二十歳(原作:菊池寛『形』)


 大和郡山やまとこおりやま城下に住まう二十歳の大学生・今井新也いまいしんやは、地元では有名な好色男プレイボーイである。令和元年の頃、奈良の帝和山大学内でこの『テニサーの今井』を知らぬ者は、おそらく一人もいなかっただろう。


 ここでいうテニサーとは所謂「テニスサークル」の略称である。だが、彼はテニスの腕前によってその巧名を馳せていたのかというと、断じてそういう訳ではない。


 彼の所属するサークル「飛鳥ストロベリーテニス」は、いやしくもテニスという言葉を名に冠しながらその実、浮ついた学生どもが日々飲み会や色恋沙汰に専ら明け暮れるだけの俗物的集団に他ならなかった。

 それゆえ新也は入部してよりこの方、練習や試合はおろか、ラケットを握ったのはこれ迄にただ一度、新歓イベントの小道具としてのみという有様であった。


 では、この軟派揃いなテニサー部員の中にあって、ルックスも人並みな今井新也が何故その名を立てていたのかというと、それはひとえに彼が弱冠二十歳という大学生の身でありながら、かの有名高級外車「フェラーリ」を所有していた為である。


 彼の駆る「フェラーリ・458スパイダー」は大学構内において、水ぎわ立ったはなやかさを示していた。炎のような猩々緋しょうじょうひの車体を煌めかせて、漆黒のサングラスをかけた彼の姿は常に、全学生たちの注目の的となっている。


「ああ猩々緋よフェラーリよ」


 と女学生たちはたちまち嬌声をあげて、新也の駆る高級車へと駆け寄った。


 4.5リットルV型8気筒エンジンの重低音が響き止み、左ハンドルのドアが開いた時、まるで薔薇の中に佇むかの如き新也の姿は、うら若き乙女たちにとってどれほど頼もしいものであったかわからなかった。

 それに車社会の奈良といえど、若干二十歳で自分の車を所有している者はもとより少数である。一般的な奈良在住の男子大学生が、実家の軽ワゴン車に不細工な初心者マークを張り付けて西名阪自動車道をおそるおそる走っているとき、追い越し車線を颯爽と走り抜けてゆく猩々緋のフェラーリは、如何に羨望の対象であったかは想像に難くない。


 かくして新也はこの緋色のフェラーリの威光で数多の彼女をとっ替えひっ替え、その浮き名を馳せていた。


 そんな或る日、新也が所属するテニサー部室においての事である。


「新也さん、おり入って、一生のお願いがあります!」


 と、茶髪頭の2年生男子部員は唐突に、新也の前に手を突いた。


「おう、改まってどうした。俺とお前の仲だ、今更そんな堅苦しい辞儀はいらんぞ。一生の頼みとやらを、遠慮なく言ってみな」


 新也はそう返すと、育ぐくむような慈顔をもって相手を見た。


 その男は松永秀斗まつながしゅうとという、新也の高校時代からの後輩である。そして彼は高校の軽音楽部に所属していた頃から、新也がボーカルを務めるバンドのベース役としても活躍しており、わが弟のように気心の知れた間柄であった。


「恥ずかしながら、明日は学外の合コンで知り合った、僕の意中の女子との初デートでして、ちょっと華々しい恰好を付けてみたいんです。そこで唐突なんですが、新也さんのフェラーリを、俺に貸してはもらえないでしょうか。あの高級外車に乗って、彼女の眼をアッと驚かしてみたいっす」


「ハハハハお容易い御用だ」


 新也は高らかに笑った。新也は、松永の年下らしい無邪気な功名心をこころよく受け入れることができた。この松永はサークルのイベント準備等においても、いつも自ら率先して自動車に乗り、皆の送迎や物品の買い出しなどを行ってくれている。それゆえ新也は彼の運転技術についても、何ら心配はしていなかった。


「が、ひとつ言っておこう。あのフェラーリはいわば俺、今井新也の形だ。ゆえにお前があの車を駆るうえは、俺のようなフェラーリに相応しい男にならねばいかんぞ。されば今回のデートに限らず、いつでもあれを貸してやろう」


