第1話





「いってきます」




パタンと閉まるドアの音を背中に受けて、跳ねるように道に出た。


5月の中旬。少し前までは吹けば寒さを感じていた風が、今では心地よく肌を撫でていく。


綺麗に舗装された道をしばらく進む。真っ直ぐ行けば学校や商店街に続いている。道を歩く人や車もそちらに向かっていくか、そちらから戻ってくるかどちらかだ。でも今の私には用はないから、途中の分かれ道を右側に逸れた。



今日は授業で長距離走があったから、足がいつもよりだるくて重たい。



隙間なく並んでいた家がだんだん少なくなって、畑がちらほらと現れ始める。

すれ違ったおばあさんと挨拶を交わして、すぐわきの両脇を畑に挟まれた細い坂道を下った。きらきらと太陽の光を反射させる川に目を細めながら、短い橋を渡った向こうに広がる深い緑の森に目をむけた。


跳ねるように進む足が小石を蹴飛ばして、コロコロと前に転がっていく。

地面がアスファルトから土と落ち葉に変わる。





森に一歩足を踏み入れれば、しっとりとした涼しい空気に包まれた。まるで、別の世界に来てしまったみたいだ。


日差しを遮る葉っぱの屋根の下を、落ち葉と枝の積み重なった柔らかな斜面を登っていく。パキパキという音が耳に心地よく響く。アスファルトの綺麗な歩きやすい道よりも、少し地面に沈むようなこの感覚が好きだった。



重心を前に掛けながらしばらく登れば、目的の場所が見えてくる。小さな山と言ってもいいくらいの森の頂上の少し手前、木々が少なくなって青い空が覗いた。





あともう少し。もう少しその先に進めば、おじいちゃんとの約束の場所。そしてもうすぐ出会って10年になる幼馴染と会う、いつもの場所がある。






ホームルームが長引いたせいで少し遅くなっちゃった。




急斜面を一気に上がったきたせいで、息が上がってしまっていた。足を止め、胸に手を当ててゆっくり深呼吸する。


ゆっくり落ち着けながら、この森の中でもひときわ大きなカエデの木を見上げた。日に日に夏の気配の増す、五月の日差しを浴びる新緑の葉が銀色に光って、きらきらしている。

その木漏れ日の下は、他の木々の下と同じようになにもない。地面に根を生やし、天に向かって真っ直ぐに伸びる幹があるだけ。






もう来てるかな。




額にジワリと浮かんだ汗を拭い、最後に1つふうと息を付いてから、そっとカエデの木へ近づいた。


全方向に大きく伸ばした枝の下に来たとき、突然人影が現れた。






木の幹に背中を預け、本を読む少年。

口元に自然と笑みが浮かんだ。




私は、私のことなんて全く気付かず本に夢中の少年にそろりと近づいた。

そして、彼の背後で大きく息を吸って、彼の名前を呼ぶ。






「源太!」






ビクッと肩が跳ねて、勢いよく見上げた顔。真ん丸の瞳が私を映す。

髷に袴姿、そして草鞋という、時代劇でしか見ないような格好。私にはとっくに見慣れていて、驚きも感動もない。



一瞬見せた無防備な顔。しかしすぐに眉間にしわを寄せる。





「世里……」


「久しぶり!」


「普通に出てこられないのか、それに俺は“義孝”になったんだと言っただろ」




何度言えばわかる。そう言って頬を赤らめる彼とは反対に私は軽く笑って一蹴する。



「だって、ずっと源太って呼んでたんだよ。いきなり名前が変わったって言われても呼びにくいじゃん」


「そう言う問題じゃない。おれは元服したのだと、何度言ったら」


「だからさあ……そもそもその元服っていうのがよくわからないんだって何度も言ってるじゃん」




そう言って口を尖らせると、はあとため息が聞こえてきた。




「だから、飽きるほど説明しただろうが……」


「まあ、そうなんだけど。しかたないじゃん、そう言う習慣がないんだから」


「開き直るな」







おじいちゃんから教えてもらった秘密、それは、このカエデの木が過去と繋がっているということだった。そして源太の生きるのは、今から150年以上前。江戸時代の終わり頃なのだと。

その話をおじいちゃんから最初に聞いた6歳の私は、全く理解できずただちょっと、いやかなり変わった友だちぐらいにしか思っていなかった。それは、今も変わりないんだけど。





あの頃から結構長い時間が流れて、源太と出会って10年が経って、源太に出会ってなかった時間より、出会って話すようになってからの時間の方がいつの間にか長くなった。


私もいろいろ勉強もしてきたし、常識みたいなものも知ってきた。江戸時代の人と会っているなんて、そんな不思議な話ありえないって、さすがに16歳にもなればわかってる。でも、長い時間一緒にいて、いろいろ話して、気が付けば疑うことさえできなくなっていた。


価値観も、生活も、何もかも違う。


源太の話すことは、日本史の授業をもっと深くしたような感じで、なにを言ってるのかさっぱりわからないことも多い。いくら話しても理解し合えないこともたくさんある。



その一つが元服だった。源太はその大事さについて何度も話してくれるけど、私にはまったく理解できなくて、とりあえず成人式をもっと重たい感じにしたものなのだろうぐらいの認識しかない。そもそも、なんでわざわざ名前を変えなきゃいけないのかすら理解できない。




「もう……わかったわかった」



くどくどと前にも聞いた話を話しはじめる源太を遮った。




小さい頃はこんなやつじゃなかったのに。あの頃の天使みたいだった源太はどこに消えてしまったんだ。



もともと真面目な性格ではあったけれど、それでももっとふわっと笑って穏やかに話す男の子だったのに。最近は何かに雁字搦めにされているというか、いつもピリピリしているように見える。



