春日千夜

 たぷたぷ、とぷとぷと、川は流れる。

 いつから自分がそこにいるのか、川は分からない。

 最初は小さなせせらぎだった水は、山肌を削り大きな流れとなった。

 長い長い時を川は孤独に過ごしたが、いつからか人が集まり、川と共に生きるようになった。


 ――人とは面白いものだな。獣とも魚とも違う。


 川は人を眺めるのが好きだった。

 しかし川の想いとは関係なしに、川は時折暴れなくてはならない。

 幼い頃から見守ってきた子や、少しずつ大きくなっていく村を、川は自らの手で壊す。

 その度に、消え行く命と立ち上がる人の姿に川は涙した。



 ///



 そうして幾度も月は巡り。

 ある時、川に一人の娘がやって来た。

 川は娘が生まれた時から知っているが、その日の娘は、今にも泣き出しそうな顔を川に映していた。


 ――人が泣くのは珍しくはないが……。


 川は知っていた。娘が人一倍、負けん気が強い事を。

 父が死に、母が死んでも、娘は幼い弟妹のために決して泣かなかった事を。

 川が不思議に思っていると、声もなく泣いた娘は小石を川に叩きつけ、村へ帰っていった。



 数日後、川は娘が泣いていた理由を知った。

 娘の足に縄が括られ、重石と共に川へ落とされたから。


『死にたくない。死にたくない』


 娘の悲痛な叫びが、川の胸にこだまする。

 川は娘を救いたかったが、どうする事も出来ない。

 やがて冷たくなった娘を抱いて、川は泣いた。


 ――なぜこのような事を。


 川の涙は大きなうねりとなって、村を押し流す。

 しかし人は退く事なく、娘を抱く川の身に、多くの土砂を入れ、橋を架けた。

 橋の袂に碑が置かれた事で、娘が橋の礎にされたのだと川は知った。


 人はそれから、幾度も妙齢の娘を捧げては、川に橋を架けた。川はその度に泣いて村を壊したが、人の行いは変わらない。

 やがて川は泣くのも疲れ、心を閉ざした。



 ///



 どれだけ月が巡ったのか。

 いつしか人の営みは変わり、人柱をたてる事もなくなった。

 村は町になり、川には堰が作られ、獣も魚も数を減らした。

 人が滅多に近付かなくなっても、川は文句も言わずに流れるだけだ。

 立派になった橋を見上げる事もなく、その日その日を川は暮らした。



 そんなある日の事。

 久方ぶりに、一人の娘が川の元を訪れた。

 その娘は、いつかの娘のように、今にも泣き出しそうな顔を川に映した。

 それを見て、凍っていた川の心が、僅かに揺れた。


 ――また人を投げ入れるつもりなのか。これほど小さな娘まで、ここへ来るのか。


 幾年月も遠ざかっていた悲しみ。

 しかしいかに苦しくとも、川に出来る事は何もない。

 娘は声もなく泣くと、小石を叩きつけ、帰っていった。


 ――また我は、救えないのか。


 川は泣いた。

 川の涙は大きなうねりとなって、橋を、堰を叩く。

 しかしどれだけ力を込めても、かつてのようには暴れられない。


 川は無力さを感じ、再び心を閉ざした。

 しかしそれから幾日経っても、一向に娘の身は投げられなかった。


 ――あの娘が泣いたのは、なぜだ。


 川は何十年かぶりに、人の営みに目を向けた。

 町は石のような物で作られ、川の知るものではなくなっていた。

 川には到底手の届かない土手には、朝に夕にと、多くの人が歩いた。

 夫婦で手を繋ぎ歩く者。犬を連れて笑う者。鉄の輪を連ねた物で走る者。様々な人の姿があった。


 あまりに変わった景色に驚きながら、川は立派になった橋にも目を向けた。

 そこには人を乗せた鉄の箱が、ひっきりなしに走っていた。

 人は川に涼を求める事も、釣りに来る事もなかったが、確かに川のそばにいた。


 ――我の知らぬ間に、人は変わったのか。飢えた者はおらず、皆悩みはあれど、幸せそうに笑っておる。


 凍っていた川の心に、暖かな日が煌めいた。



 ///



 遥か昔と同じように、川は人を眺めるのが好きになったが、川の想いとは関係なしに、川は時折暴れなくてはならない。

 しかし川がいくら暴れても、もう誰も傷付く事はなかった。

 平穏な日々に川は喜び、たぷたぷ、とぷとぷと流れる。


 泣いていた娘は、川の元へ度々やって来るようになった。

 家族の事、友達の事、恋人の事、進路の事。娘は成長するに従い、色んな事を川に話した。

 川は相槌など何も打てなかったが、娘は飽きもせずに何度もやって来て、一人で話しては帰っていった。

 川と語らう娘の姿を見て、徐々に川のそばへやって来る人が増えていった。

 川は娘を通して、かつてのような人との関わりを取り戻していった。



 そんなある日の事。

 数人の子どもが、川のそばへやって来た。

 川が子どもを眺めていると、そのうちの一人が足を滑らせた。


「あっ!」

「かっちゃん!」

「だれか、たすけて!」


 落ちた子どもは必死にもがき、共に来た子どもたちは、大人を呼びに行く。

 その間にも、子どもは川の底へと落ちていく。


『死にたくない。死にたくない』


 かつて何度となく聞いた、悲痛な叫び。

 川の中に、何かが溢れた。


 ――もう我は、誰も死なせたくはない……!


 川は身をよじり、うねりを作る。

 少しでも子どもを持ち上げようと、川は懸命に動いた。

 しかし子どもは、なかなか浮かび上がらない。だがそれでも、川は諦めなかった。


 すると、どうした事だろう。

 かつて沈んだ娘たちが、川に手を貸した。

 何本もの手が伸びて、子どもを上へ上へと押し上げる。

 そこへ、川岸から娘が飛び込んできた。


 幼い頃から川が見守ってきた娘は、子どもを掴み、岸へ引き上げる。

 遅れてやって来た大人たちに、娘は子どもを引き渡した。


「君は競泳の川神選手だね。泳ぎに自信があるのは分かるが、一人で飛び込むのは危険だよ」

「分かってます。でも、呼ばれた気がしたんです」

「呼ばれた?」

「私のご先祖様、ここにいるんですよ」

「ここって……川に?」

「はい。なのできっと、私は大丈夫ですよ」


 微笑んだ娘を見て、川は、はっとして腕の中へ目を向けた。

 かつて川の元へ投げ込まれた娘たちが、安心したように笑って、空へ昇っていった。



 何百年と共に過ごした娘たちを見送っても、川は変わらず、たぷたぷ、とぷとぷと流れる。

 しかし川はもう、孤独ではない。

 時折訪れる娘の成長を見守りながら、川は今日も静かに流れる。

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春日千夜 @kasuga_chiyo

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