若草山月記(原作:中島敦『山月記』)
奈良の
いくばくもなく大学を中退した後、実家へ篭り、ひたすら著作に耽った。社畜となって長く膝を俗悪な上司の前に屈するよりは、ユーチューバーとしての名を死後千年に残そうとしたのである。
されど、動画再生数は容易には揚らず、両親からの圧迫は日を逐うて苦しくなる。
理一郎はここで漸く焦燥に駆られて来た。
この頃からその容貌も
数年の後、貧窮に堪えず、自らの衣食のため遂に節を屈して地元のハローワークへと赴き、刺身の上にタンポポを載せるアルバイトの職を奉ずることとなった。理一郎があえてこの黙々とした単純作業を選んだのは、ひとえに対人関係能力の不足を多少なりとも自覚していた故であるが、また一方で彼が正規の職に就かなかったのは、未だ己の作家業に中途半端な未練を残していた為でもある。
しかし、かつての同輩たちが東京の華やかな官界財界において立身出世の道を邁進する傍ら、ベルトコンベアに載って無限に流れ来る刺身パックを相手に、しかも最低賃金の安い奈良の片田舎で日々孤独な格闘に励まねばならぬことが、往年の秀才理一郎の自尊心を如何に傷つけたかは想像に難くない。
理一郎は
案の定、数ヶ月で職を辞し、実家を追放された理一郎が大和川の河川敷に宿った時、遂に発狂した。
ある夜半、急に顔色を変えて段ボール製のマイホームから飛び起きると、「たんぽぽ! たんぽぽ!」と何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま闇の中へ駆け出し、二度と戻って来なかった。
その後、理一郎がどうなったかを知る者は、誰もいなかった。
翌年、総務省官僚、
次の朝未だ暗い中に出発しようとしたところ、宿の仲居が言うことに、この辺りの奈良公園には鹿が出る故、車を出すには夜が明けるまで待たれた方が良いでしょうと。
永才は、しかし、十年間無事故のゴールド免許なのを恃み、仲居の言葉を斥けて、出発した。
運転席の窓から心地よい夜風を感じつつ、永才が大宮通りを過ぎたとき、一匹の鹿が道脇から躍り出た。
鹿は、そのまま勢いよく車体に激突したが、忽ち立ち上がると身を翻して、元の
「痛いやんけ……」
と繰り返し呟くのが聞こえた。その鹿の声に永才は聞き覚えがあった。
恐懼の中にも、車から降りた彼は咄嗟に思いあたって叫んだ。
「まさか、その声、理一郎じゃないか?」
永才はかつて理一郎と同年に高校へ進学し、そのまま大学の同窓となった。交友関係の乏しかった理一郎にとって、永才は大学中退後もLINEの連絡を取り合っていた唯一の友であった。これは温和な永才の性格が、
草叢の中からは、暫く返辞が無かった。しのび泣きかと思われる微かな声が時々洩れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。
「如何にも自分は理一郎である」と。
永才は恐怖を忘れて草叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。そして、なぜ草叢から出て来ないのかと問うた。
理一郎の声が答えて言う。自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと友の前にあさましい姿をさらせようか。それに、令和とは恐ろしい時代である。斯様に人通りの少ない時間帯とはいえ、人語を話す鹿の姿など、もし万が一ここを通りかかった見知らぬ誰かが、スマホで動画を隠し撮りしてSNSにでも上げようものなら、堪ったものではない。だがしかし、今、図らずも友人に遇うことを得て、愧赧の念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭わず、かつて君の友理一郎であったこの自分とこのまま話を交してくれないだろうか。
後で考えれば不思議だったが、その時、永才は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪しもうとしなかった。彼は草叢の傍に立って、見えざる声と対談した。東京の話、旧友の消息、永才が現在の地位と家族、それに対する理一郎の祝辞。青年時代に親しかった者同士の、あの隔てのない語調で、それらが語られた後、永才は、理一郎がどうして今の身となるに至ったかを訊ねた。草中の声は次のように語った。
今から一年程前、自分が実家を追放され、大和川の河川敷に宿ったある夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚まして外へ出ると、なぜか辺りには一面のタンポポが咲いている。そしてどこか遠く見えぬところへ向けて、無数の綿毛が飛んでゆく。覚えず、自分は綿毛の吹いてゆく方へ向けて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。
