水の記憶

泣村健汰

水の記憶

「雫さん、大丈夫ですか?」

 木々をかき分けるようにしながら獣道を進む最中、凛平はふと、後ろを歩く雫の速度が落ちている事に気がついた。

 足を止め、振り向いて声を掛けると、ええ、これ位、何でもないです、と、手弱かな笑みが返ってくる。

 絶え絶えとまではいかないが、若干息を切らしながら強がりを言う雫の様子を見て、凛平は彼女に気取られぬように速度を落とそうと決めた。

 とは言っても、それ程悠長にしている訳にもいかない。

 日の出と共に出発し、太陽はまだ天頂に輝いているとは言え、帰りの事も考えると、目的を達するなら早いに越した事は無い。

 残暑の為、気温はそれ程低くはないが、九月の日の入りは想像以上に早い。日が暮れてしまえば、この獣道だ。あっと言う間に方位を見失い、遭難しかねない。

 凛平は歩みを止めずに、ちらりと雫の状況を確認した。

 決して健康的とは言えない、骨ばった細い身体。青白い肌。そして、病弱な印象を受ける全体像とは裏腹に、人一倍生命力を感じさせる大きな瞳。その目蓋の上を、大粒の汗が幾度も流れて行く。

 首に巻いたタオルで幾度も汗を拭きながら、それでも雫は歩む速度を落とそうとはしなかった。


 凛平と雫は、義妹と義兄の関係にあたる。

 凛平の弟、慎平が雫を娶ったのは、今からおよそ三年前。

 初めて雫が実家に挨拶に来るよりも前に、慎平に実家近くの喫茶店で、彼女を両親に会わせたいから協力して欲しい、と紹介されたのが、二人の出会いだった。

 凛平は初めて雫を見た時、素直に、綺麗な人だなと感じた。

 全体を包む手弱女の印象は、男性的独占欲を刺激し、相反するように開かれた大きな瞳からは、力強い生命力が感じられる。そのアンバランスさもまた、彼女を取り巻く魅力の一つなのだろうと、凛平は雫の事をそう認識した。

「いい人を見つけたじゃないか」

 二人のこれからを祝福しよう、凛平はその時、確かにそう思った筈だった。

 人当たりの良い雫の事を両親も気に入り、雫は晴れて、沢渡の性を名乗る事と相成った。

 当時一人暮らしをしていた凛平は、弟が雫を娶ってすぐに実家へと戻り、両親と同居を始めた、と言う話を母から聞かされた。

「雫さん、本当によくしてくれるのよ。あんたもさっさと、いいお嫁さん見つけなさいね」

 嬉しそうに話す母の声音から、ああ、彼女は無事に沢渡家に馴染んだのだなと、その時は嬉しく思った。

 だけれども、凛平が正月休みで帰省をした際、両親よりも先に迎えてくれた雫を見て、言い知れぬ違和感を感じた。

「あら、凛平さん。お帰りなさい」

「ああ、ただいま、雫さん」

 玄関口で、条件反射のように彼女に挨拶をしたが、そのやりとりは、凛平の胸の内に随分と空々しく響いた。

 ――雫さんに、ただいま、か……。

 帰省は一週間程の予定だったが、凛平は早々に切り上げ、三が日を過ぎてすぐに、一人暮らしのアパートへと戻ってきた。

 慎平や母に付き添いながら、甲斐甲斐しく家事をこなす雫の姿に、凛平の心は微かにささくれ立った。

「雫さん、どう?」

 凛平に尋ねられた父の平蔵は、正月だからか昼間から酒は入っていたが、しっかりとした口調で、ああ、とても良くしてくれる、と上機嫌に笑った。

 帰りの車中、凛平は自分の心に問いかけ、雫によって自分の居場所が、沢渡の家から取り去られてしまったように感じたのかもしれない、と結論付けた。

 杞憂だ。

 杞憂でしか無い。

 そう自身に言い聞かせるも、凛平の心が静まる事は無かった。

 そしてその翌年、凛平は年末に帰省する事すら、躊躇う事になる。

 秋頃、雫が身籠ったとの知らせを受けたからだ。

 沢渡の子孫が出来るとなると、きっと今頃両親は泣いて喜んでいるだろう。そうなれば、自分が顔を見せた所で、邪魔な存在にしかならないのでは無いだろうか?

 慎平から受けた、雫の懐妊の電話を切った後、凛平はアパートのベランダで煙草を燻らせながら、そんな子供染みた思いを馳せていた。


 斜面が勾配を増していく。

 一度この坂を登り切れば、少しなだらかな地帯に出る筈だ。そこへ到着したなら一度休憩としようと、凛平は額の汗を拭いながらそう考えた。

「雫さん、ゆっくりでいいですから。ゆっくりで。まだ焦らずとも、日は高いんですから」

 後ろを進む雫に声を掛けるが、ぜぇぜぇと漏れる息には、先程までの虚勢すら感じられない。

 健脚とは言えないが、それでも順調に足を進ませていた雫が、つい30分程前に、一度胸を押さえて蹲ってしまった。凛平が慌てて駆け寄ると、すいません、少しだけ、と言う辛そうな声が漏れ聞こえた。

