どん銀行員(原作:新美南吉『ごん狐』)

 ――これは、わたしが小さいときに、銀行員だったおじいさんからきいたお話です。



 むかしは、わたしたちの住む奈良県に、平城銀行というちいさな地方銀行があって、おおよそ10万人ほどの人々が、おかねを預けていたそうです。

 その平城銀行の職員のなかに、「どん」という銀行員がおりました。もちろん、それは誰かがつけたあだ名で、本名を小山栗夫こやまくりおといいました。


 どんは、なぜかエリートぞろいの本店営業部に在籍していながら、いつもどんくさく、ミスばかりしてみんなからばかにされていました。言わずもがな、どんというあだ名は、「どんくさい」の「どん」から来たものです。

 そして、しごと中でもふらっと自席を立ってどこかへ出ていって、トイレかと思いきや、そのまましばらくもどって来ないことがよくありました。そのため、どんは課長さんから毎日のように怒られていましたが、口下手などんはうまく言い訳をすることすらできず、いつもうつむきながら、延々とお叱りを受けておりました。


 けれども、どんの更にずっと偉い上司であった畑中部長さまは、そんな彼の事をどういうわけだか一切怒りませんでした。それどころか、口下手などんの事をいつも気にかけて、どんが怒られるたびに仲裁に入り、やさしく助けてあげておりましたので、本店営業部のみんなはとても不思議に思っていたのです。

 

 ですが、ある秋のことです。

 とつぜん発表された人事異動によって、どんの唯一の味方であった畑中部長様がほかの支店へ異動することとなり、かわりにやって来たのは、とてもこわいと銀行内でも有名な、兵藤という部長さまでした。


 そして兵藤部長がやって来てすぐに、どんがまた、いつものように仕事でミスをしました。


 すると、兵藤部長は前任の畑中部長とはまるで打って変わって、どんの事を課長さんよりも更にきびしく責め立てました。

 どんは、どもりながらも珍しく何かを言おうとしましたが、部長さまがあまりにも大きな声でキンキンとどなりちらすので、気の弱い彼は、あきらめてそのまま口をとじてしまいました。 


 それから二、三日雨がふりつづいた次の週、どんは風邪をひいて、仕事をやすんでいました。会社に休むと連絡を入れてから3日ほどたち、ようやく熱が下がって出社すると、本店営業部にあった彼の座席には、なぜか別の人が座っておりました。

 ふと見ると、部署内の掲示板には新しい異動のお知らせが貼ってあります。

 それをじっくり読んでみると、どんの本名である小山栗夫という名前とともに、「以下の者、9月14日付けで果無はてなし出張所への異動を命ずる」と書かれていました。


「兵藤部長のしわざだな」 


 と、どんは思いました。そして案の定、どんが掲示板の前でぼう然と立っていたところへ兵藤部長がやって来て、


「読んでくれたと思うが、まあ、そういうわけだ。今日からは新しいメンバーをこの本店営業部へ迎えることになった。君には相応しい配属先を用意してあるから、明日からは精々そちらで頑張ってくれ」


 嫌味たらしくそれだけを告げると、兵藤部長は革ぐつの底をつかつかと鳴らして、その場を立ち去っていきました。

 どんはしょんぼりとしながら、自分のロッカーに放り込まれた荷物をまとめると、一礼をして、「お世話になりました」と本店営業部の皆にあいさつをしました。しかし、そのお別れの言葉すら誰もきく耳を持たなかったので、本店の入館カードを総務に返却したあと、そのままトボトボと、奈良のいちばん山奥にある次の配属先へと向かっていきました。



