第3話

 最後の告白が届かなかったことで、僕は佳奈のことを諦めようと決意した。忘れようとさえ思った。

 振られさえしない片想いを、終わらせよう。

 大学の四年間は、流れるように過ぎていった。初めのうちは佳奈からちょくちょくラインが来ていたりしたけど、僕が佳奈のことを忘れるため無視をし続けてると、愛想を尽かされたか自然と彼女からラインは来ることがなくなった。色々な人と関わりを持つようにした。在学中、一人の女の子とも付き合った。

 でも、どうしたって。どれだけ逃げようと思ったって。

 十年以上つるんだ幼馴染のことを忘れることはできず。

 それが理由でその女の子に振られたときは、自分自身を呪った。

 そのまま、それ以来誰とも付き合うことをしないまま都内のある会社に就職し、数年が経った。

 ある冬の日。くたびれたスーツを着て、僕は会社からの帰り道に本屋に寄った。新刊本のコーナーに立ち寄ると、一冊の文庫本を見つけた。それは、何本かある外国の短編小説を色々な翻訳家が訳したものだった。パラパラとめくっていると、あるページで僕は流れていく紙を止めた。

 一人の、見知った名前がそこには書かれていたから。


 訳:小山田佳奈


「……っ!」

 体に電気が走った。僕は追い立てられるようにスマホを手に取り、佳奈の名前を検索エンジンに放り込む。

 スマホの画面には、佳奈が翻訳を担当した作品が数本、並んでいた。

 結局は、忘れられなかったんだ。二十八にもなって、未だに初恋を引きずっている。

 画面をスクロールしていくと、あるネット記事に行きついた。それは、ある文学系の雑誌のインタビュー記事だった。


「岡本:そんな小山田さんは、師匠とも呼べる先生のいる大学を卒業されていますね。何か大学であったエピソードってあったりしますか?

 小山田:そうですね、大学在学中の話ではないのですけど、その大学の入試の日、私受験票を家に忘れてしまって。

 岡本:あらら。

 小山田:完全にパニックになった私は、当時仲が良かった幼馴染の友達に電話して届けてもらったんですね。

 岡本:今も結構小山田さんって時々天然なのかな? って思うときありますしね。昔からそういう感じだったのですか?

 小山田:はい……(苦笑)。その幼馴染の友達にも幾度となく助けてもらって……。かなり迷惑をかけてきたのだろうなあって……。特にこのときは感謝してもしきれませんでした。多分それがなかったら今私はこうして仕事してないと思うので。

 岡本:なるほど、結構深い話を聞けて意外でした(笑)

 小山田:岡本さんそれちょっとひどくないですか(苦笑)」


 僕はそこでスクロールを止め、レジに向かう。さっき見つけた文庫本を買うために。

 本の入ったレジ袋を片手に店を出て、僕はある場所に電話を掛けた。電話の相手は、すぐに出てくれた。

「はい、小山田です」

「あっ、もしもし僕です、水野ですっ」

「あら蒼汰君、久しぶりね。元気? どうかした?」

 良枝さんは、大学卒業を機に会う機会が減っていた。少しだけしわがかかった声が、時の流れを感じさせる。

「はい、おかげさまで。すみません急に。あのっ、佳奈の今の住所ってわかります?」

「あれ? あの子蒼汰君に教えてなかったの? えっとね……東京都中野区──」

 僕は良枝さんが教えてくれた住所を素早くメモする。

「ありがとうございますっ!」

「いいのいいの。それよりまたうちにおいで。実家帰ったついででもいいから」

「は、はいっ、それでは、失礼しますっ」

 電話を切り、僕は聞いた住所から最寄りの駅を調べる。

 ここから、四十分。

 決めるより先に体が動き出した。

 今住んでいる家とは反対方向に向かう電車に乗り込んだ。

 佳奈に、会いにいくため。


 中央線のある駅で下車し、改札を通る。地図アプリで入力した道順を頼りに街灯照らす細い道を走って進む。

 たどり着いたのは、外観が新しい綺麗なアパート。部屋番号まで教えてもらっていた僕は佳奈のいる部屋のインターホンを押す。

「──あ、お母さん今ちょっと人が来たみたいだから切るね。はーい」

 十年越しに聞く、あのときと大して変わらない少し緩い声が、耳に入った。

 ドアが開き、佳奈と目が合う。

「……そ、蒼汰……? どうして、ここに……?」

 いちご牛乳を毎日飲んでも、成長期が終わっていたようで、久しぶりに会ってもあまり佳奈は変わっていなかった。

「……良枝さんに、住所聞いて」

「それ、蒼汰のこと、だったの……?」

「……本、買った。翻訳の仕事……始められたんだね」

 切れる息の合間を縫うように、僕は佳奈に話しかける。

「……う、うん。……やっと、ね」

「……あのさ。勘違いしてるみたいだから言うけど。……僕は、一度も、迷惑だなんて思ったことはない」

 瞬間、佳奈の目は見開いた。

「そ、それも読んだの……?」

「僕は、一度だって。教科書にいちご牛乳零されたって、カップ焼きそばに先にソースを入れてからお湯を注いだって、料理するときに塩と砂糖間違えたときだって、忘れ物のフォロー入れたときだって、迷惑だって思ったことはない」