「何か、持病などをお持ちなんですか?」

「いえ、持病と言う程のものではないんです。ただ、如何せん体力が無くて、胸の辺りが、苦しくなるんです」

 凛平は雫の許可を得て、彼女の背中に手を当て、ゆっくりとさすった。

 ウインドブレーカー越しに触れる背中。女性の肉感的な物とは程遠く、風が吹けば折れてしまうのではないかと思う程、あまりに弱々しい。

「ありがとうございます。大丈夫です、行きましょう」

 本当に僅かな時間だけ歩みを止めた雫は、鈍足ながら、再び足を動かし始めた。

「ちょっと待って下さい」

 急角度の斜面を案じ、凛平は雫を呼び止め、自身の身体と雫の身体をロープで結び付けた。

「ザイルにしてはちょっとお粗末ですが、雫さんが足を滑らせないとも限りませんので。気休めのアンザイレンのような物だと思って下さい」

「アンザイレン、ですか?」

「ええ、そうです。本来ならもっと頑丈なザイルを使うのですが、こうして、自分のバディーと縄を結び合い、共に山を登り、共に降りると言う、誓いを立てるようなものです」

 雫の体力の無さを考えれば、この程度の山でも十分この状況は予想出来た筈だ。凛平は細いロープしか持って来なかった自分の浅慮を悔いたが、彼女の体重くらいなら、このロープでも充分支え切れるだろうと考え直す事にした。

「慎平さんとも、こうして、二人で山を登り合ったのですか?」

「ええ、そうです。ガキの頃はよく二人で山を駆け、大人になってからは、文字通り、一心同体となって、山を登りました」

 凛平の言葉を聞いた途端、雫は柔和に微笑んだ。

 ――なぁ慎、俺はお前が羨ましい。

 凛平は心の内で、慎平にそう呟いた。


 互いに実家を出て、顔を合わせる機会が少なくなっても、慎平と凛平は時間を作り、年に一度は共に登山へと出掛けた。

 それ程険しい山に登る訳では無かったが、それなりの装備を整え、まるで儀式のように互いをザイルで繋ぎ、山を登った。

 ある年、冬山の頂上付近で、二人は凍りついた大きな湖を見つけた。

「これは、カルデラ湖か?」

 凛平が問うと、慎平からは余裕の混じった笑みが返ってきた。

「まさか、ここが火山だったなんて、聞いた事も無い。たまたま窪んだ土地に降り込んだ雨が、そのまま流れず凍ったんだろう」

「そうか、それにしても、随分大きいな。こう言うの珍しいんじゃないのか?」

「ああ、こんなに大きいのは珍しいな。しかも凍りついてる。なかなかお目にかかれるもんじゃないだろうな」

「ちょっと近づいてみるか」

 二人は慎重に足場を確認しながら、その珍しげな湖に近寄った。

 冬の西日に照らされてキラキラと輝くその湖から、凛平は何か不思議な力を感じるようだった。そのまま暫時、二人は湖の美しさに心を奪われた。

「なぁ兄貴。こんな話知ってるか?」

 不意に慎平が、得意気に口を開いた。

「地球が一つの生命体だっていう学説」

「ああ、聞いた事はあるよ」

 地球は、人間と同じように生きている。

 そう唱えている学者や自然論者が少なく無い事は、凛平も耳にした事があった。

「山登りを繰り返していると、山がまるで意思を持っているかのように感じる事はままあるからな。まんざら馬鹿に出来た話じゃない」

「じゃあ、地球が、人間の脳の構造と酷似しているって言うのは?」

「人間の脳と? いや、初耳だ」

「そうか。人間の脳は、まだまだ未知の部分を秘めている。だけど、地球の水の流れと、脳内のシナプスの流れが、良く似ている箇所がままあるんだそうだ」

「俄かには信じがたいな。それって、どういう事なんだよ?」

「だから、地球が今まで記憶してきた物は、全て地球上の水に溶け込んでるって事だよ」

「それが、川を流れて、世界中で共有されているってか?」

 凛平が半ば呆れたように問いを返すと、さぁ、そこまでは分からない、と冗談めかした言葉が慎平から返って来る。

「でも、こう言う場所に、こんなでかい水たまりがあるのって、何だか不思議じゃないか? だから、ここにもまた、地球の忘れ去られた記憶の一部が、眠ってるんじゃないのか、って事さ」

「おい慎、お前詩人にでもなるつもりか? 随分ロマンチックな事を言うじゃないか?」

「茶化すなよ。それに、朴念仁の兄貴と一緒にすんなよ、これ位、嗜みの一つさ」

「嗜み、ね。さ、道草もこの辺にして、さっさと登っちまおう」

 凛平が湖に背中を向けると、その背中に、慎平から言葉が掛けられた。

「なぁ兄貴、実は、協力して欲しい事があるんだ」

「協力? 水臭いな、何だよ」

 凛平が振り向くと、そこには光り輝く湖を背景に、誇らしげに笑う弟の姿があった。

「俺、今度結婚する事になったんだ」


 鬱蒼とした木々の急斜面を登り切ると、一転して視界が開けた。

 周囲からは、人の手が入ったような気配がそこかしこに感じられる。切り倒されたのだろう、既に切り株となった木々達を眺めながら、凛平は自身のリュックサックから地図を取り出した。

 地元の人の案内によれば、急斜面を登ると、上質な杉が生えている地帯があるのだと言う。自然保護の観点から、今年の分の伐採はもう終えてしまった為、人が居る訳では無いが、それでも休憩場所とするには、斜面よりも幾分か具合がいいだろう、と聞かされていた。

「だけどもあんたら、まさか妙な事は考えておらんだろな?」

 訝しげな目を向けてくる初老の町役場職員に、凛平はまさか、と笑った後、死ぬならもっと見つからない場所を選びますよ、と言ってのけた。勿論、後ろで座っている雫に聞こえないように、声を潜めて。