 さて、どんが奈良県最南端である十津川村の果無出張所へ異動になってから、ひと月ほど経ったある日のことです。


 とつぜん、平城銀行の勘定系システムに障害が発生し、一部の口座振替や振り込みが若干遅延するという事件が起こりました。


 本店の行員たちがベンダーの社員さんとともに調査を行いましたが、もともとこの平城銀行は、飛鳥京銀行と藤原京銀行というべつの2つの銀行が合併をしてできた銀行だったので、統合の結果システムの仕組みがとても複雑化しており、結局、はっきりとした原因は誰にも解明できませんでした。

 それでもこの障害はごく一時的なもので、なぜかすぐに復旧したため大事にはならず、平城銀行は何事もなかったかのようにそのまま業務をつづけておりました。


 ですが残念なことに、平城銀行のシステム障害はこれで終わりではありませんでした。


 どんが異動になってから、更にふた月ほど経った、冬のさむいある日のことです。

 世間はそろそろ年末が近いとあって、平城銀行の窓口も多くのお客さんたちでにぎわっておりました。

 

 そんな中、またしても平城銀行の勘定系システムに障害が起こったのです。


 しかも今度は、口座振替や振り込みが少しおくれる程度のものではなく、全店舗のATMがとつぜんフリーズし、更にはキャッシュカードが機械に吸い込まれたまま戻ってこないという、とても深刻なものです。


 とうぜん、片田舎の地方銀行とはいえ、この過去に例をみないほどの大規模障害はたちまちマスコミの知るところとなり、平城銀行の本店には多くの報道関係者が詰めかけました。


「これは、まずいことになったぞ」


 そうつぶやきながら、チューナーをつけた古いブラウン管テレビに映るそのニュースを、食い入るように見つめる姿がありました。

 

 3か月前に左遷させられた、どんです。


 現在どんが勤務中であるこの果無出張所は、十津川村の中心部からも更に外れた山奥の、週に1人ほどのお客さんが来るか来ないかという場所にあり、ATMすら1台も置いていなかったのですが、どんは更にこれから起こりうる最悪の事態をこの世でただひとり予測しておりました。


「この出張所のネットワーク端末からじゃあアクセスができない基幹情報部分にバグが発生している。このままだと口座の二重引き落としや、最悪、全ての口座残高の不整合が発生するぞ」


 実のところ、どんは営業や事務のほうはからっきしでしたが、システムの保守運用に関しては右に出る者のいない男でした。

 入行時、彼はなぜか一般事務職で採用されたため、システム部門に回されることはありませんでした。

 しかし経営統合時の早い段階から平城銀行の勘定系システムの脆弱性にうすうす気づいていた畑中部長は、システムにやたらと詳しいどんに目をかけ、ときおり彼に本店のメインフレーム(ホストコンピューター)へこっそりとアクセスし、その点検をするようにお願いしていたのです。


 どんは、すぐさまかつての上司である畑中部長に携帯で電話をかけました。

 ですが数コールののち、電話口から聞こえた「もしもし」という声は畑中部長ではなく、女性のものでした。そのため口下手などんは若干戸惑いつつ、


「あ、あの。こ、小山です。は、は、畑中部長の、携帯電話で、お間違い、ないでしょうか」


 と、例によってどもりながら問いかけると、 


「主人のご同僚だった方ですか。私は妻の畑中明美と申します。このたびは訃報のご連絡が伝えきれておらず、誠に申し訳ありません、あいにく主人はちょうど2か月前に、脳梗塞のために亡くなりまして……」


「え、な、な、亡くなった!?」


 どんは驚きのあまり、声を裏返してそう叫ぶとともに、思わず椅子から転げおちました。妻と名乗る女性は悲しげな声で「そうです」と言いましたが、会社からもそのような知らせは回ってきていなかったため、何か悪い冗談だと思い、社内イントラで名簿を確認しました。すると、たしかに畑中部長の名前は、社員一覧からすでに削除されていたのです。


「葬儀は家族葬で執り行いましたので、十分なお知らせもできず、誠にすみませんでした」


 どんはその言葉を聞きながら、「本社の奴ら、この出張所へ訃報の連絡を回す事すら忘れていたんだな」と静かに怒りを覚えました。それから丁寧に弔意の言葉を伝えると、未だに少し震える手で携帯の通話終了ボタンを押しました。

