古都路(ことろ)(原作:夏目漱石『こころ』)


「精神的に向上心のない奴はアホや」



 それが、彼の口癖でした。


 私はその友人の名をここにKと呼んでおきます。このKと私は、共に奈良の公立大学に通う同級生でした。


 我々には特に同郷の縁故えんこがあったわけではなく、大学の一年次に知り合い、ややあって下宿部屋を共にする同居人、いわゆるルームシェアメイトとなりました。


 私は埼玉の農家の生まれでしたが、Kは奈良県南部の禅寺ぜんでらに生れた男でした。しかし彼の性格は決して生家の宗旨しゅうしに近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はとりわけ彼については、そう言い切れるのです。



 Kは精進しょうじんという言葉が好きでした。私は当然その言葉の中に、禁欲という意味もこもっているのだろうと解釈していました。しかし後で実際の彼の振る舞いを見ると、それが全くの言行不一致であることに驚きました。



 Kは酒や煙草をたしなむのは勿論のこと、ギャンブルや色街いろまち通いも頻繁にあり、更に呆れ果てたことには、それらの軍資金は毎月借入している奨学金やら両親の仕送りから注ぎ込んでいる始末でした。


 こういう背景を我々の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは阿呆だというKの言葉は、一体どの口がほざいておるのだというのが私の正直な感想でした。


 そんな彼に突如として異変があったのは、大学三年次の春頃でした。


 私を含めた周囲の大学生達が着々と就職活動の準備を進める中、Kは履歴書の1枚すら書く様子はなく、かといって学業に勤しむ訳でもない点は相変わらずでしたが、信じられないことにKは酒と煙草とギャンブルと色街通いをピタリと止め、なお信じがたいことに、あれほど労働について苦言を呈していた彼が突然、牛丼屋での深夜アルバイトを始めたのです。


 かかる異常事態に対して流石に驚愕した私は、その変貌の理由についてKに尋ねました。


 すると彼は、無駄に威張るような顔で鼻息をふふんと鳴らしながら、1枚のCDジャケットを私に見せつけました。


 そこに印刷されていたのは、AK何某という、ソ連製自動小銃のような名称のアイドルグループの写真でありました。私は今時の芸能について疎い人間でしたから、仔細についてはわかりかねますが、その名称はテレビやインタアネットで幾度となく目にする機会があったので、相当に有名であったのだと思います。


 その時点である程度の事情を察した私は、Kに、


「さては、君が突如として倹約とアルバイトを始めたのは、このアイドルグループに貢ぐためだな」と問いかけました。



 すると大胆な彼は、そうだと答え、

 「しのためなら、そのくらいの事をして当然や」というのです。



 その時彼の用いた「推し」という言葉は、おそらく私にはよく解っていなかったでしょう。



 しかし年の若い私には、この漠然ばくぜんとした推しという言葉がたっとく響いたのです。よしんば解らないにしても気高い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする Kの意気組いきぐみいやしいところは見えませんでした。むしろ、我が友がパチンコや風俗に湯水のごとく金を注ぎ込むよりかは、アイドルの追っかけをやる方がよほど健全だと思いました。


 私はKの姿勢に賛成しました。私の賛意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。変なところに一図いちずな彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、私はよく承知していたつもりです。よしんばその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当しとうになるくらいな語気で私は賛成したのです。



 私は会ったことのない人間の顔と名前を覚えるのがどうも苦手な性分ですので、ついに彼のいう「推し」のメンバーである女性の名前を覚えることはできませんでした。かわりに、私は彼女のことを指して常に「推し」と呼んでおりました。


 そしてKは、節制によって蓄えた金を、ひたすらその推しのライブとグッズの購入に費やし始めました。


 Kはとりわけ「握手券付きCD」なるものの蒐集には熱心であり、握手券付きCDを購入している、というよりも、明らかに彼の目当てはCDに付属している握手券のほうでした。


 K曰く、それをイベント会場で使えば、憧れのお嬢さん本人と数秒の握手や会話ができ、更に複数枚持っていればその分だけ長い時間お喋りができるという、まさに夢のごときチケットなのだそうです。私は、その巧みなる商法を最初に考案した人間に対して至極感服し、深い崇敬の念を抱きました。



 そのような不純な動機であったものの、結果的にKは自らの生活を多少なりとも改善してゆきました。そのため私は同居人として、また、友人として、Kの精神的成長を快く思っておりました。



 ですが、それから数ヶ月後に事件は起こります。


 3年次の冬頃、突如Kの両親からKに対し、奈良南部の実家へ急遽帰郷するよう厳命が下りました。とはいえ別段、身内の危篤や不幸があったというわけではなく、Kの単位取得が危機的状況にあることを大学から通知されたKの両親が、その申し開きをさせるために彼を召喚したのです。