「滅多な事は言うもんじゃない。まぁ、そんだらいいんだけど。この時期、なんの為にあんな所へ行くんだい?」

「奥に、湖があると聞きまして」

「ああ、あるよ。山頂付近から流れてくる川の水が溜まった、大きい水溜まりみたいなのがあるが、ここからでもまだ随分距離があるし、他にはなーんもないよ? 何の為に?」

「好きなんですよ、湖とか、川とか、秘境探検ってやつですね」

「はぁん、随分と変わった趣味をお持ちで。まぁ、危ない事はせんでくれよ。来年以降の施工で支障が出たら、たまったもんじゃないからね」

 充分な念押しをされた後、凛平は男性に礼を言って、雫と役場を後にしたのが昨日の事だ。それから近くの安宿で一泊して、日も昇りきらぬ内に山へ入った。

 ゆっくりとした足取りで、雫が斜面を登って来た。

「雫さん、少しこの辺りで休みましょう」

 座れるような大きさの、二つ並んだ切り株を見つけた凛平は、雫を促し、そこへ座らせた。そして自身も、背負っていた荷物を置き、隣の切り株へと腰を落ち着ける。荷物の中からミネラルウォーターの入ったペットボトルと、おにぎりを一つ取り出し、雫に手渡した。

「落ち着いてからでいいので、少しでも食べましょう」

「すいません、ありがとうございます」

 息は上がってはいたが、先程よりも幾分か、雫の血色は良くなっていた。

 凛平も同じように、ペットボトルとおにぎりを取り出し、齧りついた。

 ――ここで、漸く半分って所か……。

「ねぇ、凛平さん?」

 タオルで汗を吹きながら、くぐもった声で雫は凛平に声をかけた。

「なんですか?」

「……こんな事に付き合ってもらって、本当にありがとうございます」

「どうしたんですか、改まって?」

「いえ、まだ、ちゃんとお礼もしていないと思いまして。すいません」

「いいんですよ、それに……」

 凛平はそこでペットボトルの水を一度口に含み、言葉を選ぶ時間を作るようにゆっくりと飲み込んでから、考えを声に出した。

「これは、雫さんだけの問題じゃないし、その、俺にとっても、いい機会だったんです」

 ――それに、家族じゃないですか。

 凛平はそう付け加えようとしたが、それを口にしてしまうと、随分と空々しく聞こえてしまうだろうと思い直し、再びおにぎりに齧りつき、飯粒と共に言葉を飲み込んだ。


『兄貴。お袋に聞いたんだが、今年返って来ないって本当か?』

 そう慎平が電話を掛けてきたのは、12月の中頃の事だった。

「ああ、仕事の方も色々立て込んでるし、とんぼ返りになっても、落ち着かないしな」

 凛平は咄嗟に嘘を吐いた。

『嘘吐くなよ。今までだって、どんなに期間が短くても、顔見せる位してたじゃないか?』

 嘘を一瞬で見抜かれてしまった凛平は心の内で、ま、そりゃそうだわな、と呟き、自虐的にほくそ笑んだ。

『雫の事を気に掛けてくれてるんだろ?』

「ああ、仕事が忙しいってのも全くの嘘じゃ無いが、今の俺は、もうすっかりお客様だからな。今年の正月位、雫さんをゆっくりさせてやれよ。来年からもう一人増えたら、それこそ大童だろう?」

『それなら、もう気にしなくていいよ……』

 電話口でも一瞬で分かる程、慎平の声音があからさまに沈んだ。

「どうした、何かあったのか?」

 聞き返してみたものの、凛平の頭には既に、ある予感が過ぎっていた。

『ああ……、子供、駄目になったんだ……』

 予感は裏切られず、一瞬言葉を失った凛平だったが、なんとか言葉を紡いだ。

「一体、どうして?」

『元々、雫は身体が丈夫な方じゃないから、それが原因じゃないのか、って……』

「そんなの、説明になってないだろ?」

『でも、医者も原因が分からないんだって……。妊婦の10%は、原因不明のまま子供が流れてしまう事があるから、運が、悪かったんだろうって、言われた……』

「そんな……。雫さんは、どうしてるんだ?」

『身体の方はもうすっかりいいみたいだ。今まで通り、家事もこなしてる。だけど、やっぱりまだ、立ち直ってはいないんだよ……。夜中に寝言で、ごめんねごめんねって、謝ったりしてるから……』

「そうか……」

『なぁ、頼むよ兄貴。親父もお袋もしょぼんとしちまってさ、兄貴が帰ってきてくれると、少しでも、張りが戻ると思うんだ。忙しいならちょっとでいい。家に、顔見せてくれないか?』

