【書籍発売中!🦌】今昔奈良物語集

あをにまる

走れ黒須(原作:太宰治『走れメロス』)

 黒須くろすは激怒した。


 必ず、かの邪知暴虐じゃちぼうぎゃくのぼったくりバーを除かねばならぬと決意した。


 黒須には常識がわからぬ。黒須は、奈良在住の無職である。大仏を拝み、鹿と遊んで暮して来た。けれども金に関しては、人一倍にケチであった。


 今日夕刻、黒須は大和八木を出発し、近鉄電車で野を越え山を越え、悪友の瀬川せがわと共に十里離れたこの大阪の繁華街、宗右衛門町そうえもんちょうにやって来た。

 黒須は妻も、彼女も無い。職も無い。齢七十四の、腰の曲がった母親と二人暮しである。この母は近々、後期高齢者に分類されることになっていた。喜寿きじゅも間近かなのである。黒須は、それゆえ、本日支給されたばかりの母の老齢年金を勝手に財布から抜き取り、はるばるこの夜の街に遊びに来たのだった。


 黒須と瀬川は先ず、適当な居酒屋で一杯引っかけ、それから宗右衛門町の大路をぶらぶら歩いた。そこで出会ったポン引きの男に捕まり、「可愛い女の子いるよ」という甘言に乗せられるがまま、とある雑居ビルのキャバクラへと入っていった。


 瀬川は黒須の刎頸ふんけいの友であった。今は岸和田の実家で、ニートをしている。久しく逢わなかったものだから、共に一晩を飲み明かすのが楽しみである。

 

 だが、酒を飲んでいるうちに黒須は、店の様子を怪しく思った。ひっそりしている。内装の照明が薄暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、照明のせいばかりでは無く、店全体が、やけに寂しい。ポン引きの男が言っていた、「可愛い女の子」も一向に出てくる気配がない。

 のんきな黒須も、だんだん不安になって来た。手元に置いてあったメニュー表をつかまえて、パラパラとめくった。だが、全てのメニューに金額は記載されていなかった。その時には既に、黒須たちは生中4杯とフルーツ盛り合わせを平らげてしまっていた。

 ふと、黒須が、このフルーツ盛り合わせは一体いくらなのかと店員に問うたが、店員は、首を振って答えなかった。しばらくうつむいてメニュー表を見直してから、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。店員は答えなかった。黒須はついに嫌な予感がし、もうここらで会計して下さいと伝えた。


 店員は低声で、こう答えた。

 

「税込み49万8600円になります」


 二人は驚愕した。


「おどろいた。店長は乱心か」


「いいえ、乱心ではございませぬ。正当な料金でございます」


 聞いて、黒須は激怒した。


「呆れた店だ。そんな大金は払えぬ」


 黒須は、単純な男であった。愛用している安物のショルダーバッグを背負うと、のそのそと出口へ向かって行った。だがたちまち彼は、屈強な黒服に殴り飛ばされ、捕縛された。


 黒須たちは、店長の眼前に引き出された。


「お兄さん方、代金はちゃんと払って貰わないと困るなぁ」


 店長の太田は静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その太田の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。


「け、警察にチクってやる!」


 と黒須は震えながら答えた。


「おまえがか?」


 店長は、憫笑した。


「仕方の無い客だ。じゃあちょっと裏の事務所まで来てもらおうか」


「そ、それだけは勘弁して下さい!」


 と、途端に黒須は、額を地にこすりつけて土下座した。


「じゃあ、代金払って貰おうか」


 店長は、さっと顔を挙げて報いた。


「ああ、店長は利口だ。私は、ちゃんと代金を払う覚悟で居るのに。ただ、――」

 

 と言いかけて、黒須は足もとに視線を落とし瞬時ためらうと、


「ただ、私に情をかけたいつもりなら、少しばかりの猶予を与えて下さい。手持ちの金が足りず、即金で払うことができないのです。ものの数分のうちに、コンビニのATMで現金を引き出し、必ず、ここへ帰って来ます」


「ばかな。」と店長は、しわがれた声で低く笑った。


「とんでもない嘘を言うわ。逃がした小鳥が帰って来るというのか」


「そうです。帰って来るのです」


 黒須は必死で言い張った。


「私は約束を守ります。私を、少しばかり自由にして下さい。もし私を信じられないならば、よろしい、この瀬川という男がいます。私の無二の友人だ。これを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、本日の閉店まで、ここに帰って来なかったら、この友人を大阪湾に沈めて下さい。たのむ、そうして下さい」