 言いながら、新也はまた上機嫌に笑った。


  *


 そして、そのあくる日の午前、新也は近鉄奈良の行基像前にてフェラーリを路肩に停車し、松永の到着を待った。


 ややあって、駅の地下階段から松永が現れた。

 普段より4割増しでワックスを塗りたくり、逆立てた茶髪を朝日に輝かしながら奮い立つ松永の恰好は、さながら初デートという名の大戦おおいくさに赴く武者のようである。


「おお、中々の気合の入りようだな。よし、今日は存分に彼女をエスコートしてやるといいさ」


「あざっす!先輩!この恩は忘れません!」


 その松永の感謝へ快活な笑声で応えたのち、新也は、国産車と勝手の異なるフェラーリのエンジン始動方法、ハードトップ(屋根)の開き方、パドルシフトの扱いなどについて入念な説明を始めた。

 運転席でハンドルを握っていた松永がこのとき、どれほど高揚していたかはもはや言うまでもない。彼は新也の説明を真剣に聞きながらも、初めてサンタからプレゼントを貰った子供のように、無垢な目を終始輝かせていたのである。


 全ての取説を終えた新也が、黒馬のエンブレムの刻印されたスマートキーを放ると、松永は両手でそれを受け止め、改めて新也へ深く礼の言葉を述べた。


 その後、「じゃあな」と言い残し、松永へ颯爽と背を向けた新也は、近鉄奈良駅の地下階段を降り、そのまま電車に乗って家へ帰るかと思われた。しかし、彼はどういうわけかすぐに地下道を回ってまた再び元の広場へ戻ると、行基像裏のベンチから、松永らの待ち合わせの様子を、こっそりと覗き始めたのである。

 無論、これは新也の興味本位によるもので、加えて言うとその興味の対象とは相手の女性の顔などではなく、フェラーリを見た彼女の反応のほうにあった。


 そして彼が張り込み始めてから10分ほどが経ち、時計の針が11時を指すほんの少し前、近鉄奈良の駅舎から、ブラウンニットに白のフレアスカートを履いた若い女性が現れる。はじめ彼女は片手でスマホを触りながら周囲を見回していたが、屋根を開けた猩々緋のフェラーリから手を振る松永の姿を見るや否や、途端にそちらへ駆け寄り、透るような嬌声を上げた。その嬉しさと興奮の入り混じった表情を見て、覗き見をしていた新也もまた大いに満足し、思わず顔がほころぶ。


 女性が助手席に乗り込むと、フェラーリは間もなくエンジンの音を響かせた。だが発進の直前、サングラス姿の松永が、少し気恥ずかしそうに新也の方を振り向いて、軽く手を挙げるのが見えた。「気づかれていたか」と新也が苦笑しながら、それに応えるようにして手を振り返すと、フェラーリは短くクラクションを鳴らし、国道369号線を西の大阪方面へ向けて颯爽と走り抜けていった。


 新也は彼らの後ろ姿を見送りながら、何とも言えぬあたたかい充足感に包まれ、ようやく行基像前広場をあとにしたのである。

 だが、近鉄郡山駅へ向かう電車の中で彼は不意にひとつ、心に浮かぶ事があった。


「……確かに俺は、親が金持ちで、これまでの人生に何一つの不自由はなく、昔からあらゆる女にもモテた。女たちはフェラーリの助手席に乗せてやり、高級なブランド品を買ってやり、高いディナーを奢ってやれば、皆例外なく俺の事を好きだと言ってくれた。だが、今日の光景を傍から見てふと思った。フェラーリの美しさの前には、それを運転する者がたとえ誰であっても、心を奪われる。では、今まで俺と付き合っていた女たちは、本当に俺自身の本質を好いていてくれたのだろうか?実のところは俺自身の本質ではなく、フェラーリ、金、プレゼント、そういった俺の『形』にのみ、愛情を持っていたのではないのだろうか?」


 それは、新也が二十歳という年齢に至って、生涯初めて抱いた不安であった。いまさら何故、彼がこのような悩みを持ったのかというと、それにもまた理由がある。


 当時、新也にもひとりの交際相手がいた。名を、筒井亜実つついあみという。彼女は新也と同じ大学に通う二年生で、その見目麗しさから、大学内でもかなり声望の高い女性であった。