「……分かった。何とか都合つけるよ」

『……ありがとう。じゃあ、細かい日取りが決まったら、また』

 慎平との電話を切った後、凛平の心の中は、暗く澱んでいた。

 運が悪かった、ただそれだけで授からない命がある。

 その事実が、凛平の心を打ちのめしていた。


「凛平さんも、慎平さんから聞いたんですよね?」

 おにぎりを半分程減らした所で、ふと雫が口を開いた。

「聞いたとは?」

「地球と、人間の脳とが、似ているって話です」

「ああ、はい」

「やっぱり……」

「まぁ、こう言う話はよくある眉唾物ですから。実際、確かめようもありませんしね」

「そう、ですよね……」

 雫は溜息混じりにそう返事をすると、自身が腰に身につけていたポーチにそっと手を当てた。

 雫の行動に気付かないフリをしながら、凛平は空を見上げて努めて明るく言い放った。

「それにしても、いい天気ですね」

「そうですね。それじゃ、そろそろ行きましょうか」

「まだ残っているじゃないですか?」

 手の中に残った食べかけのおにぎりを見咎められた雫は、凛平とおにぎりとを見比べてから、もうお腹一杯です、と笑った。

「駄目ですよ。まだ先は長いんですし、ゆっくり座れる場所なんて、もう無いかもしれないんですから。ゆっくりでいいので、頑張って食べましょう」

「……はい」

 気ばかりが焦るのか、不満気に再び溜息を吐きながらも、雫は目の前のおにぎりに再び口を付け、ゆっくりと咀嚼し始めた。

 空の高い場所から、ふと鳶の鳴き声が聞こえて来る。雄々と空に翼を広げ、二人に一瞬の影を落とし、瞬く間に去っていく。

「……そろそろ、聞かせてもらってもいいですかね?」

 凛平の声に反応し、雫は彼の方へ振り向いた。だが当の凛平は、目線は空に向けたまま、更に言葉を紡いだ。

「この場所は、一体どういう場所なんですか? 何の為に、ここへ来たんですか?」

 今まで敢えて聞く事をせずに、ただただ雫の望むがまま、会社に有給願いを出してまで、身体の弱い彼女をこんな山奥にまで連れて来た。勿論一人では来る事も出来なかっただろうが、頼まれるがままに付いてきたのは、何かあった時に、彼女の願いに反してでも、彼女の身を守る為だ。

 だが、凛平は心の奥底で、自身の澱んだ想いに問いかけた。

 ――全く下心が無かったかと言えば、それは嘘だ……。

 弟の嫁に、何かしようとは思わない。だけれど、彼女と初めて出会ったあの日からずっと、認めたくは無いが、凛平は雫に魅かれていた。

 完全に否定出来る程、弱い想いでは無かったのも事実だ。

「すいません。今まで、ちゃんとお話もせずに……」

「いや、それはいいんです」

「この場所はですね……。いえ、この先にある湖は……」

「あー……、すいません、やっぱり、まだいいです。やっぱり、向こうに着いたら、ちゃんとゆっくり、聞かせて下さい」

 重い口を弱々しく開いた雫の口は、凛平のつっけんどんな対応に塞がれる事となる。

 ――自分で聞いておいて、何を言ってるんだ俺は……。

 ペットボトルに口を付け、心の奥底に溜まった澱を流すように、凛平は火照った身体に水を流し込んだ。そのまま雫を振り向くと、彼女は手の中にあったおにぎりを二つに千切って、一度に口の中に放り込んだ。

「食べました、行きましょう」

 咀嚼を繰り返しながら、はっきりとしない言葉で喋る雫を見ながら、凛平はそっと口角を上げた。


「凛平さん、あけましておめでとうございます。お帰りなさい」

 例年の帰省期間を大幅に短縮し、元旦の夜に実家へと戻った凛平を玄関で迎えたのは、やはり雫だった。穏やかな雰囲気は変わらず、だけれどもその姿は、以前に会った時よりもどこか覇気が薄いように感じられた。

「ああ、雫さん、あけましておめでとうございます」

「兄貴」

 奥から、慎平が顔を出す。

「慎」

「わざわざ悪いな」

「いや」

「雫、とりあえずビールの用意をお願い出来るか?」

「はい」

 快活な返事をして、雫が部屋の奥に引っ込んで行く。

「思ったより、元気そうだろ?」

「思ってたよりはな。だけど……」

「ああ、それでも、大分マシになった方なんだよ」

「そうか……、親父達は?」

「親父もお袋も同じような感じだ。いや、なんて言うのかな、お互いがお互いに気を遣いあってて、それで空元気を見せあってる感じかな」

「それで、堪らなくなって俺を呼び出したってか」

「ああ、まぁそう言う事だ。いつまでいられるんだ?」

「3日の夜には」

「すぐじゃないか」

「悪いな。仕事が立て込んでるんだ」

「まぁ、なんにせよ助かったよ。のんびりしてってくれ」

「慎平さん」

 奥から、雫が慎平に声を掛ける。雫に呼ばれ奥に引っ込んで行くその背中から、凛平は、少なからず哀愁を感じた。

 いつから、弟はこんな背中をする程、沢山のものを抱え込んでしまったのだろう。いやそもそも、と凛平は危惧する。

 慎平は本当に、その全てを抱える事が出来ているのであろうか。その物言わぬ重圧に、押しつぶされそうな空気に、聞こえぬ悲鳴を上げているのではないだろうか。

 だが凛平は、長く隣を歩き、どちらかと言えば自分の背中を見せる機会の多かった弟の背中に、上手く声を掛ける事が出来ずにいた。

 仕事が立て込んでいるのは本当だった。だから、すぐに時間を取る事は出来ないにしても、年度を越えれば少し長めの休みも取れるだろう。暖かくなるだろう5月位になったら、また慎平を山に誘おう。二人で山に登れば、何かしらの言葉を紡ぐ事が出来るかもしれないし、慎平の気持ちを軽くしてやる事も出来るかもしれない。

「兄貴?」

「ああ、今行くよ」

 そこで凛平は、自分がまだ靴さえ脱いでいなかった事を思い出した。


 勾配のきつい斜面をゆっくりと下って行く。山に慣れている凛平が先導し、その後を慎重に雫が付いて行く。

「焦らなくていいです。一歩一歩、慎重に」

「……はい」

 この辺りの土は随分と水気が多い。乾いていない分滑る事は少ないだろうが、少し土をめくるだけで木の根がそこかしこから顔を出し、足に引っ掛かる。こんな急斜面で躓いたら、それこそ一大事だ。何かあった時はすぐに反応が出来るよう、凛平は太い幹に片手を付けながら、雫の一挙手一投足に細心の注意を払っていた。

 休憩を取ってから約一時間、山の頂上を目指していたルートからは外れ、ここからは下りが多くなる。木々の密度も濃くなり、ここからは体力よりも、精神を消耗して行く道になるだろう。