 それを聞いた瀬川はぎょっとしたが、店長は、残虐な気持で、そっとほくそ笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、マグロ漁船に売り飛ばしてやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男をインド洋に送り出してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。


「願いを、聞いた。午前5時の閉店までに帰って来い。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの代金は、チャラにしてやろうぞ」


「なに、何をおっしゃる」


「はは。自分の身が大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ」


 黒須は口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。

 刎頸の友、瀬川は、深夜、雑居ビル裏の事務所に召された。瀬川は青い顔をしながら無言でうなずき、黒須をひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。瀬川は、縄打たれた。黒須は、すぐに出発した。

 初夏、午後9時10分。満天の星であった。


 黒須がその後、路を急ぎに急いで、最寄りのコンビニのATMへ到着したのは直後の午後9時14分。街はまだまだ宵の口であったが、花の金曜とあって道往くサラリーマンたちが頭にネクタイを巻き、千鳥足で歩いていた。

 黒須は手早くキャッシュカードをATMに差し込むと、画面上に表示された引き出しボタンを押した。

 だが、非情にもそこに映し出された口座の残高は4桁に満たず、到底代金の支払いに足るものではなかった。


「仕方が無い」


 黒須は無理に笑おうと努めた。


「こうなってはやむを得まい。奈良の実家にある金を取りに戻ろう」


 黒須は、また、よろよろと歩き出すと、今度は駅の方へと向かった。事ここに至っては、一旦自宅へ帰って、母がため込んでいたタンスの中のヘソクリを拝借し、それを代金の支払いにあてるより他に無いと考えたのである。


 黒須は電車に飛び乗ると、片道一時間半をかけて自宅へと戻った。そうして、母親が寝静まっていることを確認したうえで、ゴソゴソと桐箪笥の中身を漁った。

 だが、そこにあるはずの現金が入った封筒は、忽然と姿を消していた。


「なぜだ、無いではないか」


 黒須はここにきてようやく、焦燥に駆られた。そして、全ての引き出しを空け、片端から中身をぶちまけたが、目当ての物は現れなかった。


「おのれ、ババアめ!定期預金にしやがったな!」


 黒須は憤ったが、ふと自身の携帯電話へ瀬川からの不在着信が何十件と来ていることに気がつくと、途端に冷静さを取り戻し、次の手を考え始めた。


「たしか、ババアの財布にあったクレジットカードは与信枠の上限が50万円だったはずだ。これを利用するとしよう」


 言わずもがな、そのカードは母親のもので、息子のものでは無い。常識ではままならぬ事である。だが黒須は、親族相盗は警察が不介入であることもよく知っていた。あすの夜明けまでには、まだ十分の時が在る。ちょっと一旦拝借して、また帰ったら元の財布にしまっておこう、と考えた。

 黒須は慣れた手つきで母親の財布をまさぐると、目当ての品はすぐに見つかった。更に僥倖なことに、暗証番号はカードの裏にマジックで書いてあった。

 だが、黒須がほっとした時、突然、目の前に人影が躍り出た。


「待て。馬鹿息子」


 影の主は、紛う事なき黒須の母親であった。


「何をするのだ。私は陽の昇らぬうちに大阪へ戻らなければならぬ。放せ」

「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け」

「私にはこのクレジットカードの他には何も無い。その、たった一つのクレジットカードも、これからキャバクラの店長にくれてやるのだ」

「その、カードを返せと言っている」

「さては、ババアめ、ここで私を待ち伏せしていたのだな」


 母は、ものも言わず金属バットを振り挙げた。黒須は咄嗟にからだを折り曲げ攻撃を躱すと、


「気の毒だが正義のためだ!」


 と猛然一撃、たちまち、母親の脇を押し抜け、ひるむ隙に、さっさと走って家を出た。一気に峠を駈け降り、大和八木駅へ辿りついたが、飛び乗った電車の座席に座った途端、流石に疲労と酒の影響から眠気がし、めまいを感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、うとうとしたのち、ついに、がくりとを首を折った。


