第5話

「この人は、18歳のときに『オヤドリはいつ生まれたのか』を書いて、芥川賞を受賞した作家よ。確か………」

「舵矢りゅうと言います」

 舵矢りゅう、ああ、知っている。現在日本ですこぶる有名な小説家だ。東大出の超エリートで、父親は有名な映画監督で、学生の頃に芥川賞をとって一躍有名になった。なんだと? 凡人を絵に描いたようなこの男が? 驚いた私の目に阿呆そうに笑う男の顔がうつった。私は咄嗟に、値打ちがぐんと上がったイチローに対して、悲しいかな、卑屈な笑いを返してしまっていた。

 だが妹はそんな私たちの様子にはまるで興味がない。

「ただね、社会で生きていこうとした時に、時おりこんな風に、名前が必要になるだけよ。どこか山奥で私たちだけで暮らしていけば、そのうちまったく必要がなくなってくるんでしょうけど」

 妹は堂々とした風格を保ったままで、子どもや猫にでもわかるように、ゆっくりと丁寧に話してくれた。イチローの件が衝撃過ぎてぼんやりしている私は、そんな妹のおかしな理屈を聞いているうちに、なんだかそれがとても正しいことのように思えてきた。私ももう、きっと普通ではなくなってしまったのだ。

「それなら、届けなんかも必要ないんじゃないか。山奥でその男………鈴木さんと子どもと三人で、一生幸せに生きていけばいいんだろう」

 なんだかすっかり洗脳されてしまったような私は、とても穏やかな気持ちになって、しごく当たり前のことを妹に提案してみた。私はきっと妹ならその考えを受け入れるに違いないと思った。というか、この考え方をなぜ妹が気づかなかったのか、ある意味、そちらの方が、気になったくらいだ。

「あら、だって、子どもが産まれるのよ」

 おや? なんだ、この違和感は。これまでの妹とはまるで雰囲気が違っているじゃないか。何というか、とても良識的な。そうか、そうだ。母親的なのだ。私は心底焦った。妹は母親になったのだ。

「いや、そのお前の理論からすれば、子どもも名無しで問題ないはずだよな。当然、産まれてくる子どもに名前をつけるつもりはないんだろう」

 私は必死で涙をこらえた。この感動に似た感情をどう表現するべきだろうか。

「ばかね、兄さん。子どもに名前は必要よ」

 ああ、なんということだ! なぜそんなくだらない選択をする! あれほど自分の名前に反発していたお前が。浅はかではあるが両親がつけてくれた大切な名前を、決して受けつけようとせず、そしてまた今頃になって失くしてしまうような、有り得ないことをやってのけてしまうお前が、なぜこの矛盾に気がつかないのだ。 母親になるというのは、そういうことなのか。

「じゃあ、名前をつけるつもりでいるのか」

「当り前よ」

 妹の主張は大いに矛盾している。いつだって自分ほど正しいものはなく、常に自身満々で、自分がすべてで、誰よりも自分のことを信頼していたはずの妹。しかし、その妹に新しい家族ができるのだ。これはある意味、奇跡だ。自分よりも信頼する人物が、妹の人生に登場したのである。阿呆そうに見えるこの男と出会ったことで。そして新しい命を宿したことで。

「それじゃ、なんて名前にするつもりなんだ」

 私は少し優しい気持ちになってたずねてみた。

「そうね、パスカルなんて頭が良さそうで良くないかしら」

 やはり妹は妹だ。誰にも変えることなどできないのである。


「パスカル」

 そう、妹は本気だ。

 私はまた近い将来、ノートからはみ出るくらいの名前の羅列を、見ることになるかも知れないなと頭の隅っこでぼんやりと考えていた。

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カトリーヌ ひらがなのちくわ @tururun

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