それより、と私は話を変えた。




「見て、これ」




リュックから数枚の写真を出して、彼の前に広げた。彼は不機嫌な顔のまま何も言わずにそれに目をむける。

始めて写真を見せたとき、目を輝かせながらどうしたらこんなものが作れるのかと興味津々で聞いてきた彼も、今では慣れたものでただそこに写ったものを見つめている。

あの時は、源太がどうしても知りたいっていうから写真の原理をずっと調べたせいで、私まで写真に詳しくなった。

そんなこともあったなあ、と懐かしく思いながら、ついこの間の連休中に行った旅行の話をする。




「この間、どっか行くとか言ってたやつか」


「そう。もうすっごい混んでて見るのも大変でさあ」




旅行もそうだけど、普段ちょっと出かけたときも、よく写真を撮るようにしている。そうして撮った写真をこうして持って来ては源太に見せてどんな場所だったか話をする。

簡単には遠くに旅行に行ったりできないと言う源太には、自分の知らない光景は興味深いのだろう。

毎回、じっとそれを覗きこんで私の話に耳を傾けてくれるのが嬉しくて、私も夢中で話した



観光名所や、綺麗な風景、建物や料理の写真。旅行中のほとんどをカメラを構えていたんじゃないかってくらい、記憶にあるほとんどの場面が映っている。



私は、ほとんどのことを話しつくして、ふうと一息ついた。源太は黙ったまま写真をじっと見つめている。



「世里は、どこにでも行けていいな」



しばらく沈黙が続いてから、まるでこぼれ落ちたみたいに彼が言ったのは、何度も聞いた言葉。視線は写真の方に落としたままだ。



「そのうち、源太もいろんなところに行けるようになるよ」



源太の生きている時代が江戸の終わりあたりなら、もうすぐ明治になるはずで、関所とかなくなると授業で習った記憶があるから、そうすれば源太も好きな場所に行けるようになるはずだ。



「そんなことあるはずがない」


「あるんだなあ、それが」



詳しくは話してあげないけど。





「もし、源太がどっかに旅行したらどんなものがあったか教えてよね」






顔を覗きこめば、一瞬目が合ってすぐに逸らされてしまった。



「もう、なんで目逸らすの?」


最近ずっとそうだ。


「うるさい」



そのまま顔まで向こう側にそむけてしまった。



「だいたい、そういう格好はやめろって言っているだろう」


「はあ?」



今、何の関係があるのよ。



そう思いながら、自分の服を確認する。

別におかしな恰好をしているわけじゃない。Tシャツに肌寒くなったときのために持ってきたパーカーを腰で巻いて、下はショートパンツ。動きやすさ重視で選んだ格好。森の中を歩くならこのくらいがちょうどいい。

私の周りではみんなよく来ている組み合わせ、だけど源太にとっては違う。



「そんなに肌を見せて、はしたないとは思わないのか」


「今さらなに言ってんの、腕と足ぐらいで。それとも、なにかいやらしいことでも考えたの?」



スケベと、もちろん冗談で両腕を胸を抱いて身体を引いた。源太の頬が赤く色づく。



「は、なにも考えておらん。おまえなんぞ、裸を見たところでなにも感じはせん」


「それ、セクハラだからね」


「せく……なんだ?」


「なんでもない」




眉を寄せる源太に、フフフと笑って身体の位置を元に戻す。

私がこんな格好をしていることぐらいもう見慣れているはずなのに、源太は毎年注意してくる。そりゃあ源太の生きている時代は和服だから、身体の線がほとんど出ないから仕方ないのかもしれない。だからといって、服を変えようとは思わないけど。




「とにかく、おまえも年頃なのだから、もう少し身なりには気を使え」




自棄になったように言い捨てると、源太は赤い顔をしたまま先ほどまで読んでいた本に視線を戻した。

写真を片付けながら、真剣な横顔を盗み見る。


またちょっと、大きくなったなあ。あんなにひょろひょろしていた源太はこの数年でずいぶん変わった。あいわらず細いけれど、頭の上から真っ直ぐに一本、線が通ったようにしっかりして見える。






変わったのは、見える部分だけではないけれど。





私はしばらくその横顔を眺めてから、緑の屋根に覆われた空を見上げた。何重にも重なる葉の隙間から、どきどき銀色の光が覗く。草木の青い匂いを肺一杯に吸いこむ。いつもの匂い。昔から変わらない、源太といるときの匂いだ。


視線を下にさげれば、私たちの住む町がある。昔は向こうの高台にお城があって、そこを中心に城下町として栄えたというこの町。

朝も夜も絶えずキラキラと輝く中心から離れると、畑が広がっている。時間の流れが一気に遅くなったようで面白い。



ちゅんちゅんとさえずりに誘われて顔を上げると、小さな鳥が二匹より添うように飛んできて、近くの木に止まった。





源太、見て。





言いそうになって、ごくりと飲みこんだ。ふうと一つ息を付いて、その中のよさそうな姿を見つめる。







何もかもが違う私たちがこうして隣り合って座っている。交わることのなかった、私たちの時間が重なった。何度もけんかして、笑いあった。なんでもない、私たちにとってはあたりまえの、だけどよく考えてみれば、この一瞬一瞬が奇跡みたいな時間。

この木に、この場所にどうしてこんな特別な力があるのか、私たちが出会ったことには何か意味があるのか、そんなこと私たちには分からないし、考えるだけ無駄だった。









ただ、この居心地の良い時間がずっと続くと、ずっと続いてほしいと思っていた。




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となりの君はいつも遠く 五十井 五月 @kamokamokamo

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