「あっ!」

 雫が足元の木の根に足を取られ、転びそうになる。

 その声に反応し、飛び出そうとする凛平の目に、脇にあった木の幹に必死にしがみついている雫の姿が映る。

「すいません。油断して、しまいました」

 明らかに息が上がっている。

「大丈夫です。でも、慎重に行きましょう」

「……はい」

 そろそろまた休ませてやらないと、雫の体力が持たない。だけど、この先に休める所があるのかも分からないし、あまり悠長に構えている時間も無かった。

 鬱蒼と茂る木々が、太陽の光を阻む。この様子では、夕方に差しかかる前にこの辺りは薄暗くなってしまうだろう。それまでに、少なくとも先程の休憩地点までは戻らなければ。自分一人なら一晩くらいの夜明かしも考えないでも無いが、雫がいるのにそんな無茶が出来る訳が無い。

 ――どうする、引き返すべきか……。

 また日を改めると言う選択肢もある。今回は駄目でも、道のりが分かっているだけで進行速度は上がる。

 そこで雫が、漸く凛平の元へ辿りついた。一瞬ふらついたので、その身体を軽く抱き寄せる。想像していたよりも、ずっと軽く、少し力を込めるだけで折れてしまいそうだ。

 額には玉のような汗がいくつも浮かび、顔色は白い。

「雫さん……」

「大丈夫です」

 雫が射抜くように、凛平の目を見る。その大きな瞳は、心許ない雫の体力からは想像もつかない程、生気に満ち、ギラギラと輝いていた。

 思わず気圧され、凛平は言葉を噤んだ。

「行きましょう」

「……分かりました」

 このペースで坂を二つ程下れば、急な勾配は終わり、若干なだらかな道に出る筈だ。そこで雫を休ませよう。もしそこに、とても休めるような場所が無い時は、今回は大人しく引き下がろう。

 そんな思惑を抱き、凛平は再び慎重に、坂を下り始めた。


 忘れる事の出来ないだろう、3月17日。明け方に掛って来た着信に、凛平は叩き起こされた。

「……はい、もしもし」

 完全に眠っていた凛平は、手さぐりで携帯を確認し、相手を確認しないまま電話に出た。

「……もしもし、凛平さんですか?」

 若い女の声。

「誰ですか?」

「あの、雫です……」

 その言葉に、脳の奥が覚醒して行く。と同時に、何か嫌な予感を感じた。

「あの、落ち着いて、聞いて下さい」

 落ち着いて、と言う雫の声が、酷く動揺しているのを感じ取った凛平は、これはただ事では無いと思い、ベッドから身体を起こした。

 枕元のデジタル時計は、4時5分を示している。

「一体どうしたんですか?」

「慎平さんが……、先程……」

 電話口の雫は、零れ出て来る涙によって上手く喋れないらしい。とてつもなく長く思われた時間、凛平は息を飲んで、雫が言葉を続けるのを待った。

「……先程、亡くなったと、警察から……」

 雫の言葉は、覚悟していたものと同じだった。にも関わらず、凛平はその言葉を聞いた瞬間、酩酊にも似た眩暈に襲われた。

「そんな……、どうして……、親父とお袋は?」

「すいません……、あの……」

 電話口の雫は、会話になりそうも無かった。

「……今から行きます。そちらは?」

 慎平の運ばれた病院の名前だけを強引に聞き出し、電話を切った凛平はすぐに出かける準備に取り掛かった。凛平にとって永遠と思われた時間は、現実では3分程しか経過していない事を、デジタル時計は示していた。

 急いで支度をし、車に乗り込むが、気が逸る所為かキーが上手く回らない。やっとの思いで車を走らせた凛平の頭に浮かんできたのは、正月に見た弟の背中だった。

 ――慎、どうしてだよ……。

 夜明け前の薄闇の中、疑問だけが頭に満ちていく。


 そこら中に生い茂った樹木が、すっかり日光を遮っている。まだ太陽も昇っている時間だと言うのに、辺りは薄暗く、空気はどんよりと湿っている。この湿度の高さが、湖が近い事を示していると言えば、そうかもしれない。

 偶然、腰掛けるのに最適な石を見つけた為、雫をそこに座らせ休ませる。その間に凛平は先行して、この先の道を把握しておく事にした。

「私も行きます」

「雫さんは少し休んでいて下さい。この先があんまり険しく、まだ長いようでしたら、今日はここまでにします」

「そんな……」

「貴女に何かあったら、それこそ慎の奴に面目が立たない。そうならない為にも、ゆっくり休んでいて下さい」

 唇を噛みしめながら、それでも言葉を発しない雫の顔が、凛平の心に刺さる。その視線から逃げるように、凛平は身を翻し歩みを進めた。

 先程までの急斜面はなりを潜め、舗装はされて無いにしても、道は随分と進みやすくなっていた。距離的にはもう幾らも無いであろう。この程度の緩やかな道ならばと、そう思っていた矢先、凛平の目に、乱反射した光が飛び込んで来た。

 少し進むと、随分昔に作られたであろう石造りの階段があり、その階段の先に、光に照らされた湖が姿を現した。鬱蒼と茂る木々の中、まるでそこだけは神の祝福を受けたかのように、ぽっかりと陽だまりの中に包まれている。太陽の光をキラキラと反射させ、辺りの木々に光を飛ばすその湖は、とても美しかった。

