三月十五日


十一月三日の日記に、来年の春のためにチューリップの球根を買ったことについての記述がある。植え付け時期を忘れなければいいが、と十一月三日の私は書いているが、その後の私はとても偉かった。おととい最初のチューリップが、今日、二番目と三番目のチューリップが咲いた。


チューリップを咲かせたのは数十年ぶりである。数十年前、私の家の庭には花壇があり、春になると赤と黄色のチューリップが咲いた。花がおわった後に地面を掘ると、小さな球根にまじってカブトムシやクワガタの幼虫があらわれた。花壇をみおろす縁側の隅には水槽が置かれ、兄が釣ってきたフナを入れる。夜中にフナは高く跳ね、外に飛び出して、そのまま死ぬ。


縁側には猫もやってきた。小学校の夏休み、知らない猫が網戸の隙間から入ってきて、家の中を悠然と通り抜けていった。一度や二度ではなかった。私の家は猫の通り道だったのだ。母は猫が嫌いだったから、このことは一度も話していないし、母のいるとき猫はけっして現れなかった。猫は玄関の鳥かごを襲い、裏庭のボイラーで暖をとっていた。家の中を通り抜けた猫と、玄関の鳥かごを襲った猫と、ボイラーで暖をとった猫は、すべて異なる猫だ。


庭には金木犀、白木蓮、泰山木、山茶花、沈丁花、薔薇があった。沈丁花の木は私が小学校の五年生のころ、園芸クラブで挿し木をして、家に持って帰ったもの。夏の昼間は泰山木の幹でセミが鳴く。夜は草の中で鈴虫その他の虫が鳴く。どちらもとてもうるさいので、虫とはけっして風流に鳴けない生き物だと学ぶ。


中学校三年生の夏休み、世界じゅうで起きているのは私だけだったはずの丑三つ時、窓の外でガサガサと草が鳴り、むらかみさんの手がブラインドのあいだからにゅっと伸びる。すぐ隣で犬がまるい目をみひらき、はねさんが散歩のついでに遊びに来たよ、という。むらかみさんの犬はすこし吠え、すると遠くのどこかでべつの犬が吠えた。


あのころは、あちこちで犬の吠え声が聞こえた。小学校一年生の通学路は、貯水池のそばを抜ける山道だ。たまに野良犬が出ると恐怖で足が止まってしまう。うしろ向きにさがって、犬が吠えないうちに、ついてこないことを祈りながら、そうっと、そうっと道をいく。あのころの恐怖の意味は、もうはっきりと思い出せない。一年前に何を怖がっていたのかすら、今はとてもぼんやりしている。

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きみを呼ぶのは生きている者だけだ 河野聡子 @okokotosan

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