 いきなり何を言っているのだろうか。僕は。急に夜に人の家押しかけて、こんなこと言って。どうかしたのだろうか。

 でも、あの記事を読んだ瞬間、どうしても言いたくなった。

 あの時間を、「迷惑」っていう言葉で切り取られたくないって思ったから。違う。そんな意味じゃない。そんな、ネガティブな時間にして欲しくない。

「受験票届けに行ったこともっ。一瞬だって迷惑だとは思わなかった。迷惑だなんて、これっぽっちも思ってないっ」

「で、でも……私……蒼汰のこと……蒼汰の気持ち、気づかずに……」

 ようやく、届いたんだ。

 十年遅いよ。遅いんだよ、今更……。

「大学の同級生に言われて……気づいて……そうなると、……蒼汰に連絡取るのが、なんか自分勝手な気がしてきて」

 だから、連絡が途絶えたのか。

「最初は、どうして蒼汰は返事くれないんだろう、既読もつけてくれないんだろうって思ったよ? ひどいなあって……。……違うよね。ひどいのは私の方だよね。……蒼汰の気持ち、無視し続けたのは、私……だから、もう関わるのはよそうって思った……のに」

 突然僕がやって来て混乱してる、と。事実、佳奈は両腕を力なくぶらさげて、掠れた声を出して俯いている。

「私のドジ、今でも直ってないんだ……大学でも、毎日のように私何かをドジっていて……そのたびに、蒼汰がいたらなあって……思っちゃって……駄目だって、もう蒼汰の優しさには甘えられないって、思ってるのに」

「それも勘違いしてるみたいだから。言わせてもらう。僕、佳奈が思ってるほど優しくないから」

「……え?」

「好きでもない女にあそこまでできるわけないだろっ。佳奈はあれか? 僕を神か仏にでも思ってるの?」

 ……でなければ、受験に失敗して引きこもりなんてしないし、こうして家に押しかけたりなんてしない。

「……僕も、同じだよ。……忘れられない。忘れられるはずなんてなかったんだ。長すぎるんだよ、佳奈と過ごした時間が。だから……他の女の子と付き合っても、どうしても佳奈と過ごした時間が割り込んで、無理なんだ……。結局、十年以上終わらない初恋を今も引きずっているわけで」

「……今、も……?」

 あっ。この言い方は告白じみていた。失敗……した? え……?

 ……伝わって、いる……?

 さっきまで俯いていた彼女の丸い瞳がこちらを向いたかと思えば、みるみるうちに頬が桃色に染まっていく。

 ……高校生かよ。初心にもほどがあるって。

 いや。結局のところ。

 僕と佳奈の時間はあの水戸駅の別れの瞬間で止まったままだったのかもしれない。

「……だ、だから。……僕は、今も佳奈が、好きだって。……そう言ってるんだよ」

 なんだよこれ、ツンデレかよ。いくら暴発したからって、恥ずかしいからって、この言い草はないって。

「……いいの? 私で」

「……何が?」

「……さっきも言ったけど、しょっちゅうドジするよ?」

「そんなの知ってる」

「今も料理すると味付け失敗するし、財布家に忘れたりするよ?」

「そのときは全部食べるし、そうなったら僕が佳奈の分払う」

「使う資料とか失くすし、家の掃除すると何か壊しちゃうよ?」

「一緒に探すし、じゃあ壊れるようなもの佳奈が掃除するとき置かなければいい」

「……それに、私、面倒臭いよ?」

「誰に聞いてるの?」

「……本当に、いいの? 私なんかで」

「佳奈が、いい」

 その瞬間、また、二人の間で時が止まったような気がした。

「っ……佳奈?」

 何故か? それは。

 僕の胸元に、部屋着の佳奈が飛び込んで来たから。

「……ごめんね、今まで気づかなくて……ほんと……ごめんね……」

 三十センチはあるだろう身長差、ぶら下げた手で僕は佳奈の頭を撫でる。

「いいよ、別に。もう、過ぎたことだし」

「……ありがと……蒼汰……。蒼汰のそういうところに、きっと私、いつの間にか好きになってたんだね……」

 佳奈の「好き」という発言に、胸が跳ねる。そりゃ、好きな人の口からそれを聞いて何とも思わない人はいない……よね。


 片想いを始めて十三年。拗らせて十年。

 埋められなかった数十センチの距離は、ようやく。

 二十も後半になった年になって、ようやく。

 詰めることができたんだ。


 少し肌寒い夜も、この日ばかりは、普段より暖かく感じた。

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叶えることができなかったハッピーエンドを、君と。 白石 幸知 @shiroishi_tomo

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