも男性からも、憧憬の眼差しを向けられて止みません。人間関係などに悩まれることなどそう無かったのです。それなのに、そんな彼が自身の発言に自責の念を抱き、絶望を繰り返す理由はただひとつ。


バスチアン様はルイ様に、ただならぬ思慕を抱えておいででした。


「次で最後なんて…。来週からは会えないだなんて…!酷すぎる…!」


嗚咽を漏らして泣くバスチアン様を、わたくしと言えば気付かれないよう窓越しに外から見守ります。お坊っちゃまの私室は4階であり、足場は経年劣化で発生した僅かな壁の窪みと言ったところですが、元諜報員であるわたくしには然したる不都合はございません。


(お坊っちゃま…。貴方様がひどく当たるから、ルイ様もあのような態度をお取りになるのですよ…)


どういう訳か、バスチアン様は恋慕するルイ様を目の前にすると、今時子供でもしないような意地悪をしてしまうのでございます。お忙しい中毎度毎度時間を作ってわざわざ偶然を装い会いに行くにも関わらず、名を呼ぶこともしないで、ただ辛辣な言葉を浴びせる。嫌われるのも当たり前と言うものです。


(お痛わしい…)


そう、間違いなくお坊っちゃまご自身の自業自得に他ならないのですが、わたくしの心には身を切られるような憂慮が浮かぶのです。何故ならわたくしもまた、バスチアン様とルイ様に是非とも愛し合って頂きたいと言った、切望があるのですから。


(母のごとき母性とも、乙女のごとき恋心とも違う。バスチアン様とルイ様のおふたりでお幸せになって頂きたいと言う純粋な我欲、そしてまるで信仰心に近い、この想いは一体…)


長年に渡って胸に抱くこの感情を、わたくしは持て余して参りました。しかしながら最近になって、この想いを何と称するのか、まさしくうってつけの単語を見つけてしまったのです。




「それが『推し』でございます…」


わたくしの一言に、ざわめきが巻き起こりました。彼女たちは皆志を同じくし、わたくしが信頼するラルカンジュ家メイド一同でございます。彼女達は両手を胸の前で合わせ、今しがた聞いたばかりの単語の響きに震えております。


「何と…!我らのこの名伏しがたい激情を見事なまでに表した名句ですわ」

「ええ全く。恐らくは名のある命名士によって付けられた単語でしょう」


わたくしは静かに頷きます。やがて姿勢を正し、前を見ました。


「さて。本日招集致しましたのは、我らが最推しでありますおふたりのことです…」

「ええ。拝聴しました。ルイ様はこのお屋敷へ訪れる機会は、あと1回しかないのだとか」


さすが同志。情報が早いことです。


「けれど来週の訪問が最後と言うことですから、さすがのバスチアン様も素直にルイ様のことをお引き留めになるのでは」


そう希望を持って話すメイドに、わたくしは静かに首を振ります。


「お坊っちゃまの素直になれなさを舐めてはなりません」


続けて紡ぐのは悲しい歴史。涙無しには語れぬ過去でございます。


「先月の半ば、ルイ様のお誕生日の近くことです…」


バスチアン様は想い人の記念日であることを知り、前々から熱心にご準備をされていました。


「選んだお品は真鍮製のブローチ。バスチアン様は念入りに受け渡しの練習を重ね、決行の日となりました」


屋敷の廊下で延々と待ち続け、ルイ様がお通りになった瞬間に偶然を装い物陰から姿を現す。訴えられればほんの一分も勝てる隙のない行動でしたが、努力の甲斐あり贈り物は無事にルイ様のお手に渡りました。


「その時、予想外の事態は起こりました…」


中身が真鍮製品であることを知り、目を丸くさせたルイ様は仰いました。


『俺が金属アレルギーなことを知ってて渡して来たんだな!?』


(!?)


真鍮は銅と亜鉛の合金。最もアレルギーを引き起こしやすい素材でもあります。バスチアン様もその様子を天井裏から見ていたわたくしも、ルイ様の体質をご存知なかったのです。


『っ…!?』

『嫌な奴だとは思ってたけど、ここまでだとは!俺は誕生日の贈り物なのかと思って…お前のこと見直しそうになったのに!』


想像だにしなかった返答に固まるバスチアン様に、ルイ様は畳み掛けるように詰め寄ります。もちろんお坊っちゃまにそのような悪意があったわけではありません。むしろその逆、好意の権化でした。日頃の行いが最悪な形で顕れたのでございます。


(お坊っちゃま!誤解を解いてください…!ブローチならば直接肌には触れませんから、使って頂けるかも…!)