何か身体中に力が充満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先には蹄を、そして頭には角を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に鹿となっていた。
自分はすぐに死を想うた。しかし、奈良公園で鹿せんべい売りの屋台を見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は他の鹿と同じように、せんべいを貪っていた。これが鹿としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなっていくのだ。
永才は、息をのんで、
声は続けて言う。
ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなってしまう前に、わが友へ一つ頼んで置きたいことがある。
他でもない。自分は元来ユーチューバーとして名を成すつもりでいた。しかし、夢果たせぬ内にこの運命へ立至ったゆえ、未だ我がYouTubeチャンネルの内に、俺の作った動画が百篇近く、非公開のまま保存されてある。これを全てお前の手で、公開設定にしてもらいたいのだ。何も、異形の身となってなお、広告収入が欲しいわけではない。世の評価は知らず、とにかく、学歴を捨て、財産を捨て、己が心を狂わせてまで生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に残さぬままでは、死んでも死に切れないのだ。
永才は、その純朴なる親友の頼みを、快く引き受けた。そしてスマホの電源を灯し、叢中の声に従ってYouTubeアカウントのログイン用IDとパスワードを入力したところ、現在既に公開されている千篇近くもの動画のサムネイルが、画面を埋め尽くすようにして現れた。
だが、そこにあった動画はいずれも、今時の若者に人気のあるゲームやバラエティといったジャンルのものではなく、
『食える雑草と食えない雑草の究極分類法』
『土手のスイーツ・蜜が美味しいお花のトップ10』
『男の山菜取り ~今、このシダ植物が美味い!~』
といったタイトルの、野生植物食をテーマにした作品ばかりであった。
「やっぱり、いつまで経っても、君の嗜好は変わらないね」
永才がそう微笑すると、草中の鹿は得意気にふふんと鼻を鳴らして答えた。
「それは、こちらの台詞だ。お前とて、ひと回り歳をとっても未だ、草花を愛でる高尚な心を捨ててはいないのだろう?」
「まあね。ただ、相変わらず君とは少しだけ、『愛でる』の意味が違うようだけど」
二人はともに、花と緑を愛する同好の士であった。
かつて初めて彼らが出会ったのも、高校一年の頃、放課後に校庭の片隅で花のスケッチをしていた永才に、「その花は茎の苦味が強くてイマイチだ。こっちの草の方が断然美味いぞ」と声を掛けたのが端緒である。もっとも、永才が生け花やガーデニングなど、鑑賞のために植物へ愛情を注いでいるのに対し、理一郎は専ら、食物として用いるために愛情を注ぐという違いはあった。だが、二人はその意外な趣味を通して意気投合し、以来、親友となった。
「いずれ来るべき世界食糧危機の前にあって、俺の雑草食の知見は必ずや喝采を博するに違いないと考えたのだが、どうやら見当は外れたらしい。数年の時をかけても、収益化はおろか、チャンネル登録者数が百人を超える事すらついになかった。大衆とは実に愚かなものだ」
ため息と共に、叢中からはそう呟くのが聞こえた。永才がスマホの画面を見ると確かに、理一郎のチャンネルには再生数が二百を超える動画さえ、ただの一本たりとも存在しなかった。
「けど、僕はたまに君の動画、楽しく拝見させて貰っていたよ」
そう微笑みながら、永才は親友の願い通り、非公開となっていた動画を順にひとつずつ、公開設定へと切り替えていった。
暫くして、「ありがとう友よ」、と安堵の声とともに、一抹の風が吹いた。
直後、草叢の中から聞こえたのは、鹿の慟哭であった。
最早別れを告げねばならぬ。鹿に還らねばならぬ時が近づいたから、と、今度は理一郎の声が言った。
だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が父母のことだ。彼等は未だ実家にいる。もとより、俺の運命に就いては知る筈がない。君が奈良から帰る前に、俺は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。
言終って、叢中から慟哭の声が聞こえた。永才もまた涙をうかべ、理一郎の意に沿いたい旨を答えた。理一郎の声はしかしたちまち又先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。
