カトリーヌ

ひらがなのちくわ

第1話

 久しぶりに妙な男をお伴にして妹が帰って来たと思ったら「名前を失くしてしまったの」という。妹は昔から自分の名前に対して、異常なほどの執着をもっていた。

「そんなことがあるものか」

 私は呆れて言ったが、妹は平然とした様子である。

「確かに失くしてしまったんだから仕方ないじゃないの」と開き直るしまつだ。

「何てことを言うんだ。お前には両親がつけてくれた立派な名前があるじゃないか。なんと親不孝なことだ」

 私は妹の超然とした態度に怒りを抑えきれずに、つい大声で𠮟ってやった。しかし妹はそんな私の嘆きなど、お見通しと言わんばかりに、落ち着いた雰囲気を崩さない。

「じゃあ兄さん、私を呼んでごらんなさいよ」

 ずいぶんと上から目線だ。つまらんことを言いやがると思ったが、そんな妹の鼻っぱしらを思い切り折ってやろうと、そのつまらん茶番にやむなく付き合ってやることにした。

「ふふん。そんなものは朝飯前だ、簡単だ、下らんことを言うな、ほら、ええと、ほら、なんだ………、ええと、あれ?」

 妹の目が、ほら、ごらんなさいよと言わんばかりに輝いた。不思議だ。確かに、思い出せない。そんなバカなことがあるだろうか。

「そうだ、免許証を見せてみろ。そこに書いてあるだろう」

 私のこの反則すれすれの提案に、妹は無言のまま免許証を差し出した。が、しかし、なぜか名前を読み取ることができない。確かにそこには名前と思しき文字が書かれている。なのにどうしても読み取ることができないのだ。なんだ、こんなことってあるのだろうか。

 それなら、愛称で呼べばいい。確か妹には妙な愛称があったはずだ。名前をもじって、ちょっと変わった愛称を。そうだ、私がつけてやったのだ。本人は嫌がっていたが、家族全員がそう呼び始めて誰もやめようとしないので、最近はもう諦めたようだが。その愛称から推察すればいい。そう、愛称は確か、ええと、あれ? 私がつけたのだから忘れようもないじゃないか。しかし、おや? 思い出せない。なぜだ。そう思えば思うほど、妹の名前からどんどん遠ざかっていくような感覚に陥っていった。

「大輔!」

 不安になった私は、自分の名前を呼んでみた。ああ、良かった。一体どのような原理で、名前を失うのかはわからないが、私の名前は無事なようだ。

 大輔………。私が生まれたころ、この名前の野球選手だかなんだかが、空前絶後の人気を誇っていたらしい。この頃生まれた男子は、浅はかな親たちによって、よくこの名前をつけられていた。確かに同級生には同じ名前の輩が多い。しかし大輔という名前がついているからといって、当然、野球選手になれるわけではないし、そもそも私の両親は野球には全く興味がない。つまり両親自体が野球選手に憧れたから、「大輔」という名前を息子に託したというわけでは、さらさらないのである。だとすると、ただ流行りだからつけたということになる。いや確実にそれしか理由は考えられない。浅はかな親たちの中にして浅はかな最上を誇る、うちの両親はキングオブキングスの浅はかさである。今まで私はこのことについて一度も両親に言及したことはないが、幼い頃からそうなんじゃなかろうかと、うっすらと疑ってはいた。そしてそれはきっと、妹の名前からもその片鱗を読み取ることができたのだろう。つまり、妹の名前も、大した名前ではないということだ。このキングオブキングスの両親につけられた名前だ、きっとこの頃流行った女優だかアイドルだかの名前をつけられたに相違ないのだ。意味などは後付けでいくらでも考えられる。 

 妹には立派な名前とは言ったが、実際のところはこんなものである。

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