はらはらと焦燥に駆られるわたくしの前で、バスチアン様は口を開けます。突然の出来事に混乱されたこともあるのでしょう。彼は優雅に笑って、仰いました。


『ええ。その通りですよ』


あの時のお坊っちゃまのお顔は生涯忘れません。


「当然ルイ様はお怒りになってその場を後に…バスチアン様は自室に戻った後泣いておられました…」


わたくしの声が、静まり返った室内に落ちます。黙って聞いていたメイド達が、ごくりと息を呑みました。


「な、何と言う悲劇…!」

「やはり坊っちゃまのあの癖をどうにかしなければ、本懐を達成するのは難しいようですね…」


悲嘆に暮れる彼女達をそっと制止します。息を吐いて、わたくしは口を開きました。


「良いですか。バスチアン様とルイ様がお会いになる機会は来週の金曜で最後…。その最後の機会を、確かにものにするのです」


今回の作戦は、万が一失敗すれば使用人の職を失うことにもなり得ます。その為に参加の有無をひとりひとりに聞く心積もりでしたが、言葉の途中でわたくしは悟りました。今この場に、推しを諦める目をした者などひとりも居ない。


「あくまでも偶然、あくまでも事故、そしてあくまでもお二人ご自身が主体的に行動できる状況を整えなくてはなりません」


こうしてバスチアン様にも、当然ルイ様にも秘密裏に、わたくし史上最大にして最重要作戦は始まりました。






『扉が開かない!』

『な、なんですって!?』


ガチャガチャと取っ手を捻る音から、ガンガンと叩く音に変わります。その音と共にスピーカーから響くのは、ルイ様とバスチアン様の焦ったお声。


慌てられるのも当然でございましょう。おふたりは現在、屋敷の一部屋に閉じ込められているのですから。


「…さて」


そして密室に閉じ込めたおふたりの様子を監視するは、当然わたくし達でございます。室内に取り付けられた監視カメラ9台、全てを聞き逃さない集音マイクロホンに熱源監視装置、殆ど改造に近い改修を行った今回の舞台に、死角はありません。


綿密な計画を立てた上での誘導でしたから、当の本人方は当然、偶然だとお思いです。


『おいバスチアン!窓から出られないのか!?』

『っく…!開きませんね…。錆びているのでしょうか』


一見普通の窓ですが、窓枠は外から溶接してあります。更に厚さ19ミリの強化ガラスを嵌め直しましたから、万一にも開くことはありません。


そしてその隣室にて、バスチアン様とルイ様の全てを映し拾う高画質モニターと高音質スピーカーを前に、わたくしはスカートの裾を翻させて指示を出します。


「今です!音響班!」

「はい!」


わたくしの合図に、音響担当の使用人が頷き目の前のミキシング・コンソールへと手を伸ばします。機器からはバスチアン様とルイ様のお部屋に、巧妙に隠されたスピーカーへと信号が送られ――。


<チュウッ>


『うわあっ!』

『っ!』


突然の音に驚いたルイ様が、飛び上がってバスチアン様にしがみつきました。


『げっ!』


そして直ぐに自身の行動に気付き、慌てて手を放します。バスチアン様も平静を装いつつ、声を出しました。


『ネズミでしょう!あ、貴方、臆病すぎですよ!』

『うっ、うるせえな!お前だってちょっとビビってただろ!』

『俺は貴方に驚いただけです!』


照れ隠しもあるのでしょう。互いに赤くなりながら喧嘩を始められました。


隣室では今の接触をまともに見てしまったメイドの何人かが撃沈しました。気持ちは分かりますが修行が足りませんよと窘めて、続く指示を口にします。


「興奮剤の投入を」


空調班の担当メイドが頷き、手を掛けました。この部屋の通気孔は隣室――即ちバスチアン様とルイ様のお部屋へと繋がっております。そこから霧状にした精神刺激薬を散布。ごく微量ですが、ときめきと勘違いさせる程度の効果はあるのです。


「……」


接触と薬の影響を確かめる為、わたくしはモニターへと視線を戻します。互いそっぽを向くおふたりを、じっと見つめ、心を読み取る。諜報員時代に重宝した読心術を使う時が参りました。


(くそ…思わずバスチアンに触れちまった…。何だか熱くなってきた…)

(ルイがまさか、俺に抱きついてくるだなんて…一瞬、良い匂いがした…)


