第3話

 私はその頃のことを思い出して、妹に提案してみた。

「名前を失くしてしまったのなら、私もお前をなんて呼んでいいのかわからない。こうしてはどうだ。また例のカトリーヌを使ってみては」

 すると妹は細い顎をぐっと上げて、鋭い目を光らせた。

「あら、兄さん、それじゃあ今度は呼んでくれるのかしら。どうしたって私をカトリーヌとは呼んでくれなかったのに」

 ああ、そうだ。確かに、私は妹のことを絶対にカトリーヌとは呼んでやらなかった。そういう意味では私の頑固っぷりも、なかなかなものなのかも知れない。

「ああ、いいだろう。今度は呼んでやろうじゃないか、私ももうあの頃のように子どもじゃないしね」

 しかし妹は、自分の兄の言うことなど、まるで信じていないという様子で、つんとした表情を崩さない。

「いいえ、結構よ、兄さん。別に呼んでもらわなくたって、たいして不便なわけじゃありませんから」と随分と達観してやがる。

「なんだ、それなら、名前を失くした失くしたと、騒ぎ立てる必要などなかったんじゃないのか」

 妹はいつもこんな風だ。自分勝手でわがままで、また興味がなくなったものに対しては、諦めも異常に早い。

「そうなの、それなのよ。私はもうとっくに、名前には執着しなくなったんだけれども、子どもを産むには、届けが必要でしょう? 届けを出すには名前が必要、と、そういうことになってしまうのよ」

「そりゃあまあ、届け出するには名前はいるだろうがね」

 うん? て、なんだ? 子どもって? はあ? 冗談はやめてくれよ。私の知っている限り、妹は独身のはずだ。この規定外のあばずれは、何をするかわからない。凡庸たる私の想像など遥かに超越した行動を起こすだろう、という不安はあるにしても、結婚したならせめて両親には伝えるだろう。それくらいの常識くらいは 持ち合わせているはずだ。いや、そうであってほしい。

「あら、冗談なんかじゃないわ」

「おかしいじゃないか、お前はまだ結婚してなかったはずだよな、確か」

「ええ、まあ、そうでしょうね」

「そうでしょうねってことがあるか」妹は他人事のような顔をしている。「しかも、彼氏だっていなかったはずだろう」

「それはどうかしら。いないって言ってるだけで、本当はいるかも知れないじゃないの。この歳の女性が、いちいち異性の兄弟に、彼氏の話しなんてまともにはしないんじゃない」

 なんだ、ここへ来て妹のくせに常識を振りかざす気でいるのか。しかも非常識なのは、私の方だと言わんばかりの言いっぷりじゃないか。

「じゃあ、いたっていうのか。お前に彼氏が。いつも暇そうにしていたように見えたけどな」

「いいえ、いないわ」妹はきっぱりと言い放った。そうだ、いつも妹はこんな風に要領が得ない。会話をしていても、成立していないような不安定な気分になってくる。間違っているのは私のほうなのか。次第に私は疲弊し、途方もない迷路に迷い込んでしまったような心持ちになってくるのだった。

「論点がずれてしまったけど、とにもかくにも私の名前が必要なのよ」

「だからなんだよ」

 妹は鈍い兄に対して、やれやれといった様子で片方の細い眉を少し上げた。

「戸籍を調べてほしいんだけど」

「戸籍? 自分で調べればいいじゃないか」

「だから言ってるじゃないの。私は名前を失ってしまったから、役所に行ったって申請もできないんだって」

 妹はあきらかにイラついていた。ああ、なるほど、そういう意味か。自分では調べられないから、私に調べに行けと。それにしても、人にモノを頼むのに、その態度はなんだ。よくこれでいっぱしの社会人でいられるものだと、つくづく呆れる。こいつを雇った会社は本当に立派だ。ものすごいブラック企業だって、きっとこいつの傍若無人ぶりには、かなうはずはないだろうな。

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