 ――地球の忘れ去られた記憶の一部が、眠ってる。

 あの山の上で、凍りついた湖を慎平と二人眺めた時の事を、凛平は思い出した。

 そこで、はたと思い至り、凛平は急いで雫の元へと駆け戻った。心を奪われている場合では無い。彼女を無事にあの湖まで連れて行かなければいけないのだから。

 雫の元へ戻ると、彼女は不安そうな表情で凛平の瞳を見つめて来た。

「どう、でしたか?」

 息を整え、凛平は敢えて笑顔を作る。

「えぇ、湖を見つけました。道もなだらかです。階段も作られてましたし、なんとかなりそうです。行きましょう」

 雫の顔が綻ぶ。

「足元に気を付けて、落ち着いて行きましょう」

「はい」

 快活な返事と共に、雫は腰を浮かせた。だが立ち上がった拍子に、バランスを崩してしまう。

「危ない!」

 思わず凛平は彼女の身体を抱きとめた。

「気を付けて下さい」

「すいません。ありがとうございます」

 限界が近づいていた。

「行きましょう」

 気が逸るのか、先に行こうとする雫を凛平が止める。

「待って下さい。俺が先導しますから。気持ちは分かりますけど、帰りもあるんです。慎重に行きましょう」

「すいません。宜しくお願いします」

 先程の道を、今度は雫に気を掛けながら進んで行く。

 凛平の腕の中には、抱きとめた雫の感触が未だに残ったままだった。

 ――慎、俺は、本当に、駄目な兄貴だよ……。

 贖罪とも言える言葉を、凛平は心の内側でそっと呟いた。


 夫婦と言う事にしておきましょう、と言い出したのは、雫の方だった。

「ですけど……」

「気になさらないで下さい。同部屋でもいいじゃありませんか。それなら、いっそ夫婦だと言う事にした方が、変に思われなくていいじゃないですか」

 そう笑う雫を見て、俺が意識し過ぎなのか、と凛平はバツの悪い思いを抱えていた。

 夕食を済ませ、女将曰く、宿で唯一の名物である温泉に浸かる。言うだけあって、身の内にじっくり沁み入って来るような心地よいお湯だった。部屋に戻ると、先に上がった雫がお茶を入れて凛平を待っていた。

「雫さん、早いですね」

「えぇ、昔から、お湯にゆっくり浸かるのが苦手なんです。お茶、どうですか?」

「はい、いただきます」

 腰を下ろし、雫の入れたお茶を啜りながら、凛平は風呂上がりの雫の姿をちらと眺めた。

 湯上りの火照りで、頬が上気している。元来色素の薄い肌は、色味が出やすいのか首まで赤かった。どうやら雫も、つい先ほどまで湯に浸かっていたようである。

「不思議ですね」

「何がです?」

「ふふふ、こうしていると、まるで、慎平さんと旅行に来たみたい」

 口調は穏やかな雫の表情は、僅かに眉根を寄せていた。この状況に、きっと彼女も困惑しているのだろう。そう思うと、凛平の心も多少凪いだ。この状況を気恥ずかしく思っているのは自分だけでは無い。その事実が、確かに凛平の心を穏やかにしたのだ。

 その穏やかさが、不躾な気安さに変わる前に寝てしまおうと、凛平は茶を一息で飲み干した。

「それでは、布団を出しましょうか。明日も早いです。早く休みましょう」

「そうですね。休みましょう」

 意図してなのか、それとも、たまたまか。まるで二人示し合わせたように、休むという言葉を使った。

 二つ布団を並べるが、凛平は意図して、二つを少し離す。あくまで不自然にならないよう、それでも意識して、距離を開ける。

 怖かったのだ。

 雫と、距離を詰め過ぎてしまう事が。

 恐らくは、その先に待ち受けているであろう物が。

「お休みなさい」

 雫は特に言及する事もなく、凛平の隣の布団にするりと入り込んだ。部屋の明かりを豆電球にして、凛平も布団へ潜り込む。

 疲れていたのだろう、穏やかな寝息が隣から聞こえてくるのに、然程時間は掛からなかった。


 遺体安置所に寝かされた慎平の顔は穏やかで、それが殊更凛平の心を締め付けた。

 病院に駆けつけた凛平を迎えたのは、茫然自失とした両親と、必死に平静を保とうとしている、真っ青な顔をした雫だった。

「凛平さん、ありがとうございます」

「雫さん、一体何があったんですか?」

 雫が怯えたような顔をする。突然の出来事に自身も気が立っていたのか、思わず語気が荒くなってしまった事に気がついた凛平は、雫と同じように、呼吸を整え平静になろうと努めた。

「慎平さんの帰りが、随分と遅くて……、それで、心配になって、警察に連絡をしたんです。探して貰えませんかと。その直ぐ後に、あの……、沢渡慎平さんは、お宅の……」

「雫さん、慎はどこに?」

 取り乱しそうになった雫の言葉を押し止めた凛平は、慎平の遺体が安置された場所へと案内された。

 慎平は、交通事故を起こしたのだと言う。真夜中の交差点でハンドル操作を誤り、ガードレールに突っ込んだらしい。歩行者を避けようとしたり、対向車が居たと言う事では無く、単純な運転ミスによる、事故なのだそうだ。それによる被害者はいなかったのが、せめてもの幸いとの事だそうだ。

