第4話

 それはそうと、私にはまだ気になることが残されていた。

「ところで、その男は誰なんだ。お前が連れてきたお伴のようなそいつだ。もしかしてそいつが父親だっていうんじゃないだろうな」

 妹の後ろには、影の薄い、頭も薄い奇妙な男が突っ立っている。私は半ば冗談のつもりだった。ゆらゆらと幽霊のようなまるで存在感のないこの男が、この妹の相手など出来るはずもないと直感したからだ。しかし妹はさらりと衝撃的なことを口にした。

「そうよ」

 威風堂々たる姿には、なにをも寄せつけることのないほどのオーラが滲み出していた。そしてその妹とはまるで正反対の、ああ、なんたることだ、この男のみすぼらしさは。いったいさっきから何をヘラヘラ笑っているんだ。中身の薄そうな、禿げ散らかした、こんな凡人に、妹の旦那がつとまるはずなどないだろう。

「挨拶くらいしたらどうなんだ」腹立ち紛れに言ってやった。妹の旦那になるなら、これくらいの逆境は乗り越えてもらわなければ困る。

「はあ、すみません。お邪魔してます」

「なんだ、それは。挨拶も知らんのか。妹と結婚するつもりじゃなんだろう。名前くらい名乗ったらどうなんだ」

「ああ、はあ、すみません。あの、鈴木一郎です」

 なんだ、このぼっさりとした男は。こんなんでよく今まで生きてこれたな。それになんだ、鈴木一郎って。凡人が凡人過ぎる名前じゃないか。いや、鈴木一郎…、ああ、

「イチロー!」

 私は思わず声をあげていた。凡人のイチローは気づきましたかと言わんばかりのニヤニヤ顔でこちらを見ている。なるほど。こいつの親も悲しいくらいに浅はかなのだ。しかしもっと浅はかなのは、当の本人だ。なんの取り得もない男が、この名前にすがって生きていることが嘆かわしいではないか。何をニヤニヤする必要があるのか。適当につけられた名前を恥ずかしいと感じる感性すらないのか。どうせこんなヤツだから、ガキの頃に「イチロー、イチロー」「背番号五十一番」などと呼ばれていい気になっていたに違いない。

「なんなの、イチローって」

「メジャーリーガーだった、イチローと同じ名前なんだよ。イチローくらい知ってるだろう、お前だって」

 今度は私の方が呆れる番だ。今までの仕返しの分を上乗せして大袈裟に言ってやった。しかし妹はそんなことは問題ではなかったのだ。

「鈴木一郎っていう名前だったの、あなた」

 なんだって? 子どもの父親だろう。今まで名前を知らなかったってのか。愕然としている私を妹は面倒くさそうに横目で見た。だけど、ここは兄として聞くべきことは、ちゃんと聞いておかなければならない。

「まさか、お前、そいつの名前も知らないのに、そいつの子どもをつくったってのか」

「まあ、そうね」

「まあ、そうね、って。お、お前はなんと淫らなやつなんだ」

 冷静なつもりだったが、抑えきれず私は怒りで全身が震えた。

「名前を知らなかっただけでしょ」

「それは同じことじゃないか」

 妹はまたやれやれといった風に、もう片方の眉を器用にあげた。

「名前を知らなくたって、なんの問題もないのよ」

 妹は、なんでこんなに自信満々なんだ。私にはまったく理解できない。呆然としている私に妹は、淡々とした口調で説明をはじめた。

「兄さん、名前なんてね、そんなに重要じゃないわ。私は彼の名前を知らなかったけれど、彼を知らないわけじゃないし、どんな人間かもちゃんとわかってる。きっと彼も私の名前を知らないけれど、とくに名前を必要とはしていないわ」

「それじゃあこの男は、鈴木一郎は何者なんだ。結婚するつもりなのか。彼氏でもないんだろう」

 私は矢継ぎ早に妹を責め立てた。こんなつまらない腑抜けにお前は耐えられるのか。いや、そうじゃない。かわいそうなのは鈴木一郎の方だ。こんなわけのわからない女に引っかかってしまって。どうするんだ、これからの人生。女にもてないからといって、誰でもいいってわけじゃないぞ。

 私は突然鈴木一郎が気の毒になってきた。ゆらゆらと揺れているだけの哀れな男。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る