大和の桜の満開の下(原作:坂口安吾『桜の森の満開の下』

 

 奈良県にある高田川の千本桜が咲くと、われわれ大和高田市民たちは地酒をぶらさげたり八木駅前で売っている某きな粉団子を持ち寄って川辺でレジャーシートを広げながら絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これはかつて源九郎義経さまが武蔵坊らと共に静御前さまのご実家があるこの高田の地へと立ち寄った鎌倉時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。


 近頃は桜の花の下といっても流行り病の影響で飲み会自粛だ宴会禁止だ何だという世間の風潮ですので、桜の花の下から人間を取り去ると殊更怖ろしい景色になります。


 とある作家の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」といった言葉がありましたが、桜の林の花の下に人の姿がなければまさに、亡者が手招いているかのような怖しさがあるばかりです。


 さて昔、この奈良の大和高田市に、一人の不良少年が住んでおりました。


 少年は名を雲梯うなてかおるといい、十四歳にしてずいぶんむごたらしい凶悪な男で、よく街へ出ては、自分より弱い年下の相手ばかりを狙って暴行や恫喝を行っており、これまで警察のお世話になったことが無いのが不思議なほどの悪童でした。


 しかし、彼の非行を咎めるべき両親は、いつも家におりません。もとより、薫には家族と過ごした記憶というものが、ほとんどないのです。

 薫の母親は物心ついたとき既に蒸発しており、後妻をつくった父親はたまに生活費を無言で置いていくだけで、滅多に帰ってこないのが常でした。


 二年前、小学校の卒業式の日も、薫は周りの同級生たちが嬉しそうに親と手を繋いで歩く花道を、ひとりぼっちで歩きました。


 どうしてお父さんは来てくれないんだろう? どうしてお母さんは帰ってこないんだろう? どうして、自分には一緒にいてくれる家族がいないんだろう?


 そんな事を考えて、彼は涙をぼろぼろ流しながら、待つ者のいない家路を辿りました。


 帰る途中、薫は高田川の河川敷に立ち寄りました。そして、例年よりも少し早く花を開いた桜並木の下で、卒業証書をびりびりに破いて、川へと流しました。本物の花びらに混じって、まるで桜吹雪のように散ってゆく自分の卒業証書を見たとき、ついに彼は孤独と悲しさで胸がいっぱいになって、大声で泣き叫びました。


 桜は卒業から入学の時期に咲く、幸せと祝い事の象徴ともいえる花でしょう。しかし、薫にとって最早それは、つらい思い出を蘇らせるものでしかありません。以来、薫は桜を見るたび、心が引き千切られそうになるので、桜というものを随分と怖れるようになりました。


 彼が学校に通うのをやめて、年下の子供に暴力を振るうようになったのも、ちょうどその頃からです。今や、薫は自分より幸せそうな、親に愛されている年下の子供を見かけると、たちまち怒りと嫉妬が胸の奥から沸きあがって、暴力を振るう衝動が抑えられなくなりました。そのことに自分で気がついたときにはもう、薫の心はすでに、取り返しようのないほどにまで壊れてしまっていたのです。


 そんな、とある雨降りの日のことです。

 薫はその日も学校に行かず、ひとりで暇をつぶすために、近所のゲームセンターへと向かいました。


 しかし、その日はあいにく最短となる道が午後から工事により通行止めとなっていたので、薫はやむを得ず迂回して、高田川の堤防沿いの遊歩道を行くことにしました。そして不運にも、呆然と日々を生きる薫には、今がちょうど桜の季節であるという事さえ頭にありませんでした。

 そのため、道行く人のいない雨空の下で咲き乱れる満開の千本桜を目にしたとき、彼は背筋が凍るような心地になったのです。


 三月の末の、まだ冷たさの残る空虚を、川のせせらぎと雨音が満たしておりました。静止した灰色の雲の中に、桜の梢だけがさわさわと揺れています。


 薫は息が苦しくなりました。水に打たれた花びらがぽそぽそ散って高田川の水面に流れていくようにして、自分の魂が散っていのちが三途の川を流れて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶると川に嵌まるので目をつぶるわけにも行きませんから、いっそう気がおかしくなるのでした。