 呼吸の荒くなりそうな雫に、少しずつ少しずつ話してもらい、事件の概要が掴めてきた。だけどそれらの事実を受け入れる事を、凛平の心は拒否していた。

 雫の言う事も、警察や医者から話して貰った事を聞いただけに過ぎない。

 慎平は交通事故で死んだのだ、と言う。

 ハンドル操作を誤ったのだ、と言う。

 単純な運転ミス、被害者は他にいなくて良かったのだ、と言う。

 ……何も良い事など無い。

 物言わぬ慎平に、凛平は語りかけた。

「おい、慎……。お前、どうしたんだよ。なんで、こんな事になってんだよ。何があったか説明しろよ……、おい、おい!」

 又聞きなんかじゃ納得出来ない。

 凛平は、慎平の口から聞きたかった。本当の事を聞きたかった。聞いてやりたかった。

 もう語る事の出来なくなった慎平を前に、そんな空虚な想いが、凛平の心に深く深く突き刺さっていた。


 まだ日も昇らぬ時間に、ふと凛平は目を覚ました。

 時刻を確認する為、枕元の時計に手を伸ばそうとしたその時、暗闇の中から、不意にすすり泣く声が響いてきた。

「……雫さん?」

 小さく声を掛けるも返事が無い。体を起こし、そっと雫の布団へと近づく。

「雫さん、大丈夫ですか?」

 凛平はふと、生前の慎平の言葉を思い出した。

『夜中に寝言で、ごめんねごめんねって、謝ったりしてるから……』

 ――魘されているのだろうか?

 薄く月明かりが差し込むだけの部屋で、凛平は雫の顔を覗き込んだ。

 目が覚めている訳では無いのだろう。だが、雫の頬には、幾筋もの涙の跡が残っていた。

 たまらず、凛平は彼女の身体を揺り動かした。

「雫さん、雫さん!」

 ハッと目を覚ました雫は、身体を起こし、凛平の顔を見つめた。

「慎平さん!」

 不意に月が隠れ、部屋の中を暗闇が満たした。微かに息を飲む音と、衣擦れの音が凛平の耳に届く。

「明かり、つけてもいいですか?」

「……ええ」

 雫の同意を得て、凛平は蛍光灯の紐を二度引っ張った。人工的な光が、自然の闇を駆逐する。

「申し訳ありません」

 雫は体を起こし、手をついて頭を下げた。

「気にしないで下さい、見間違えるのは当然ですよ」

 雫の肩に手を置き、その体を起こさせる。

「俺達は双子なんですから」

 凛平が笑いかけると、雫はその笑顔を見て、悔しそうに涙を流した。

「私……、頭がおかしくなってきてるんです」

「そんな事……」

「いいえ! 私、前なら、どんなに、どんなに似ていても、慎平さんと凛平さんを間違える事なんて、無かったんです。だけど、最近、凛平さんに、生きていた頃の慎平さんの姿が、重なるようになってしまって……。今、目の前にいるのが、本当に凛平さんなのか、それとも、もしかしたら慎平さんなのか、分からなくなる時が、あるんです……。おかしいですよね」

 すすり泣く雫が、

「死んだ人が、生き返る訳なんて、無いのに……」

 嗚咽と共に吐き捨てるように呟いた。

「おかしく無いですよ、雫さん。だって、俺もそうですから」

 凛平の言葉に理解が追いつかないのか、雫は涙を拭おうともせず、疑問に眉根を寄せる。

 毎朝鏡の前で、自分の顔を眺めながら凛平もまた同じ事を感じていた。

 慎平を亡くしたあの日から、よく似た自分の顔を触り、自分が本当に凛平と言う存在なのか、それとも、もしかしたら慎平なのでは無いのかと、ありえない疑問を抱くようになったのだ。

「双子って、お互いがお互いを認識しているからこそ、個性の違う個体として育つらしいです。不思議な事に、自分に片割れがいる事を知らないで育った双子は、同じような人生を辿り、同じような個性を持った、ほぼ同じ個体になるそうです。だからもしかしたら俺は、慎平を亡くしてしまったあの日から、少しずつ、自分でも知らない内に、慎平に近づいていっているのかもしれません。片割れを意識しない双子が、同じ個体になるように……。だから、雫さんが俺を慎平と見間違えるのは、仕方ない事ですし、寧ろ俺は、嬉しいですよ」

 凛平は、努めて優しく、もう一度、雫に微笑んだ。

「こんな俺は、おかしいですか?」

 首を横に振る。それが、今の雫に出来る精一杯だった。

「雫さん、俺は、駄目な兄貴だったんです。慎が苦しんでいる時に、何も助けてやる事が出来なかった」

 亡くなった慎平の身体からは、大量の精神安定剤が検出された。誰にも秘密にしたまま、慎平は全てを自分だけで抱え込もうとして、潰れてしまったのだと、凛平は悟った。

「あいつの代わりに生きる、なんて格好いいもんじゃないんです。ただ、慎が生きれなかったこれからの人生を、慎になったつもりで、歩けたらいいなと思うようになったんです」

 その時、雫は凛平に飛び掛り強く抱きついた。すぐ耳元で、熱い吐息と、涙声と、歯を食いしばる音が聞こえる。

「ごめんなさい! ごめんなさい凛平さん! 慎平さんを、一番追い詰めたのは、私なんです。お腹の子が流れて、不安で、不幸で堪まらなかったのは、私だけじゃないって、分かってたのに……、私、分かってたのに……。ごめんなさい、ごめんなさい!」

 こんなに大きな声を雫が出せる事。その細い身体にそぐわぬ程強く抱きしめて来る事。慎平だけが知っていたであろう事実を体感し、凛平は、慎平を羨ましく、そして申し訳無く思っていた。

 ――慎、ごめんな。俺は今、お前の嫁さんを抱きしめてるよ。こんなに泣いてるお前の嫁さんを、放っておけるもんか。でもな、俺はやっぱりお前が羨ましいよ。こんなにお前を愛してくれて、泣いてくれる嫁さんに出会えたんだな。この人を支える為に、お前、頑張ったんだな。偉いよ、やっぱり俺は、お前にはなれないかもしれないよ。申し訳ないけどさ……。