無言ですが、互いに意識はしているようです。よろしい。順調のようですね。


「映像班!」


そして最後、今か今かと控えていた奥の座席へと声を掛けます。


『っ…!?』

『な、なんだこれ…!』


その仕掛けを実行した瞬間、バスチアン様が息を呑み、ルイ様が驚愕で目を見開きました。それもそうでございましょう。おふたりの前に浮き上がったのは、「この部屋から出たくばキスをしろ」との文字。


「これが即ち!接吻しないと出られない部屋でございます!」


わたくしははっきりと言い切ります。


この命令は空中結像システムによって、宙に浮き上がっています。最新の技術と我らの強すぎる願望を掛け合わせた結晶は、おふたりの目にはまるで魔法のように映っていることでございましょう。


『こ…こんなふざけた命令聞く必要ねえよ。誰か助けに来るだろ』

『そ、そうですね…』


おふたりともそう判断し、床に腰かけました。動揺のせいか、声が僅かに震えておられます。


(ふふ…今はそうでございましょう…)


わたくしはそのご様子をほくそ笑みながら見守るのです。先程のネズミの鳴き声然り、部屋にはおふたりの距離を縮める為の様々な仕掛けが施されていますから、いつまでもそのままでは居られません。


『ここ、少し寒いですね』


まずその罠に嵌まったのはバスチアン様でいらっしゃいました。


『何か羽織れるものは…』

『あ。ここに毛布があるぞ。ほら』


最推しであるおふたりを危険に曝す訳には参りません。部屋の中には不自然にならない程度に簡単な食糧と水、防寒具は用意してございます。ですが当然、ここにも策略は張り巡らされているのです。


『貴方のぶんは…?』


毛布を手渡されたバスチアン様が、疑問を口にしました。ルイ様が何とも無しにお答えになります。


『いや、1枚しかないみたいだ。お前使えよ。寒いんだろ?』

『……』


バスチアン様は迷った末に受け取り、毛布を広げます。ふたりぶんにしては小さく、ひとりぶんにしては大きい絶妙なサイズ。


『……』


隣室で使用人達が固唾を呑んで見守る中、やがてバスチアン様は小さく呟きました。


『…ならば一緒に、入れば良いでしょう』

『へ…?』


ぽかんと口を開けたルイ様でしたが、顔を赤くさせたバスチアン様に気が付き素直に頷かれました。


『お、おう…』


多少の距離はありながらも、1枚の毛布を分け並んで座るおふたり。肩が触れそうで触れないその距離感に、こちらではメイドが何人か変な声を上げました。


(素晴らしい…!)


よもや生きている内にこのような光景を見ることができるとは。非日常のせいか、はたまた興奮剤のせいかは分かりかねますが、バスチアン様もいつもより素直になられているようです。


「赤外線サーモグラフィの様子はどうですか」

「良好です」


熱源監視係のメイドに声を掛けると、口元を押さえ振り向きました。平静を装ってはいますが、隙間から見える唇は今にも三日月を形作ろうと緩んでいます。歓びを隠しきれていませんよ。


「おふたりとも、僅かですが体温の上昇が見られます」


その報告に、皆の口から感嘆の声が漏れました。バスチアン様はもとより、ルイ様にも影響があるとは。


(成功のようですね…)


ルイ様の従者とも、連携は完璧に取れています。今回の長時間の拘束につきましては、おふたりの私生活やご予定に影響がないよう取り計らっておりますから、何は問題はございません。


「あと我らにできることは、ただ静かに見守るのみ…。空調班は万が一にもおふたりが体調を崩されることがないよう、酸素濃度や室温管理に細心の注意を払って…」

「非常事態発生!緊急避難命令を受信しました!」


(!!)


異常を知らせる合図に咄嗟にバスチアン様とルイ様のお部屋を確認しますが、そちらではありません。これは屋敷の内部、この部屋より外で待機させている予備班からの信号です。


「何事ですか!」


(恐れていたことが…)


どんな作戦にもつきものなのが、不測の事態でございます。当然わたくしもあらゆる状況を想定し計画を練っておりますが、この時起こった事例はどんな予想とも違いました。


「客人…いえ、侵入者です!」


部下からの報告に、片方の眉を上げます。


「どなたです…!?」

「私設部隊のようです!ルイ様を捜しておいでです」

「私設部隊…?」


彼女から示されたのは、今日この日の為に付近に設置された防犯カメラの映像です。使用人達の制止を振り切って屋敷の廊下を闊歩する、複数の男性の姿。


(防弾衣に短機関銃、並みの装備ではありませんね。足運びから見ても、全員武道経験のある手練れと言ったところでしょうか)