「……客さん、お客さん」


 黒須の眼をさましたのは、近鉄の車掌の声であった。


「お客さん、この電車、終点ここまでなんで」


 ああ、寝ていて気付かぬうちに、もう終点の上本町まで着いていたかと思い、立ち上がった途端、眼に入った駅の看板を見て黒須は愕然とした。


「まだ五位堂……だと……」


 黒須は、各駅停車に乗ってしまった己が失態をようやく悟った。そして、時計を確認すると、それが最早取り返しのつかないことであると判明した。


 現在時刻、午前0時8分。

 奈良からこの先の大阪方面へ向かう電車は、もはや存在しなかった。


 黒須は天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、韋駄天、ここまで突破して来た黒須よ。真の勇者、黒須よ。今、ここまで来て、動けなくなるとは情け無い。

 タクシーに乗ろうにも、手持ちの現金はほとんど置いてきてしまったため、難波までは到底辿りつけない。かといってカードを使ってしまうと、既に店の代金ギリギリである限度額がすり減ってしまう。


 二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難。黒須の足は、はたと、とまった。


 見よ、前方の二上山を。

 彼は茫然と立ちすくんだ。 


 あちこちと駅のロータリーを眺めまわし、また、声を限りにヒッチハイクを呼びたててみたが、渡りに船はやって来なかった。黒須は道端にうずくまり、男泣きに泣きながら釈迦に手を挙げて哀願した。


「ああ、御仏よ助けたまえ! 時は刻々に過ぎて行きます。夜も既に更け時です。日が昇らぬうちに、キャバクラへ行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために大阪湾の魚のエサとなるか、生駒の土となるのです。」


 そうして時は、刻一刻と消えて行く。されど黒須は覚悟した。こうなったら走り切るより他に無い。ああ、薬師如来も照覧あれ!誰にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。


 黒須は、駅前に駐輪してあった誰の物とも知らぬ自転車に跨がり、必死の闘争を開始した。満身の力を足にこめて、押し寄せ引きずる坂道を、なんのこれしきとひたすらにペダルを踏みしめた。


 ついに永遠の如く長い登り坂を越えると、黒須は大きな胴震いをして、すぐに  

 また先を急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。時刻は既に午後一時。

 ぜいぜい荒い呼吸をしながら大和川にかかる橋を渡り、柏原市を越え、八尾市を越え、平野区を越え、ついに目前にはバベルの塔が如くそびえ立つ、あべのハルカスが見えた。

 だが、通天閣の脇を過ぎた途端、負荷に耐えかねた自転車の前輪が悲鳴をあげ始め、ガリガリという不吉な音と共にチェーンは回転を止めた。

 黒須は使い物にならなくなった自転車をたちまちその場に打ち棄てると、路行く人を押しのけ、黒い風のように走りだした。ジャンジャン横丁の立ち飲み屋の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、酔っ払いを跳ね飛ばし、ドブを飛び越え、少しずつ沈んでゆく星々の、十倍も早く走った。急げ、黒須。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。 


 呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、かの雑居ビルのネオンが見える!


「まだだ、まだ陽は昇らぬ!」


 最後の死力を尽して、黒須は走った。黒須の頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。夜明けの光が、うっすらと地平線を覆い始め、太陽のまさに一片が垣間見えようとした時、黒須は疾風の如くキャバクラに突入した。間に合った。


「待て。わが友を殺してはならぬ。黒須が帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た!」


 と大声でその場の店員たちにむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり。


「私だ、店長! 代金を持ってきた。彼を人質にした男は、ここにいる!」


 と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、黒須は縄打たれた友の両足に、かじりついた。店員たちは、どよめいた。


「瀬川!」


 黒須は眼に涙を浮べて言った。


「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」


 瀬川は、すべてを察した様子でうなずき、鳴り響くほど音高く黒須の右頬を殴った。殴ってから瀬川は優しく微笑み、


「黒須、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの晩、たった一度だけ、いや正直60回くらい、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」


 黒須は腕にうなりをつけて瀬川の頬を殴った。


「「ありがとう、友よ!」」


 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。そして黒須は、店長にクレジットカードを差し出した。


「約束の代金を払おう」


 店長は、群衆の背後から二人の様をまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、こう言った。








「お客さん、うち、カード使えないんで」





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