 けれども薫は、後悔ということを知らない男ですから、ひとつ、来年、やってやろう。そう思いました。来年、花がさいたら、この忌々しく恐ろしい千本桜にきっと火をつけて、燃やしてやろう。後のことなんて、もうどうなってもいい。


 そう考えているうちに、薫はふと、桜の木の下に傘を差した段ボール箱のようなものが置いてあるのを目にしました。


 近寄って見ると、中には真っ黒な子猫が、にゃあという声をあげながら、その夜空に浮かんだ三日月のような黄色い目でこちらを一直線に見つめておりました。

 薫は始め残酷な気持ちで、子猫から傘を奪い、失せろと蹴とばしてやるつもりでした。ですが、この黒猫の瞳というものがあまりにも美しすぎたので、いつの間にか不意に手を伸ばして、両の掌へ抱きかかえておりました。


 彼自身に思いがけない出来事であったばかりでなく、猫にとっても思いがけない出来事だったしるしに、小さくぶるぶると震えております。

 薫が、墨染めのような猫の背に乗った桜の花びらを払い除け、


「今日からお前は俺のうちに来い」


 と言うと、子猫は「にゃあ」と鳴きました。


「よし、それじゃあ、お前の名前は今日から『クロ』だ」


 薫は『クロ』と名付けたその猫をしっかりと胸の中で抱きなおすと、段ボール箱に添えられた傘を置いたまま、再び満開の桜を背に家路を辿り始めました。


 家へと戻った薫は、とても好機嫌でした。

 彼はクロを抱きながら威張りかえって肩を張って、乱雑に散らかった広いリビングをぐるりと一廻転して見せて、


「これだけの大きな家がみんな俺のものなんだぜ」


 と言いましたが、クロはそんなことにはてんで取りあいません。そして、又、やけに首っ玉にしがみつきました。


「なんだ、お前、もしかして腹が減っているのか。よしわかった。今に飛びきりの御馳走をこしらえてやるよ」


 薫はクロを抱え下ろすと、机の上に裸で置いてあった一万円札を何枚か鷲掴わしづかみ、そのまま出て行ってしばらくしたのち、大きなキャットフードの袋を抱えて戻ってきました。


「そら、たんと食え」


 と言いながら、適当に見繕った皿へ袋の中身を山盛りにぶちまけましたが、クロはそっぽを向いたままでした。薫は一緒に購入したネコ用ミルクをその上からかけてやりましたが、クロはそれでも一向に口をつけようとしません。


「なんだ、お前、腹が減っていたんじゃないのか。仕方のないやつだなぁ。どれ、温めてほぐしてやれば食べるかもしれない」


 そう思って、薫はひょいと皿を取り上げると、電子レンジに放り込み、ボタンを押しました。そして、ターンテーブルがメリーゴーランドのようにぐるぐると回っているあいだも、薫は初めて家族ができた事に思わず顔をほころばせながら、クロの美しい瞳をじいっと見つめていました。


 ふと、そのとき、ゴミ袋が散乱したキッチンのかげから一匹の大きなゴキブリがカサカサという音と共に飛び出しました。そして、薫が流し台のそばにあった新聞紙を丸めてそれを叩こうと立ち上がった際、思いがけない事が起こりました。


 突然、クロが「グググッ」と短く喉を鳴らしたかと思うと、目覚ましいほどの勢いで、ゴキブリへ一目散にとびかかったのです。そして両前足でしっかり捕らえると、そのままガブりと大口を開けて胴体に嚙みつき、真っ二つに引き千切りました。


 これには流石の薫も最初は少し驚きました。けれども、ゴキブリの首や手足を美味そうに頬張るクロの姿を見て、何故か次第に嬉しいと思う気持ちが彼の中で勝りはじめたのです。


 そして、触角まで残さずぺろりと食べ終えたのち、クロはおかわりを所望するかのようにして、薫のほうを見据えながら悲しげに「にゃーお」という声を上げました。

 電子レンジからチンという音が鳴ったのは、それとほぼ同時でした。薫は扉を開いて皿を取り出すと、水分を多く含んだキャットフードをスプーンでよくかき混ぜながら、ふうふうと息を吹きかけ、ほどよい具合になったところで再びクロの眼前に皿を置きました。


