神戸旧居留地物語

北風 嵐

第1話 〈神戸居留地物語〉


旧居留地の大丸百貨店周辺には高級ブティックがビルの1階に並び、お洒落で神戸らしい界隈として賑わっている。


 安政5年(1858)、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・フランス・オランダの5カ国と修好通商条約を締結し、各国は、開港場のひとつを畿内におくことを基本的要求のひとつとしていた。幕府は、兵庫港の開港を約束した。

 開港が決定すると居留地の造成が始まった。居留地というのは、貿易を行うために一定の境界をもうけて外国人の居住や営業を許可する地域で、日本政府が外国人に貸与するもので、居留地には自治権が認められていた。

 

 東は生田川(現在のフラワーロード)、西側は鯉川(今は暗渠にして鯉川筋となっている)そして南は海、北は旧西国街道と、三方を水で囲まれた地域を居留地としている。ここにも、日常できるだけ日本人と接触しないように外国人を隔離していこうという意図が伺われる。

 しかし、行政側の意図に反して庶民は、「異人見物」と称し、外国人が宿泊している宿などに見物に行ったりしている様子が当時の史料から伺える。もちろん明治政府はトラブルが起こってはいけないというのでこれを禁止するのだが、一般の庶民の興味心を抑えることは難しかったようである。


 ちなみに、生田川は居留地造成の当時、その堤防が低かったために少し雨が降るとたちまち川の水があふれ出て、居留地内に流れ込んでくるという状態で、外国人たちは困っていた。そこで生田川の付け替え工事が明治4年になされた。

 この工事を請け負ったのが、加納宗七という人物で、現在も加納町という名前で残っている。加納宗七は、紀州藩の御用商人の家に生まれて、紀州藩士・陸奥宗光とともに尊皇運動に随っていたが、その後神戸に来て材木商を営み、財を成したという。

 生田川に限らず、当時、神戸の川は殆どが天井川で、度々洪水を起こし、湊川、石屋川と付け替えを行っている。これによって旧生田川の河川敷は埋め立てられ、滝道と呼ばれるメイン道路となり、この道沿いに外人専用の運動公園(現、東遊園地)が設けられた。

 

 神戸には居留地のほかに、居留地の外側に雑居地とよばれる地域がある。雑居地は横浜などの他の開港地にはない神戸特有のものである。雑居地はもともと、居留地の造成が遅れ、イギリス・フランス・オランダの三国代表から苦情が出たため、政府が臨時の措置として設定したものであるが、居留地の完成後も外国側が既得権として雑居地の存続を望んだために維持されてきた。

 雑居地の範囲は、東は生田川、西は宇治川、北は山麓、南は海岸を限りとして居留地を囲むように設定され、外国人がその範囲で居住することを認め、日本人が外国人に対して土地あるいは家屋を貸してもよいこと、また外国人が家屋を買って普請することも自由とした。

 山手の山麓は、恰好な住宅地として外国人に注目され、明治20年代には山手に多くの異人館が建設された。北野町周辺にある『風見鶏の館』や『うろこの館』など、現在は神戸の観光名所となっている。


 居留地の北境界にそった雑居地には、清国人が集住するいわゆる南京町が形成され、これが現在につながる『南京町』である。清国人は条約国人ではないためほんらい居住権を持たないが、日本政府は入国を拒否しなかった。

 神戸の開港と同時に長崎在住の清国人十数人がただちに神戸に来て(栄町あたり)、主として海産物を清国に輸出して、神戸での経済活動を開始した。とくに明治30年以降、広東・福建省の人々が大坂から神戸に移住し、神戸での活動を活発化した。

 中国人たちは明治20年代以降、神戸の基盤産業の一つとなっていたマッチを、中国をはじめアジアの国々に輸出し、神戸経済の発展の基礎に貢献した。また、南京町は、食料品や日用品を売る露店が数多く並んでたいへんな賑わいを持った。戦後、一時寂れた時期があったが、地元の人たちの町起こしなどによって活気をとりもどし、北野の異人館同様に、神戸の大事な観光地の一つとなっている。


 洋の付くモノなら何でも神戸。洋服、洋食、洋菓子、洋家具etc『神戸はじめ物語』は多いのです。

洋服、紳士テーラー、元町商店街には老舗がならんでいたものです。『うね』と云う店で初めて仕立ての服を作りましたね。長く愛用しましたね。残念ながら体型が変わってしまって、タンスの中で記念品となっています。イギリス人カペルが居留地16番で洋服店を開いたのが始まりで、カペル氏の弟子だった柴田音吉が日本人最初の注文紳士服店を元町で開いたのが始まりと云われています。


洋家具は、船大工が外国船修理の際、西洋人の家具をまねて造ったことから 始まったらしいです。大丸前にオーダーメイド家具の『永田良助商店』が今もありますね。


洋食、洋食店ができ、肉や、洋野菜の食材が求められました。但馬牛が今や神戸ビーフになり、淡路の玉ねぎも神戸があって盛んになったものです。ウスターソースも神戸発、今の『阪神ソース』です。それを濃厚にしたのが『オリバーとんかつソース』です。とんかつにはこれをかけないと、食べた気がしませんでした。


フランスに行った時、暑いので「アイスコーヒー」を注文しましたが、変な顔されました。それで氷を入れたグラスを注文して、ホットを上から入れましたね。アイスコーヒーも日本、元町で創業の茶屋「放香堂」は、日本茶を商いながらコーヒー豆も輸入し、夏に氷コーヒーを売り出したのが始まりとか。「冷氷」だったのです。


何ですき焼?元町の西端に肉鍋専門店『関門月下亭』が開業し、名物神戸牛の牛鍋を出しました。明治6年には店頭で農具の鍬を鍋のかわりに使った肉料理を売り出したところから、本当やろか?


炭酸水といえば、ラムネ・サイダーだった。

居留地18番で創業した「シム商会」が製造販売をしまた。栓を抜くときの音から「ポン水」とも呼ばれ、愛称「18番」で売られていました。サイダー有馬の炭酸源泉で作られ、三ツ矢サイダーの始まりと云います。


アメリカのエジソンが発明したキネストスコープという機械を、 神戸の鉄砲火薬商、高橋信治が輸入し、花隈の神港倶楽部で上映されました。


明治34年からイギリス人貿易商アーサー・ヒスケス・グルームにより六甲山にゴルフ場を 造り始め、


毎日登山

在日外人が北野から今のハンター坂を登って、善助茶屋にサインブックを置き、 署名する習わしをつけた。それが広がり、今でも高取山や菊水山等で行われています。


洋菓子、目がくるくる回る「ユーハイム」、ドイツ人のカール・ユーハイムにより元町で。。

チョコレートの中にウイスキーが入った「ウイスキーぼんぼん」は、ロシア革命から逃れるため神戸に亡命してきた白系ロシア人、 ゴンチャロフが北野町で作りだしたのが始まり。


今や日本行事となった「バレンタイン」は「神戸モロゾフ製菓」が カタログに「ヴァレンタインの愛の贈り物は(中略)スヰートハート」と宣伝したのが始まり。


ゴルフはイギリス人貿易商グルームにより六甲山にゴルフ場を作ったのが始まり、サッカーだって東公園グランドで同志社と居留地チームの試合が始めてとか、もー言い出したら尽きないのです。こと左様に居留地が神戸を作ったと云っても過言ではないのです。

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神戸旧居留地物語 北風 嵐 @masaru2355

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