そう分析していると、隣でメイドの1人が呟きます。


「今まで拝見したことがない方々です…。なぜ…」


確かにあのような武骨な方々が何故ルイ様を捜されているのか大いに気になるところです。が、今考えるべきはそこではありません。


「メイド長…」


待機班と連絡を取り合っていたメイドが、額に汗を浮かばせて顔を上げました。


「かなり粗暴な方々で、今すぐにルイ様を引き渡さねば強硬手段に出ると仰っています」

「……。交渉の余地なしと言ったところですか…」


有無を言わさぬ乱入者に、室内は諦めの色に染まります。


「あと少しだったのに…!」

「ここまでなんて…」


顔を覆い絶望に浸る皆の前を、わたくしはこつこつ靴音を立てて歩きます。外へと繋がる扉の前まで来た時に、ぴたりと足を止めました。


「皆の者。諦めてはなりません。わたくしが参ります」


今回の作戦には、他ならぬバスチアン様の初恋が懸かっているのです。我らがさじを投げてしまっては、一体誰が推しの幸せを祈れると言うのですか。


「き、危険です!屈強な兵士が何人もいるのです!」

「そ、それに…仮に撃退できたとしても、メイド長は見逃してしまわれるかもしれませんわ!」


言いながら、彼女はバスチアン様とルイ様の映るモニターを示します。一瞬でも目を離せば何が起きるか分からない密室。彼らの応対をしている間に、最推しの重要な場面を見逃してしまうことは十二分にあり得る話でしょう。


それでもわたくしは静かに首を振ります。


「我らは黒子。我らの全ては最推しの為に。決して私欲の為だけに行動してはならないのです」

「で、ですが、おふたりを誰よりも応援し、入念な準備を整え今現在陣頭指揮を取っているのもメイド長ではありませんか!それなのに重要な一瞬を目撃できないだなんて、これはあまりにも惨いことでございます…!」


悲嘆に暮れる同志達を前に、わたくしと言えば微笑みを返します。その満たされた顔のまま、口を開きました。


「惨いなどとんでもない。おふたりがこの地球上に存在すると言う事実だけでも、既に十分すぎるほど幸福なことなのですから」

「っ…メイド長…!」

「それに、ご心配には及びません」


スカートを捲り取り出すは短銃とナイフ。1日として手入れを欠かしたことのない彼らは、きらきらと輝いています。諜報員時代から愛用している、わたくしの武器でございます。


「あの程度の相手ならば、10分ほどで終わらせますわ」


在任中のわたくしの2つ名をお教えしましょう。たとえどのような死地に赴こうとも必ず生きて戻って来ることから、「不滅ふめつつるぎ」。

伝説の諜報員エージェントの復帰戦にしては、少々物足りない相手です。






「いかがですか!?」


宣言通りの10分後。時計の秒針が12を刻むその一瞬前に指令室に駆け込むと、メイド達が顔を上げました。


「メイド長!暴漢は…」

「全員病院送りに致しました!それよりもおふたりはどうなっておいでですか!」


そう聞いた瞬間、彼女達の喉がごくりと動きます。それだけの反応でも既に、尋常ならざる事態が巻き起こっていることは明白です。


「今まさに、事が動こうとしております…!」


『貴方…一体何を言って…』


スピーカーから聴こえてくるは、バスチアン様のお声。驚愕を孕んだその声は、重ねてルイ様のそれに掻き消されます。


『だから。お前とその、キスすれば出られるってやつ。試してみる価値はあるんじゃないかって」


(なんと…!)


まさかルイ様から提言されるとは。全員が固唾を呑んで見守ります。隣室もこの部屋も、まるで水を打ったように静まり返りました。


『ルイ…』


モニター内で見つめ合うおふたり。こちらの部屋では興奮と緊張のあまりか何人かが倒れました。


『ほ、ほら、バスチアン。早く』


ルイ様は目をぎゅうと閉じて、今か今かとお待ちです。


「…?」

「バスチアン様…?」


千載一遇のこの機会。あくまで部屋を脱出する為だと言う大義名分を与えられた上、長年思慕を寄せていた想い人からの進言です。

バスチアン様が、この機会を逃す理由がありません。けれどいつまで経とうともお坊っちゃまは一向にルイ様に顔を近づようとはしませんでした。ルイ様も疑問に思ったのか、片目を開けてお坊っちゃまを見つめます。