 しかし、何故だかクロはそのキャットフードには相変わらず、満足を示そうとしません。これは一体どうしたことかと思って、ふと思い立った薫が家の庭へ行って、生きたバッタを捕まえて与えてやると、クロは急に髭をぴんと張って尻尾を立てながら、嬉しそうにそれへ飛びつくのでした。しかも今度はひと思いに首を獲るのではなく、足を一本ずつ外し、歯で内臓をえぐり、それでも逃げようとするバッタを、両前足を使ってまるでなぶり殺しのようにしながら、じっくりと味わっているのです。


 薫は目を見はりました。そして嘆声をもらしました。これは単なる畜生の本能的行動などではなく、このクロだけが持つ、奇跡的な個性なのだと思ったのです。高級なキャットフードも、猫用のミルクも、それらはクロの心を充たす物ではありませんでした。クロの何より欲しがるものは、生きた餌。まるで到底猫とは思えぬ、肉食の爬虫類が如き食性であり、それも、動物でありながら食事を単に栄養を摂取するための行為としてではなく、命を奪う事そのものを娯楽として愉しむ、残酷さを併せ持ったものでした。


 そして、そのことは同じように歪んだ残酷さを持つ薫自身の心の内と、大いに共感しました。このクロの個性を、彼は一つの妙なる魔術として納得させられたのです。


「よしよし。わかった。お前のたのみはなんでもきいてやろう」


 薫はこの美しい目をした家族に未来のたのしみを考えて、とけるような幸福を感じました。薫が物心ついてから、他者に愛情というものを持ったのは、本当にこれが初めてのことだったのです。


 それから、クロと薫のあたらしい生活が始まりました。


 ふたりは家にいるときは片時も離れず、お風呂に一緒に入り、夜はいつも同じ布団の中で眠りました。晴れの日は縁側で陽が落ちるまで午睡をとり、雨の日は窓辺でぼんやりと薫の膝にくるまりながら空を眺めます。

 しかし食事については相変わらず、クロは生きたものしか口にしようとしなかったので、薫はいつも爬虫類用のコオロギやネズミの生餌を買ってきては、それを与えておりました。


 そして、クロは成長するにつれて餌を欲しがる量もどんどん増え、それもより大きく、動きのあるものを好むようになります。

 しまいには昆虫やネズミに飽き足らず、庭でカラスを捕まえては、頭蓋にかじりつき、目玉をしゃぶり、その首を嬉しそうに振り回していることもありました。そして、そのまま骨も残さず食べ尽くしてしまうのです。


 猫がカラスにつつかれて食べられるというのはよく聞く話ですが、さすがにその逆は聞いたことがありません。

 クロは何か普通ではない、という事に薫はとっくに気が付いていました。それでも、薫のクロに対する愛情には、やはり全く変わりがないどころか、一層深まっていくばかりでした。

 毎日、獲物の返り血がついたクロの口を綺麗にふいてやりながら、薫はずっと、この時間が永遠に続いてほしいと願っておりました。



 ですが、それからずいぶん時が流れた、およそ一年後のある日のことです。

 春のやわらかい夕日を浴びながら、いつものようにクロと薫が縁側でうたた寝をしていた時、珍しく家のインターホンが鳴りました。


 薫はひとつ舌打ちをし、大儀そうに立ち上がって液晶画面を覗くと、そこにはサングラスをかけ、高級そうな白いコートを着て、つば広帽を深くかぶった中年の女性が写っております。

 その姿を見て、薫の表情は一層翳り、そして険しくなりました。


 薫が玄関の扉を半分開けると、中年の女性は物も言わず、薫を突き飛ばすようにして玄関の内側へと入ります。そしてあろうことか、彼女は靴も脱がず、厚底のブーツを履いたまま、散らかったリビングへつかつかと入っていったのです。

 薫がそのことを咎めようとすると、女性は眉間に大きな皺を寄せながら「黙れ!」と怒声をあげました。


「こんな汚いところを、素足で歩けるもんですか! 毎月、十分すぎる金を振り込んでやっている上、家までくれてやったのに、それをゴミ屋敷になるまで荒らして、このクズは!」


 そう言って彼女は、手にした扇子で、薫の頬を強くピシャリと叩きました。叩かれた薫の頬は、くっきりと赤く腫れていましたが、それでも薫はじっと押し黙って、何も言い返せずにいます。


