第2話

 幼い頃、妹も自分の名前には、すこぶる不満足なようであった。私がつけてやったくだらない愛称よりもずっと。妹は、自分の名前をノートの真ん中に大きく書き出した。そしてその周りに、いくつもの変容させた名前のパターンを書き上げていった。

 彼女の頭の中に思いつく名前という名前のすべてが紙面に書き出されてゆく。例えば名前が「けいこ」だとしたら、「けいこ」「けいと」「けいとう」「けいし」「けむし」「けいじ」「けいみ」「けのこ」「へのこ」などなど。性別や物体や意味や常識など、妹にはまったく関係がなかった。そしてそれらの名前の羅列は、次第に大きなツリーのように膨らんでいった。そのツリーの変容パターンは、どんどんと世界を広げていき、とどまることがなく、ついにはノートという媒体に収まりきらずに、床にも障子にも壁にも侵蝕していったのである。真実の名前を貪欲に探しているかのようなその姿は、非常に不気味であった。

 そしてこの幼い少女の狂気は、私を縮みあがらせるには充分な迫力があった。次第に、部屋中を自分の名前の変容パターンで充満させながら、妹はエネルギッシュなオーラに包まれ、ある意味神々しく、もう誰にも手出しすることのできない領域にまで到達していった。妹は、我々凡人には到底理解できないほどの、追い立てられるような感覚をもって、名前というものに執着していたのである。


「今日から私はカトリーヌよ」赤いランドセルを脱ぎながら妹は、我々家族の前で、唐突に宣言をした。  

 カトリーヌ。日本のごく一般家庭において、どこからどう見たって日本人以外の何モノでもない扁平な顔をした小学生が、カトリーヌとは一体全体どうしたことだ。愛称をつけるにしても、もう少しセンスのいいものがあるというものだ。しかし妹は譲らない。両親があの手この手でなだめに入ったが、どうしたって聞こうとはしなかった。到底子どもとは思えないほどの頑固っぷりである。誰に似たものか両親は頭を抱えたが、仕方ない。両親はついには音を上げた。そしてその日から妹はカトリーヌと呼ばれるようになった。

 ところが不思議なもので、妹は、そう呼ばれるようになってから、徐々にそれらしい顔つきになっていった。つまり妹は、カトリーヌ然としている、とでも言うべきか。ただカトリーヌという名前の持ち主に心当たりがないために、我々にはカトリーヌ風人物をイメージすることができない。妹は、妹のその時のすべての能力をもって、カトリーヌを全力で想像し理解し、そしてその完璧なまでのカトリーヌをすっぽりと装ったのである。そのため、知識のないわれわれにとっては、これがカトリーヌというものかと受け入れるほかなかった。

 カトリーヌは毎日、テレビを観て、がははと笑い、スーパーのコロッケをガツガツと食った。兄と本気でプロレスごっこをして、兄を泣かすこともしばしばあった。以前の妹とちっとも変わらない気もするが、それでも間違いなくこの頃の妹は、カトリーヌに相違なかったのである。

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