 そして、どんは畑中部長とのかつての約束を果たすべく、また、平城銀行の誇りある一員として、いま何をすべきかを決心したのです。


「あれを復旧できるのは、僕しかいない」

 

 振り返ると、この出張所で他にただ一人の行員である上司は顔の上に新聞紙を乗せ、自席で大いびきをかいていました。

 どんは上司の机に「所用のため今日は早退します。申し訳ございません」とだけメモを書き残すと、厚手のコートを羽織って、雪の舞い散る世界遺産、熊野古道小辺路を背に国道168号を原付自転車でかけ登り、1日わずか3本、片道6時間という日本最長の路線バス、八木新宮線の最終便へと飛び乗りました。


 あいにく雪のためバスは大幅に遅延し、大和八木で近鉄電車に乗り換えたどんが近鉄奈良駅前にある平城銀行の本店に到着したころには、既に夜も更け時となっておりました。

 大規模なシステム障害のため平城銀行は全店で午後からの窓口を休止しており、ニュースによると、未だに復旧の目処は立っていない様子。

 そのため、この遅い時間にも関わらず、未だ本店内にはちらほらと明かりがついています。


「も、元本店営業部の、小山です!入れてください!」


 本店の入館カードを返却していたため、格子付きの門扉が閉まった本店裏口のインターホンを押してそう叫びましたが、昼間にマスコミが押し掛けたせいか、あいにくインターホンの電源は切れており、その声に返事をしてくれる人は誰一人おりませんでした。


「こ、こ、こうなったら、仕方がない」


 どんは警報機のセンサーに触れないように気をつけながら門扉を乗りこえると、その向こうにある本店の建物の、職員通用扉についたテンキーへ暗証番号をうちこみました。幸い、暗証番号は彼が在籍していた頃と同じだったので、ガチャリという音とともにそちらの扉は難なく開きました。


 そのままどんは非常灯の照らす廊下を、胸をどきどき鳴らしながら進み、基幹系システムの管理室へと辿りつきました。

 見れば、部屋には電気がついており、中には人の気配がします。まるで泥棒かスパイになったような気持ちで、部屋の中から人が出てくるのを柱の陰で待ち伏せると、オートロックが閉まる寸前に扉へ足を挟み込み、なんとか誰にも見つからないようにしてシステム管理室へ侵入することに成功しました。


 暗闇の中でどんは懐中電灯をくわえながら、メインフレームのコンソールを手慣れたように操り、瞬く間にバグの出た箇所を見つけ出すと、目にも止まらぬ素早さで修正コードを打ち込みはじめます。


 そしてようやく最後のバグが修正されたとき、ほっと胸をなで下ろしました。


 しかし、真っ暗な部屋のなかでずっと作業に集中していたためか、どんは背後からひとつの人影が迫っていたことに、とうとう気がつきません。

 

 ようやく物音がして振り返ったとき、どんの懐中電灯の光は、警棒を振り上げた兵藤部長の顔を、ライトアップされた金峯山寺きんぷせんじの蔵王権現様のように青白く照らしておりました。


 それから、暗闇の中で鈍い音とともに「ぎゃっ」という悲鳴があがりました。


 しかし、兵藤部長が部屋の明かりをつけてみると、なんとそこに倒れていたのは泥棒ではなく、よく知った顔ではありませんか。


 立ち上がったコンソール画面のソースコードを見て、兵藤部長はようやく全てを察し、警棒をばたりと取り落としました。



「……どん、お前だったのか。いつも当行のシステムメンテをしてくれていたのは」



 どんは、照れくさそうに頭をかきながら、小さくうなづきました。




 赤いたんこぶが、どんのひたいにくっきりと浮かんでおりました。


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