 彼女は、薫の父の後妻、つまり薫にとって継母となる人物でした。

 戸籍上では彼女は薫の養母であり、保護者にあたります。しかし、この様子は傍から見ても、保護者として様子を見に来たというより、明らかに自身の鬱憤を薫にぶつけに来たという感じでした。


「あんたが学校も行かずに、悪さばっかりするせいで、私たちが役所や学校から怒られたじゃない! とんだ迷惑よ、このろくでなし!」


 言いながら、彼女は扇子で薫の頭を、また何度も、何度も、何度も強く叩きました。それでも薫は亀のように丸くなりながら、頭を抱えて、ただじっと蹲っていました。

 この程度の体の痛みは、彼のこれまでの人生で味わった心の痛みに比べれば、何ということもありません。体の痛みは、心とちがって、時間が経てばいつか消えてなくなります。なので、薫はただひたすらに、じっと耐えていたのです。

 ですがそのとき、折悪しく、縁側にいたクロがリビングへと歩いてきました。

 そして案の定、継母はクロの姿を見て、あからさまに顔をしかめます。


「何よ、この汚い猫は。あんた、こんな物まで拾ってきたの! 余計に家が汚れるじゃない!」


 その言葉を聞いて、うずくまっていた薫が反射的に顔をあげ、立ち上がります。彼の背筋に、何か嫌な予感が稲妻のように走りました。

 しかし未だ警戒の薄いクロは、ごろごろと喉を鳴らしながら継母の方へとそのまま近づいてゆきます。


「寄るんじゃないわよ、穢らわしい!」


 その怒号とともに、継母の蹴り上げた硬いブーツの先芯が、クロの横腹に勢いよく当たりました。

 ギャッ、という悲鳴と共に、クロの体が宙に浮かび、壁へと叩きつけられます。

 薫にとって、それは耐え難い光景でした。

 たった一人の「家族」であるクロが傷つけられることはもはや、自分の心や体に傷を負う事よりもずっと、ずっと辛いことでした。

 なので、その時にはもう既に、

 ――――薫の右手は、台所にあった包丁を抜き放っておりました。


  *


 目の前に広がった血溜まりをみて、それが現実のことであると薫がようやく認識したのは、それから数分ほど後のことです。


 仰向けに倒れた死体には、首に、肺に、手に、足に、顔に、数えきれないほどの刺跡が残され、そこからは生暖かい血が、溶岩のごとく滲み出していました。

 酸素に触れた血が徐々に黒色を纏って、継母の白いコートを喪服のように染め上げてゆきます。


 薫は手から包丁を滑り落とし、ふと視線を横にやりました。

 すると、クロは黄色い瞳をぱっちりと開け、四本の足を綺麗に揃えて立ちながら、こちらを見つめています。


「ああ、よかった」


 薫の目に、涙が浮かびます。

 それは、人を殺めた後悔によるものではありません。なぜならそのとき彼の心を占めていたのは、ただ、クロが無事であったことへの安堵のみだったからです。


 薫がにっこりと脱力した笑みをうかべながら、返り血に塗れた手でクロを抱きかかえると、クロは血に塗れた薫の手をぺろりと一舐めしました。


 ですがその途端、クロは耳をピンと立てて瞳孔を見開くと、彼の腕からひょいと飛び出て、くんくんと鼻を鳴らしながら、死体のほうへと近寄ってゆきます。

 クロはなぜか、死体をじっと眺めていました。

 そしてしばらくした後、薫はおそろしい光景を目の当たりにしました。

 クロは突然大口を開けたかと思うと、がぶりと傷口に牙を刺し、その肉を傷口から引き裂き、食い千切り、更には頭蓋骨をスコーンのようにいとも容易く噛み砕いて、死体を喰らい始めたのです。