 ともに学内の有名人であった二人がサークル交流会と称する飲み会で知り合い、付き合い始めたのは、つい三か月前のことである。

 最初は他の男たちと同じく、亜実の美しい容姿に魅力を感じていた新也だったが、付き合ううち、次第に彼女の気立ての良さと、その太陽のような明るさに心を惹かれ始める。


 かくして彼は生まれてはじめて、女性の外形ではなく、内面に恋をした。


 これまでに新也が交際した女性は数多くいたが、未だかつてこの亜実ほど真に思いを寄せた者は誰一人としていない。それゆえ近頃では、あわよくば彼女と、将来を誓い合う仲になりたいとさえ思うようになったのである。


 だから、彼は心配であった。

 彼女も自分と同じように、己の内面を愛してくれているのかという事を。


 それゆえに翌日、新也はフェラーリを返しに来た松永へ、その不安をありのまま打ち明け、恥も憚らずに相談してみた。


 すると松永はしばらく思案したのち、こう述べる。


「それなら、良い方法があるっす。彼女の愛が本物であるかどうかを確かめるには、先輩自身が一度、その形とやらをバッサリ脱ぎ捨ててみればいいんですよ」


 新也は最初、その比喩的な表現がうまく呑み込めなかった。ゆえに彼は、松永へすぐさま問い返す。


「形を脱ぎ捨てる、というのは具体的にどういうことだ?」


 松永は、軽快な笑みを浮かべながら答えた。


「簡単なことですよ。ひと芝居を打って、先輩が何らかの理由でお金持ちじゃなくなった振りをすりゃあいいんです。それから庶民的なデートに連れて行って、それでもなお先輩の事を好きだと想ってくれるのであれば、それはまさに、真実の愛といえるでしょう!」


「なるほど、そうか」


 新也はその後輩の言葉に、大いに合点した。かくして彼は自らの不安を払拭するために、計画を実行へと移す決意をしたのである。

 ちょうど彼には二日後、亜実とのデートの約束があった。それゆえ、今度は新也が松永に対し、実家の車を貸してもらえないかと頼み込んだところ、松永は快諾した。


 だが、その女心を試すような行為が、一体相手にとって何を意味するのか。

 そのことを理解するには、新也の二十歳という年齢は、未だ、若すぎたのである。


  *

 

 翌々日、午前10時前。新也の姿は、亜実の自宅の最寄りである近鉄新大宮の駅前にあった。

 だがその日に限って、いつも彼が乗り回している猩々緋のフェラーリは、ロータリー内のどこにも見受けられない。


 そして予定の5分前きっかりで待ち合わせ場所に現れた亜実は、新也の車を見て驚愕した。

 彼が乗っていたのは、型落ちの黒い軽自動車。それも、かなり角々しい形状の、いわゆる箱バンと呼ばれるタイプの車種である。心なしか、彼が着ている服も、いつもの高級ブランドとは異なる、安っぽい物のように感じられた。

 亜実はすぐさま、いつもとは真逆の右ハンドル座席から手を振る新也のもとへと駆け寄った。


「どしたの?ひょっとしてフェラーリ、事故ってしもたん?」


 亜実はあくまで冗談めかして問いかけたが、流石にその声色には驚きが隠しきれていなかった。


「うん……ちょっと色々あってね。まあ、理由は道中で話すよ。まあ乗って」


 そう言って、新也は助手席のドアを開き、亜実を車内へと手招く。そしてこの時、彼の心臓は既に高鳴っていた。なぜなら彼にとって、まずこの不格好な軽自動車へ彼女が乗ってくれるかどうかさえ、定かではないと危惧していためである。


 だが、新也の懸念は杞憂であった。


 彼女は「お邪魔しまーす」とひとこと声をかけたのち、助手席に座ると、重いドアを勢いよく閉め、シートベルトをさらっと装着した。更には、「暑いから窓、開けて良い?」と問い、新也が「あ、ああ」と少々面食らいながら答えると、彼女は助手席側の窓を開き始めた。といっても今時の一般的な乗用車と異なり、旧式の箱バンは、窓の開閉すら電動ではない。だが彼女はそれを意ともせぬように、脇にあった手動の開閉ハンドルを勢いよくグルグルと回し、窓を開け始めたのである。


 この様子にはむしろ、企みを持っていた新也の方が驚かされた。安っぽい芳香剤が置かれた狭い車内に、彼女の上品な淡色ブルーのワンピース姿は、あまりにも不釣り合いに感じられた。だが、亜実は嫌そうな顔ひとつせず、そこに佇んでいた。

