二話 最高のマジック

 梨里はその日から、毎日放課後を手品の練習に明け暮れた。

 ほぼ一ヶ月が経ち、桜も新緑をつける五月。

 祝日に行う小さなマジックショーを、梨里は舞台には出ないが手伝うらしく、ぼくも付いていくことにした。

 午後の出演まで時間があるのでファミレスへ入る。

 賑やかな店内にテーブル席を見つけ、ぼくらはソファーに座った。隣には梨里、正面には、兄弟子カジー基次郎さん。

 そして、その隣に一番先輩の女流マジシャン、カジー英玲奈さんが座った。

 英玲奈さんが梨里に尋ねた。


「ねぇ、前聞いた話のつづきなんだけど。たしか、田中くんだっけ。絵を描いてるって子」


「え、梨里。教えたの?」とぼくは驚く。絵を描くのは、僕の唯一の趣味だ。梨里はにぃっと笑った。


「そうなんです。というか、よく覚えてましたね、その話」

「うん。好みの絵柄だったら、広告のポスターとか頼みたいなぁ、と思って」

「いいですねぇ。田中の絵の写真、見ます? けっこう繊細な絵を描くんです」


 梨里がスマホの画像フォルダをぱらぱらと見せていく。油絵のタッチで、夜景に、黒猫、ブラックスワン。


「たしかに綺麗ね。ダークな雰囲気も好み。本当に頼もうかな」

「ぜひぜひ」


 とぼくを差し置いて勧める梨里。基次郎さんも覗きこむ。


「えー、真っ黒けじゃん。しんきくせぇー」

「めっちゃ辛辣……」


 ナチュラルにディすられて僕はへこむ。ここ一ヶ月で知ったが、基次郎さんは口が悪い。梨里は笑う。


「田中は、黒の絵具がすぐ無くなるって嘆いてますよ」


 そんなの話をしているうちに、「お待たせしました」と注文したハンバーグ定食が並ぶ。三人とも行儀よく、両手を合わせた。


「あ。そうだ、基次郎。梨里さ、最近めきめき上達してるよね。大きな舞台のときは助手にでもしたら?」


 英玲奈さんが思い出したように話を振った。梨里は、目を輝かせる。


「え、英玲奈先輩、本気で言ってます?」


 基次郎はハンバーグを口に運びながら、苦い顔をした。英玲奈さんは肘でつっつきながら言う。


「あんたの直近の後輩でしょ? いいじゃん」


 そうだ、そうだ、と梨里は加勢するが、基次郎さんはこう付け加えた。


「嫌ですよ。なんたって、おれにはもう助手が居るし」

「え。基次郎先輩、どんな舞台もいつも一人じゃないですか」

「ほら、Ms.ディレクションっていう助手がさ」


 それを聞いて英玲奈先輩は「なんだ、しょーもな」と、冷たい失笑を返す。


「え、なにそれ」


 梨里とぼくの頭上にだけ、はてなが浮かんだ。英玲奈先輩が注釈をつけてくれた。


「ただのマジシャンジョーク。ミスディレクション──お客の意識を誘導し、都合の悪いところを意識から外させること。マジックにとって基本中の基本ね」

「──いや、原点にして頂点だ。しょーもないなんて、とんでもない」


 基次郎さんはびしっと箸で梨里を指す。行儀がわるい。が、言葉には熱意がこもる。


「梨里。最高のマジックって、どんなものと思う」


 英玲奈さんは「あ、またその話?」と苦笑する。いつもの定番ネタのようだった。「うーん」とぼくは唸って考えていると、梨里は指をぴんと立てた。


「仕掛けが絶対に分からな──」

「──はずれだ」

「まだ、言い切ってない!」


 立腹する梨里の様子に、英玲奈さんはふふっと笑う。


「私たちはエンターテイナーだから、それだけじゃダメね」

「そう、それ。俺はこう思う。注目と驚きも必要なんだ。最高のマジックは、タネや仕掛けを考える暇もないほどお客に注目させて、なおかつ、まったく想像もつかない現象で驚かせること。そのための手段は問わない」


 注目と驚き。英玲奈さんは、うんうんと頷く。


「そのなかでも、ミスディレクションは欠かせない。その日の観客にチューニングした身振り、手振り、話振りで、相手の気持ちを完全に誘導ディレクションするんだ」

「そんなの手品に可能なんですか?」


 英玲奈さんは首を傾げた。


「さあ。だから、最高のマジック。それを目指して、みんな技術を磨いている」

「ミスディレクションを味方につけるのは、何よりも重要なんだ。不必要に隣に新人を立たせてみろ。注目が散って、効果的に誘導できなくなる。だからおれは嫌なんだ」

「いいじゃん、減るもんじゃないし」


 と梨里は不貞腐れるも、基次郎はハンバーグを口に放り込みながらこう返す。


「減るんだよ、自尊心が」

「あ。くそー、絶対上手くなってやる。打倒、基次郎だ。ギャフンと言わせてやる」

「やれるもんなら、やってみろ」


 基次郎はジンジャーエールを飲み干して、立ち上がりトイレへと向かった。その背中に梨里は舌をべーっと出す。


「この様子だと、先は長そうだな」


 ぼくは感嘆すると梨里は不満そうな視線をじとっと僕に送り、あからさまに話題を変えた。


「そういえば、英玲奈先輩はなんで手品師になったんですか?」


 わたし? と表情をして、ちらっと英玲奈さんはトイレの方を見た。


「基次郎には笑われちゃうから、いつもは言わないんだけどね。昔っからメルヘンチックなものに憧れがあって」

「メルヘンチック?」


 ぼくは呟く。


「魔法の鏡に、カボチャの馬車、お菓子の家。おとぎ話がこどもの頃からずっと好きなんだ」


 梨里は大袈裟に反応する。


「え! わたしも大っ好きです。『わたしも魔法使いになる』って子供の頃、よく唱えてました」

「あの頃、ばか正直に信じてたんだよねー、絵本のおとぎ話。でも、魔法使いにはなれないのはすぐ気づく。そのときはへこんだけれど、中学生の頃に手品師を見たときにピンときたの。これ、私のための仕事だよねって」


 梨里の経緯との奇妙な一致に、頬がほころんだ。英玲奈さんは続ける。


「魔法使いにはなれなかったけど、その憧れがあるから今があるんだ。それに、手品師は魔法使いを演じる役者ともいうでしょ? 少しでもファンタジーな雰囲気を現実に塗り込めたら、素敵じゃない?」


 梨里はぶんぶんと頭をたてに振っていた。

 英玲奈さんの夢は破れているけれど、その夢が夢であり続けているおかげで、英玲奈さんを輝かしているようだった。


「素敵です! わたしも、英玲奈先輩みたいになるんですよ」


 ニコニコとそう宣言する。

 だが、決意を新たにした矢先には、たいてい不穏なことが起こるものである。


「あれ、英玲奈先輩。電話来てないですか?」


 スマホがマナーモードで鳴っていた。英玲奈さんはスマホをぱっとみると、強張った顔つきで素っ気なく返事をする。


「あぁ、これは、いいの。気にしないで」


 そう言った本人が気にしていて違和感が募る。ぼくは見逃さなかった。非通知からの電話だ。梨里を見た。


「非通知だ」


 梨里はおそるおそる、英玲奈さんに質問した。


「あの、その電話もしかして、頻繁に来ます?」


 英玲奈さんが迷ったように瞳が揺れる。居心地の悪い沈黙が数秒続き、英玲奈さんは大きく息を吐いた。そして重々しく口を開く。


「あのさ、今日まで秘密にしてたんだけどね──」

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