本当は、まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、我が身を案ずる父母のことよりも、己のYouTubeチャンネルを気にするような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。俺の場合、この尊大な羞恥心が畜生だった。鹿だったのだ。
これが己を損い、両親を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えていったのだ。今思えば、全く、俺は、俺のもっていた僅かばかりの才能を空費しておった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが俺のすべてだったのだ。こんな事ならば、君のように真っ当な人生を歩み、人並みに恋愛をして、家族を持ちたかった。そして、世話になった父母へ孫の顔の一つでも見せてやりたかった。だが、最早それが叶うことは永久にない。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。鹿と成り果てた今、俺はようやくそれに気が付いた。振り返ってみれば我ながら、中々笑える話だ。人の身であった頃から恋愛のひとつもできず、文字通りその辺の草を食らっていた俺が、今や鹿の身となってなお、若草山の野芝を食んでいるのだから。いわば、まさにこれが本当の、草食系男子というやつだな。友よ、笑ってくれ。この哀れな男の姿を、どうか最後に笑ってくれ。
聞いて、永才は大粒の涙をうかべた。
かつて彼の知る市田理一郎という男は、常に尊大で、他の皆が嫉妬するほど、無限の自信に満ち溢れていたはずだ。だが、その理一郎が今や、かくも卑屈で、己の全てを諦観した様となっている。その事が永才にとっては、何よりも哀しかった。
理一郎がもはや人に還る術のない事は、永才も理解していた。だがそれでも、かつての親友と最後に交わす言葉が、かくも悲しい終わりである事を、望むはずはない。
そうして理一郎がつけ加えて言うことに、今後決してこの奈良公園を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて友を認めずに尻へ齧り付くかも知れないから。又、今別れてから、自分が前方一里の所にあるあの若草山に上ったら、こちらを振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、再びここを過ぎて自分に会おうとの気持ちを君に起させない為であると。
永才は目を泣きはらし、鼻をすすりながらも、叢中に向けてこう問うた。
「いつか、君が僕に聞かせてくれた、タンポポの話を覚えているかい?」
その永才の「タンポポ」という言葉に反応するかのように一瞬、茂みからガサリと動く音がした。そして、姿なき声は答えて言う。
「ああ、無論覚えているとも。タンポポといえば天麩羅がやはり定番ではあるが、焙煎すれば非常に香ばしい風味があり、戦時中にはコーヒーの代用としても飲まれていた程だという話だな」
「いや、そっちじゃなくて、君が教えてくれた、タンポポの強さの話だよ」
「強さ?」
永才はやがて、溢れるままに声を潤ませて語った。
「タンポポは皆に踏みつけられて、たとえ茎が水平に倒れても、そこから短い茎を横向きに伸ばして、必ず花を咲かせる。どれだけ姿形が変わっても、全力で生を遂げる、そんな強さを持った素晴らしい植物だって。いつだったか、君は目を輝かせながら、俺もかく生きたいものだと、そう話してくれたじゃないか……」
言終って、叢中からは又、涙交じりの声が聞こえた。
「まったく食えない奴だ。草だけに、お前もな」
その涙声はしかし先刻と違って僅かながら、あの自ら恃むところ厚き、往年の秀才の語気を含んでいた。
永才は草叢に向って、ねんごろに別れの言葉を述べ、車に乗った。草叢の中からは、又、堪え得ざるが如き悲泣の声がもれた。永才も幾度か草叢をバックミラー越しに振返りながら、涙の中に出発した。
しかる後、永才は言われた通りに振返って、薄明かりの中に浮かぶ若草山の緑を眺めた。忽ち、一匹の大鹿が草の茂みから丘の上に躍り出たのを彼は見た。鹿は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の草叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。
だがそれから、幾らかの年月が過ぎた頃のことである。
日々の通勤電車にて新聞を読むのが習慣であった永才は、偶然にもとある地方記事のひとつに目をひいた。それは、希有なアルビノの白鹿が奈良公園で新たに誕生したことを報じるものであった。
写真には、雪のような冠状の白毛をたたえた子鹿に、寄り添うつがいの親鹿の姿。
そのつがいの一方は、見紛う事なき、かの若草山の大鹿であった。
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