 彼女も流石に新也の家には遠く及ばないものの、それなりに裕福な一般家庭の出である。それゆえ、多少の難色を示される事は想定の範囲内であった。だから、未だ不満のひとつも口にしない亜実の反応は、新也にとってそれはまさに望んでいたものありながら、大いに意外でもあった。


 車が動き出したのち、再び先に口を開いたのは亜実のほうだった。


「それで、色々あったって、何があったん?」


 その問いかけに、新也は一瞬の良心の呵責かしゃくさいなまれ、躊躇ちゅうちょした。つまり、あらかじめ用意していた嘘のストーリーを答えるべきか、それとも、まさに今から始めようとしているこの茶番を今すぐにやめて、全てを正直に話すべきかを、である。

 だが既に、車は当初の予定であった大阪ホテルの高級レストランではなく、嘘の道へと向けて走り始めてしまっていた。それゆえに彼はもう、後戻りができない。


「実は、ちょっと暗い話になるんだけど」


 新也は低声でそう切り出すと、陰鬱な面持ちで偽りの事情を話し始めた。


「親父が事業の経営でちょっと、トラブっちゃってさ。かなり大きな負債を抱えることになっちゃって。それで、家の財産とかも諸々、その補填に使うことになったんだ。だから残念だけど、あのフェラーリはもう手元にない。それに、小遣いも今まで通りにはいかないから、俺、来週からアルバイトを初めようと思う。そんなわけで、本当に申し訳ないんだけど今日の大阪ホテルのフレンチの予約、キャンセルになっちゃった。本当に申し訳ないんだけど、かわりに、別のところに連れて行ってあげるから、それでも構わない?」


 フェラーリの猩々緋が如き、真っ赤な嘘である。ハンドルを握りつつ語る彼の額には、冷や汗がじわりと滲んでいる。

 一方の亜実は、新也が延々と言葉を紡ぐあいだ、じっと真剣な顔色で耳を傾けていた。そして話が一区切りを終えて、少しの間があったのち、何かを決心したようにして口を開く。


「……そっか。ごめんね、今まで新也に色々と甘えちゃって。私は、高級なレストランなんか行けなくても全然構へんよ。むしろ、これまでずっとお金を出してもらっていたぶん、よければ今度は私が出すからさ。私は新也と楽しく一緒にいれたら、それだけでええから」


 その言葉に新也は思わず、涙が零れそうになった。実際、もしここでその涙を堪えず、真実を全て打ち明けていれば、この後に待ち受ける彼の運命は変わっていたのかもしれない。だが、彼はそうしない事を選んだ。

 新也は亜実の返答に、この上なく胸を打たれていた。だからこそ、彼の中にはそれが本当の言葉なのかどうかを、今日一日をかけて確かめたいという欲が生まれた。哀れにも、これは二十年間何不自由なく親から経済的に甘やかされて育ったという、彼の胸の奥深くにあった後ろめたさが、その猜疑さいぎの心を一層歪めてしまっていたためでもある。


 だから、愚かにも、彼はまだ本当の事を話さなかった。


 黒の軽自動車は国道24号奈良バイパスを下り、大和郡山市内へと入る。フロントガラスからは、巨大な駐車場を備えたショッピングモールが近づくのが見えた。


「ごめん、申し訳ないんだけど今日は大阪じゃなくてさ、プランを変えて、奈良県内デートって事でいいかな。よければここでお昼食べてから、一緒に映画でも見よう」

 

 元々デートスポットの少ない奈良県内とはいえ、他を探せば、もう少しマシなところはいくらでもある。それを新也は敢えてわざわざ、地元の大型ショッピングモールという選択にした。ともすれば経済的事情云々以前に、センスの問題にもなりかねない。だからこれは新也にとって、中々覚悟の要る提案であった。


 しかし、亜実はここでも嫌そうな素振りひとつ見せなかった。それどころか、


「こっちのモール、久しぶりやわあ。いつもは高の原のモールとか、新大宮のデパートに行くんやけど、ここは小学校の時に、お母さんと来た以来やから、だいたい10年振りかなあ。私が来たときは開業してすぐの頃やったから、映画館はまだできてなかってん。ちょっとウキウキするなあ」