『は、早くやれって。どうせ慣れてるんだろ?そりゃ男となんて嫌だろうけど…バスチアン?』


想い人から名を呼ばれ、迷ったように揺れていた緑が、ぴたりと据え置かれました。


『俺は…こんな方法で、貴方とキスがしたいわけでは…』

『お前、何言って…』


こくりと動く喉。真剣な瞳。やがて消え入りそうな声で、バスチアン様は仰いました。


『貴方のことが、好きなんです…』


おふたりの部屋もこの部屋も、恐ろしい程の静寂に包まれます。


『えっ…』


ルイ様がお声を漏らしたことで、わたくしも我に返りました。


「とっ…突入班!ゴー!」


慌てて指示を出すと、証拠隠滅班を残した全員がこの部屋から飛び出しました。


「ルイ様!バスチアン様!」


扉を固く閉ざしていた錠を開け、部屋の内部に突入します。


「このようなところにいらっしゃいましたか!」

「外から箒が倒れ込み、開かなくなっていたようです!申し訳ありませんでした!」


用意された台詞を言う口も、震えるというものです。


(な、なんと言うことでしょう…)


助け出されても尚、今しがた起こったことを前に呆然とするルイ様。バスチアン様は想い人の方を見ないようにして場を後にされます。わたくしも殆ど放心状態で、坊っちゃまに付き従います。


ただ、バスチアン様とルイ様の距離を縮めたかったのです。あわよくば交際に発展してほしいとも思っておりました。素直になれないお坊っちゃまも、密室にふたりきりになれば変わると。ですが、何と言うことでしょう。よもやバスチアン様にそのような男気があるとは夢にも思ってはおりませんでした。


(わたくし、死んでお詫び申し上げなければ…!)


「バスチアン」


うち震えるわたくしの耳に、声が届きました。自身の名を呼ばれたことで、バスチアン様も振り返ります。


「…ルイ」


声を投げ掛けたのはルイ様。やわらかな黒髪を掻いて、彼は続けました。


「あのさ。その…食事ぐらいなら、別に、行ってやっても、いいけど…」


明後日の方向に逸らした視線、眉間の皺もそのままに、けれど頬は確かに、赤く色付いています。


「ルイ…!」


バスチアン様がお顔を輝かせ、場が感動に包まれます。


(な、なんと喜ばしいことでしょう…!バスチアン様…!)


鳴り響くのはファンファーレ。心の内では感涙に咽びながらも、わたくしの鍛え上げた表情筋が揺らぐことはありません。


(今死ねと命令されればわたくしは直ぐ様飛び降りますわ…!)


感動のあまり床に膝を突き身悶えする修行不足な使用人達のことも、今ばかりは許します。


「ルイ」


そんな溢れんばかりの幸福に包まれる廊下にふと、新しい足音が降り立ちました。年若い男性、どこか既視感を覚えますが、全くお見かけしたことのない方です。まっすぐおふたりの元に行こうとする彼を、やんわりと止めます。


「失礼ですが、どなたで…」

「あ、兄貴…」


けれどルイ様の一言に、その方の全てを知りました。ルイ様と同じ青色の瞳に、美しい黒髪。弟に愛情の籠った笑顔を向けて、彼は口を開きます。


「ああ、ルイ。とても心配したよ」


そう、話には聞いたことがございました。アンリオ財閥総帥嫡男、ウスターシュ・アンリオは大の、だと。


「嫌な予感がしたからね。僕の抱えてる部隊を送ったんだけど、どうやら失敗したみたいだ」


そう言って、ウスターシュ様はルイ様へと手を伸ばします。


「あっ、兄貴!止めろって!」

「ふふ。釣れないね」


怒るルイ様のことなど軽く受け流して、ぴたりと彼に寄り添いました。続けて、挑むような視線でバスチアン様をじっと見つめます。


「ラルカンジュ卿。ルイをありがとう」

「っ…!」


その瞬間バチリと、ふたりの間には確かに雷が轟いたのでございます。


(な、何と言うことでしょう…!)


わたくしと言えば、崩れ落ちそうになる体を壁に預け、何とか支えます。現場は既に阿鼻叫喚。自らの足で立てているメイドなどここには1人もおりません。


(バスチアン様の想いが実ると思った矢先…こ、このような展開になるだなんて…!)


ここへ来て新たなる障壁の登場。最推しのおふたりの行く末を邪魔する存在であるとは分かりながらも、わたくしの心を満たすのは未だ経験したことのないときめき。


視界は鮮やかに色付き、幸福が盛大に鐘を鳴らす。見るべき景色は今ここに。


(ああ、奥様…貴女様はいつだって正しくていらっしゃる…!)


この世界の何と、美しいことでしょう――!

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