 日の出まではまだ時間がある。

 せめて夜の内に、彼女が抱え込んだ悲しみを少しでも吐き出させてやろうと、幼子の様に嗚咽を漏らす雫の背中を、凛平はそっと、あやす様に叩き始めた。


「……綺麗」

 階段上から湖を見下ろした第一声、雫は吐息を漏らすようにそう零した。

「足元、気をつけて下さい! 段差もあります、慎重に」

 湖の美しさに魅入られたのか、吸い込まれるように足を進めそうになった雫へ、凛平は意識して強めに声を掛けた。

「ああ、はい、すいません」

「大きい声を出してすいません。でも、ここまで来て、最後に怪我だなんて、つまらないですからね」

 荒れた語気を誤魔化すように、軽い感じで言葉を放ると、雫もそれに倣い、ふふと軽く笑った。

 不揃いの段差を、一段一段、噛み締めるように降りていく。逸る雫を抑えるよう先行する凛平もまた、この湖に魅かれる気持ちは理解出来た。

 段差を降り切り、二人で湖の前へと並ぶ。木漏れ日を散らすように、湖は光を反射している。神々しく、神聖な空気すら感じるこの空間に、凛平は僅かながら慄いていた。

 この美しい空間は、自分には眩し過ぎる、と。

「雫さん、ここですか?」

 気を奮い立たせるように、平然を装い雫に話しかける。

「そうです、間違いありません」

 雫は自身の腰に巻きつけていたポーチから、一枚の写真と、小瓶を取り出した。写真には、この湖が写し出されていた。

「慎平さんに貰ったんです。凛平さんには内緒にしてくれって言われてたんですけど、実は彼、一人でもよく山に登っていたんです」

「待って下さい、なんで山に登る事を、俺に内緒にしてたんですか? 別に、隠しておく必要なんてないでしょう?」

「いつも二人で登っていたのに、一人でも登ってるってなったら、絶対兄貴は寂しがるだろうって」

 言われて、何だか腑に落ちた。確かに、慎が一人で山に登っていると知ったら、どうして俺も誘わないのかと言うに決まっていた。俺だって、もし一人でこっそり山に登っていたなら、慎には内緒にしていただろう。俺も誘えと言うに決まってるからだ。

 一緒に登る山もいいが、一人で登る山もいい。それは分かっているはずなのに、俺達はいつだって、二人で行動したがった。一人で何かをする事への罪悪感が常に傍らにあった。

 だから、分かる。

「本当ですよ、言ってくれたら、絶対一緒に登ったのに。それも、こんな綺麗な湖なんて、一緒に見たかったに決まってるじゃないですか」

「慎平さんも、そう言っていたんです。あの綺麗な湖を独り占めは出来ない。だから今度は、凛平さんと私と、三人で見に行きたいって。二人いれば、私一人くらいどこにでも連れて行けるって……。でも、私は連れて来て貰えなかった」

 笑顔を浮かべる雫の眦に、微かに涙が浮かぶ。

「だから、連れて来ちゃいました」

「連れて来たって、まさかその小瓶の中身って」

「はい、彼のお骨です。少しですけど」

 雫はまるで悪戯っ子のような笑みを浮かべた後、小瓶を開き、中身を掌に乗せてから、湖に向かってばら撒いた。湖から反射された光を受け、かつて慎平だった物が、キラキラと宙を泳ぎ湖に降り注がれて行く。その様は美しく、これこそがあるべき姿の様にさえ、凛平には感じられた。これが慎平の願った事のようにさえ思えた。

「地球が今まで記憶してきた物は、全て地球上の水に溶け込んでる」

 はっきりとした口調で、雫は言った。

「きっとこの湖にも、この地球の記憶が溶け込んでいる筈です。その場所に、慎平さんの欠片を流したかった。もしも、私や凛平さんが居なくなっても、慎平さんの事を知る人が全ていなくなったとしても、この美しい場所に、慎平さんの欠片を溶け込ませれば、地球が覚えていてくれるって、そう思うんです」

 凛平の顔を真っ直ぐに見つめる雫の表情は、晴れやかな物に変わっていた。

「凛平さん。私達を、ここまで連れて来て頂いて、本当にありがとうございました」

 凛平もまた、胸のすく思いがした。

 透き通る湖の底に向けて、慎平の欠片が沈んでいく。これだけ澄んでいる湖なら、恐らくは地下の何処かで、外界と繋がっているだろう。慎平の欠片は水に溶け込み、その記憶は川を伝って海へと流れるだろう。この美しい場所の水と慎平の記憶が混ざり合い、世界中を駆け巡る様を凛平は想像した。それはこの地球と共に、慎平がいつも傍に居てくれるように思える想像だった。

 都合のいい錯覚かもしれない。だけどそれは、片割れを亡くした双子としてではなく、沢渡凛平としてこれからの人生を生きろと、慎平が語りかけてくれているような、希望を与えてくれる錯覚だった。

 お互いを意識して生きる双子は、別の個性を持つ個体となるのだから。

 不意に陽が翳る。湖を照らす明かりが薄れ、夜の帳が間も無く下りようとしていた。

「雫さん、そろそろ……」

「ええ」

 雫は一度屈み、湖の表面に軽く指をつけた。

「慎平さん、また来るわね」

「慎、またな」

 雫に合わせるように、凛平もまた、そう呟いていた。

 慎重に石段を登り、帰り際に二人は湖を振り向いた。慎平の欠片に反応したのか、先程まで見えなかった大きな魚の影が、まるで湖と慎平の記憶を混ぜ合わせるように、一度大きく水面を揺らした。後はただ、森閑とした静寂が辺りを包むのみである。

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水の記憶 泣村健汰 @nakimurarumikan

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