 と、喜んで見せたのである。


 新也は幼少期を東京で過ごし、今でも日用品の買い物等はハウスキーパーに任せきりであった。そのため、大和郡山や高の原のショッピングモールの存在は知っていても、自ら実際に足を運んだことはこれまでにない。彼にしてみると、そういった場所は女性を連れて行っても喜ばれる所ではないし、恰好の悪いものだと理解していた。しかし、亜実は嫌がるどころか、むしろそこでのデートを愉しもうとする気配さえある。ゆえにこれは新也にとって嬉しいながらも、また大いに意外なことであった。


 まず彼らは、モール内のファミレスで昼食をとることにした。日曜日というともあり、入店までには少々も待ち時間があったが、それでも亜実は終始、上機嫌のように見えた。

 席についてから、新也はドリアとハンバーグを、亜実はスパゲティとサラダを注文した。元々、大阪の高級ホテルレストランで何十倍もの金額を払って食べる予定だったランチが、ここでは1品300円程度である。普段こういった店に殆ど来ることのなかった新也も、その安さと、味が存外に美味であったことには少々驚いた。


「おいしいね。良ければまた来ようか?」


 と、新也は相手の表情を伺いつつ、試すようにして言った。すると亜実は不意に神妙な面持ちで、こう呟いた。


「……実はさ、私、高級なフレンチとか、嫌いじゃないし、本当に美味しいんやけど、どうも堅苦しいっていうか。もちろん、何か特別な日とかやったら全然話は別やで?けど正直、普段はむしろ、こういう気軽なお店でご飯を食べるほうが、むしろアリかなぁって」


 新也はその亜実の言葉を、経済的に困窮している自分に対する、精一杯の心遣いなのだと受け取った。つまり彼は、亜実が自分のために、無理に我慢をしてくれていると思ったのである。だが実のところ、その彼女の発言は、偽らざる本心であった。哀れにも、生まれ育った環境の異なる新也がそのことを理解する機会は、永遠になかった。

 昼食代を折半で勘定したのち、二人はモール内にある映画館へと入った。新也は最初、適当な洋画か、恋愛ものの邦画にしようと思っていたが、結局、亜実の強い希望により観る事となったのは、名密偵何某というアニメの映画であった。アニメを見慣れない新也にとって、映画の内容は正直やや退屈であったが、亜実にとってはたいへん満足なものだったらしい。鑑賞し終えたのち、彼女は満面の笑顔で、嬉々として感想を語っていた。

 それからの行程も亜実のリクエストで、大和郡山の街並みを散策することとなった。近鉄郡山駅近くの駐車場に車を停めて、二人は石垣と大手門だけが残る大和郡山城をぶらぶらと歩く。それから柳町やなぎまち商店街や洞泉寺とうせんじの方へ足を運び、コーヒーショップで一息ついたり、源九郎げんくろう神社でおみくじをひいたり、中で金魚の泳ぐ自動販売機を見て、大いに笑ったりした。いつもの華々しいデートコースとは大いに異なる、非常に質素な行程であった。新也は「さながら、『ローマの休日』ならぬ、『郡山の休日』だな」などと内心自嘲していたが、一方で亜実は終始、このデートを存分に楽しんでいた。というよりもむしろ、亜実の表情は普段のデートで見せるそれよりも、一層明るいものであった。だがそのことに、恋人の新也は最後まで気が付かない。


 のみならず、このとき彼はあろうことか、とても傲慢な気持ちで、――「合格だ」、などと考えていたのである。


 夕食を食べ終え、日が沈んだあと、彼は車を信貴生駒スカイラインへと向けて走らせた。「これを登り切った生駒山頂からは、光り輝く大阪の夜景が見えるとあって、奈良在住のカップルにとってデートを締め括る定番のスポットになっている」というのは、新也が松永から事前に聞いていた受け売りである。


 山頂に着くと、西の方面には眼下に大阪市街が広がり、東の方面には奈良平野の景色が見渡せた。幸い天気も良かったため、特に、大阪側の夜景は一面のパノラマに光り輝いていた。

 そしてこの信貴生駒スカイラインには、「鐘の鳴る展望台」と呼ばれる、小さな鐘が取り付けられた、わずかなスペースの展望台があった。新也は、今日という日を締めくくる場所に、そこを選んだ。むろん、全ての種明かしをするという意味である。