 思い返せば、2年次の終わり頃にも確か同様の出来事があり、その時もKは持ち前の口先で何とか体面を取り繕い、両親より執行猶予判決を勝ち取っておりました。ですが案の定、3年次になってもKが学業に対して前向きな姿勢を取ることはなく、依然として卒業単位取得は危機に瀕している状況でした。


 それでもKは私に、


「大丈夫や、今回も適当にうまく誤魔化すわ。まあ3日くらいで帰ると思うからよろしく頼むで」


 とだけ言い残し、いくらかの手荷物だけを持って颯爽さっそうと出かけていきました。


 Kがいなくなった後の2DKの部屋は、とても静かでした。


 しかし、元より整理整頓の習慣がないKは、私という同居人がいることも御構い無しに、好き放題に部屋を散らかしていたため、いたるところにKの排出したゴミやガラクタが散乱している有様でした。


 そこで私は、Kが数日間不在であることを奇貨とし、一斉に部屋の掃除をしようと考えました。



 思えば、これが失策でした。



 部屋の掃除を思い立った翌日が燃えるゴミの日であったため、私は部屋の整頓の一環として、自身の不用品をこのさい断捨離しようと考えたのです。


 もちろん私は、部屋にあるKの私物には殆ど手をつけず、不要と判断した私自身の雑誌やら小物類だけをまとめてゴミ袋に詰め込み、翌日のゴミ回収へと出したつもりでした。



 私が過ちに気付いたのは、下宿のアパート前をゴミ回収車が過ぎ去った、その数時間後のことでした。



 ふと私が部屋の整頓の続きを執り行っていたところ、Kのベッド脇の、本来そこにあるはずの20センチ四方の紙箱が消失していることに気がつきました。


 ややと思って周辺を見渡しましたが、その紙箱は見当たりません。


 直後、私の背筋にはとてつもない悪寒が走りました。


 先刻のゴミ出しを行った際、私は確かに、そこにあったKの私物であるはずの紙箱をゴミ袋に放り込んだ記憶を思い返したのです。


 無論、故意にではありません。不運にも、その紙箱は私の私物を詰め込んでいた別の紙箱と形状がとても酷似していたのです。


 そのため愚かな私は誤って、私自身の紙箱と、Kの私物である紙箱を、ともにゴミとして処分してしまっていたのです。



 私はこの上ない焦燥に駆られました。


 Kは、豪快な人間でありましたが、気性の激しいわけではありません。大抵のことであれば、構わん構わんと笑い飛ばすような心の深さを本来持ち合わせている人間でした。

 されど、今回の私の失態はそのKのマリアナ海溝よりも深い懐の、更に底を抉るものに他なりません。

 なぜなら、私がゴミと一緒に捨ててしまったそれは、Kが自身の命よりも大切とするものだったからです。


 箱の中身は、推しのお嬢さんの握手券。それも400枚。


 握手券付きCDの単価が1枚およそ2000円程度であることを考えると、Kがその握手券を溜め込むのに概算で80万円以上を要したことになります。

 更にその握手券は、推しのお嬢さんの誕生日特別握手会イベント用、つまりKが、直接本人へ誕生日のお祝いの言葉を告げたいがため、連日血の滲むような労働に励んで、ようやく積み上げた汗と涙の結晶だったのです。


 あろうことか私は、そんなKの純粋なこころを踏みにじるような真似をしてしまったのです。


 Kが帰宅し、もし私がこのことを告げたら、どうなるかは想像に難くはありませんでした。

 彼はきっと怒髪天を衝くでしょう。いや、怒るならまだ良いほうです。唯一の生き甲斐を失った彼が、消沈し、塞ぎ込んでしまうおそれさえあります。


 私は彼が戻ってくるまでに、早急に手を打たねばならないと思いました。


 私はまず、この握手券付きCDを再度買い集めることを考えました。そして、こうした分野に詳しい別の友人を頼り、このCDはどこで買えるものかと尋ねました。


 すると、この握手券付きCDはとりわけ特別なものであり、既に一般販売は終了している、という悲惨な現実を告げられました。

 それでも何とか今から手に入れようとするならば、ダフ屋がネットで転売している、異常に価格の釣り上がったものを購入するより他にないとのことでした。


 言うまでもないことですが、その悪魔のような暴利がついたCDを400枚も買い求める財力は私にはありませんでした。


 私は自分の不甲斐なさを呪いました。


 それでも私は何とか自身の罪悪感を多少なりとも薄めようと、あるだけの貯金をはたき、ネットで1枚29000円で転売されていた握手券付きCDを5枚購入しました。


 たった5枚ぽっちでは、元の400枚には到底足りません。それは重々承知しておりました。私はそれからの数日間、この上ない自責の念に苛まれ続けたのは最早言うまでもありません。