「クロ、お前は、いったい」


 さすがの薫も、驚きを覚えました。

 ですが、やはりそこにも恐れはなく、彼はその猟奇的な食事姿を、虚ろな目でただ呆然と見つめています。

 そしてクロがぺろりと舌舐めずりをすると、いつものように、血で汚れた口の周りをきれいに拭いてやるのでした。

 それから薫は再びクロを膝の上に抱きかかえ、今後の事を色々と考えました。


「なあクロ、これから一体、どうしようか」


 こうなった以上、薫たちがここで今まで通りに暮らすことはできません。そうなると、クロをこのまま家の中に置いたままにしておくのは、哀れだと思いました。

 しばらく低徊したあげく、薫は自分が警察に捕まる前に、クロを再び自由な外の世界へ逃がしてやることを決心しました。


 返り血だらけのシャツを着替えると、薫はクロを抱きながら玄関の扉をくぐります。そして、虚ろな足取りで、二人が出会ったあの高田川の河川敷を目指しました。


 奇しくも、季節は花の盛り。


 薫は初めてクロを拾った日のことを思いだしました。その日も彼はクロを抱いて川沿いの道を歩いたのでした。


 そして高田川の千本桜が眼前に現れてきました。それはまさに、思わず息を呑むほどの満開でした。川の水面には花びらが無数の浮橋をつくり、遊歩道には見渡す限りに敷かれた花びらの絨毯。桜並木はまるで千本全てが燃えあがり、その火の粉を散らすようにして、桃色の花を吹雪かせております。


 川沿いをしばらく歩くと、薫はクロと出会った、思い出の桜の下へと辿り着きました。そこで薫はクロをそっと地面におろしてやりましたが、クロは相変わらずまん丸い綺麗な瞳で、まっすぐにこちらを見つめています。


「さあ、どこへなりとも行っちまえ。元気でな」


 追い払うように手を振りながらそう言った薫の目は、涙で霞んでいました。

 薫は袖で目をぬぐいながら、クロに背を向けて、警察署のほうへと歩きはじめました。ですが、クロはまるで寄り添うようにして、ぴったりと薫の後をついてきます。

 やがて、薫の足はとまりました。彼はクロに抱きついて、ワッと泣きふしました。きっと小学校の卒業式からこの日まで、薫が泣いたことはなかったでしょう。


「なあ、やっぱりこれから二人で、どこかへ一緒に逃げようか」


 薫はクロを抱えて、桜並木の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。けれどもクロと一緒なら、他にはもう、何も要りませんでした。


 そのとき不意に、クロが薫の首にしがみつきました。


 そして大きく口を開け、その牙が薫の内頸にくいこみました。


 動脈から血が噴き出し、薫の目は見えなくなろうとしました。けれども、そこに痛みは感じません。


 ほど経て彼は、血と一緒に何かあたたかい物が流れ出てゆくのを感じました。


 そしてそれが、今まで彼の胸につかえていた悲しみであることに気がつきました。自分の身体が次第に熱を失ってゆくにつれて、その幸せなあたたかさが、すこしずつ分りかけてくるのでした。


 薫はじっと静かに、目を閉じておりました。今まで彼の心を苦しめていた物は全て、川の水とともに流れてゆきます。


 しばらくすると、クロを抱きしめていた腕が千切れて、地面にどさりと落ちました。


 遠のいてゆく意識の中で、薄く目を開くと、自身の躰を食らっているのは、大きな牙と爪を生やした怪物でした。その口はひどく裂け、毛並みは燃えるような赤色でした。


 薫はふと、いつの日か幼い頃に絵本で読んだ、『火車かしゃ』という化け猫のお話を思い出しました。


 その化け猫は、死者の亡骸を地獄へと持ち去る妖怪で、悪行を積み重ねた者のもとに現れるといいます。

 しかし、クロと過ごしたこれまでの幸福な日々に、それが何ほどのものでしょうか。彼は怖れていませんでした。たとえ鬼であろうと、クロは薫の大事な、たったひとりの家族に違いありません。


「クロ、これで俺たち、ずっと一緒だな」


 千本桜の満開の下は、彼にとっての「孤独」そのものでした。

 けれども、薫はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。

 薫は、クロの一部になったのです。彼はもう、孤独ではありませんでした。


 薫の呼吸はとまりました。彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。


 まるで棺に手向けられるように、どこまでも穏やかで、幸せそうな薫の頬を、無数の花びらが優しく包みます。


 彼の最後の視界には、一匹の猫がおりました。その猫の瞳にも、ひっそりと涙がうかんでおりました。薫の頬へ、花びらとともに一粒の涙が滴ります。それだけのことです。彼らの頭上には、ただ、満開の桜があるばかりです。




 高田川の遊歩道を、桜色の風が通り過ぎました。



 あとにはもう、「薫」と一緒になった、「黒」の姿はありませんでした。

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