 二人はその細長い階段を伝って、展望台の中腹にある踊り場へと向かった。これから秘密を明かそうとする新也の胸の鼓動は、展望台の階段を一段ずつ登るたびに、いっそう強くなってゆく。そして彼らが辿り着いた踊り場の正面には、ブルーとピンクのリングが交差したモニュメントが置かれていた。そこには「誓いの鍵」という、かつてこの場所へ訪れたカップル達が、互いの幸せを願って取り付けた、無数の南京錠がぶら下がっている。二人は、それぞれの交差するリングの真正面に佇んだ。


 亜実は、新也がこの恋人の聖地のような場所で足を止めたことで、胸を高鳴らせた。幸い、いま周囲には、他のカップルもいない。


 だが、新也の胸の高鳴りは、彼女とは理由を異にしていた。

 新也は息を深く吸い込み、覚悟を決めようとした。だがその覚悟とは、誤った覚悟である。


「ちょっとさ、ひとつだけ、亜実に言っておかなきゃならないことがあって」


 その言葉は、亜実の期待とは大いに異なるものであった。

 

 新也は後輩の松永から、「すぐに全ての真相をバラすのではなく、今後じっくり時間をかけて、徐々に造り話と現実の辻褄を合わせていくように」というアドバイスを受けていた。だが潔癖症の新也は、このような庶民的なデートを、もはや今回限りにしておきたいと思ったのである。つまり、彼は次からもうすぐにでも、元通りのフェラーリに乗った、大阪のホテルで高級ディナーを頂く、自分に分相応なデートに戻したいと願っていた。それに、明るい性格の亜実の事である。真実を告げても、きっとまるでドッキリ番組のネタ晴らしをされた芸能人のように、笑い飛ばしてくれるに違いないと踏んでいた。そこに彼の緩怠かんたいがあった。ゆえに、愚かにも新也はその後輩の助言を聞き入れず、ついに誤った覚悟を、決めてしまった。


「あのさ、実はさ。今朝言っていた、親父が事業の経営でトラブって、負債抱えて、俺のフェラーリも手放しちゃったって話、あれ、全部冗談なんだ」


 途端、亜実の表情は曇った。彼女は新也の目をじっと見据えながら、「それ、どういうことなん?」と、深刻な顔つきで問い返す。さすがの新也も、その彼女の声色が、いつもとは違っていることに気が付いた。

 だが、今更もう引き返すことはできない。愚かな彼は、何とか雰囲気を和らげようとおどけながらも、洗いざらい、その動機に至るまで、馬鹿正直に語った。新也が話を進めるにつれ、亜実の表情は、次第に怒りを帯びていくのがわかった。そこで新也はようやく焦燥に駆られた。しかし、全ては手遅れであった。


「……人のこと試すなんて、最低」


 話の終わらぬうちに、亜実は吐き捨てるようにしてそう言った。彼女の目には、明確な侮蔑と、嫌悪があった。


 頂上の鐘を鳴らすことなく、亜実は展望台の階段を無言で下りはじめた。新也は顔面蒼白になりながら、慌てて彼女の後を追う。亜実の声なき怒りは、ともすれば、一人で歩いてでも夜の生駒山を降りかねない程のものであった。新也は彼女を一心不乱になだめつつ、どうにか車の助手席へと乗せた。


 生駒山を下る車の中で、新也は必死に明るく振るまった。彼は平素の二倍もの口数を振るって、何とか亜実を笑わせようとした。が、彼女はずっと険しい顔で、俯いたままであった。


 それから車が県道237号を抜けて、近鉄生駒駅の脇を通り過ぎようとした時。急に亜実が、「車を停めて」と言った。


 新也が「どうした、体調でも悪いの」と恐る恐る問いつつ車を路肩に停車すると、亜実はシートベルトを外し、「私、もう生駒駅から電車で帰るから」と冷淡に言い放った。


 そこでついに新也は涙交じりに、謝罪の言葉を口にした。それでも助手席のドアを開いて車外へ出ようとする亜実を、新也は何とか制止しようとして、彼女の左腕を不意に掴んだ。


 内面よりも「形」ばかりを気にしていたのはむしろ、俺自身の方ではないかと、大いに後悔するような感じが新也の頭の中をかすめた時。





 亜実の振るった平手が、大きく半円を描いて、彼の左頬を打っていた。





 その後、新也が亜実の携帯へ送ったいくつものメッセージに、既読が付くことは、永遠になかった。

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