 そしてKが帰宅する予定の朝、私は奈良の古都路を呆然と歩きながら、Kに何という言葉を以って詫びようかということをひたすら考えておりました。


 三条通りを抜け、猿沢池の方に足を向けました。何しろ冬の、それも平日の午前の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味あおみを失った柳の木立の茶褐色が、薄青い空の中に梢を並べて垂れているのを振り返って見た時は、まるでそれが私を呪うKの表情のように見え、寒さが背中へ噛り付いたような心持がしました。私は朝焼けの興福寺境内を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向こうの法蓮町の下宿へ戻るべく佐保川を越えたのです。私はその頃になって、ようやく外套がいとうの下に体の温かみを感じ出したぐらいです。



 私は結局、下宿へ辿りつくまでに上手な謝罪の言葉を見つけることができませんでした。


 そして陰鬱な面持ちのまま部屋のドアを開こうとしたとき、出かける際に確かにかけたはずの鍵が、空いていることに気付きました。


 私はそこで、急に心臓が高鳴り始めました。


 ドアを開くと、玄関にはKの靴がありました。

 Kは朝早く電車に乗り、私が出歩いている間に下宿へと戻っていたのです。


 思ったよりも早いKの帰還に、私は若干戸惑いました。ですが、もはや後には退けません。許してもらえるかは分かりませんが、事ここに至ってはもう、率直に謝ろうと意を決しました。

 私は靴を脱いで玄関に上がると、一呼吸置いてからリビングの扉を開きました。


 しかしそこで私の目に入った光景は、さすがに想像を絶するものでした。


 部屋の中央で、何故か椅子の上に立っているK。足元にはホームセンターのレジ袋。そして天井からは麻縄が垂れ下がっており、その先端はちょうど、人間の頭がすっぽりと入る程度の大きさの輪形に括られておりました。


「な、な、一体何を」


 その私の声にならない声が漏れ出た数秒後、亡者のように蒼白な顔をしたKはこう言ったのです。


「俺はな、もうな、生きるのに疲れたわ」


 それは冗談にしては、あまりにも性質の悪すぎる言葉です。けれどもKのその表情を見れば、彼のそれが冗談でないことは明らかでした。


「ああ、なんで」


 何でそんなことを、と言いかけて、私はそこで自分自身の愚かさにようやく気付きました。


「握手券、握手券のことは悪かった!何とかする、私が必ず何とかするから、頼むから早まったことはしないでくれ!」


 その時私に思い当たった可能性はひとつしかありませんでした。先に帰宅したKは、大事にしまっておいた握手券が捨てられていることに気付き、衝動的に自殺を図ったのだと思いました。


「…握手券?何のことや」


 私は戸惑いました。それまでは完全に、私の失敗が原因で、Kが自殺を図ろうとしているのだと思い込んでおりました。しかし、詳しく話を聞いてみると、Kの真意は別のところにあったことがわかりました。


 Kは、足下に落ちている週刊誌をおもむろに指差し、読んでみろと言いました。私はおそるおそる、その週刊誌を拾い上げてページをめくりました。


 その1面記事の内容は、Kの推しのお嬢さんに関するものでした。記事の表題には、大々と書かれた彼女の名前とともに、


『熱愛発覚!58歳オヤジと「お泊まりデート」撮った!』


 とあり、腹の出た中年男性と嬉しそうに寄り添い歩く、推しの写真が掲載されておりました。


「俺はもう、人を信じることができん」


 哀しい眼をしながら、Kはそう言いました。つまるところKは、私に握手券を捨てられてしまったせいで自殺を図ったのではなく、推しのお嬢さんに歳の離れた恋人が存在したことでショックを受け、深く絶望し、自らの首に縄をかけようとしていたのでした。


 私は、彼がここまで単純で純粋な男だとは思いませんでした。彼が推しに抱く感情はもはや単なるファンなどではなく、恋心と呼べるにまで昇華されていたのです。


「俺はアホや」


 Kの声は涙ぐんでいました。


「俺はホンマにアホや」


 そう彼は同じことを2度言いました。




 私はもはや何と声をかけて良いかわからず、ただ黙ることしかできませんでした。




 古都に吹く北風が窓を揺らし、その音だけがしばらく部屋に響いておりました。

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