ごめんなさい

奔埜しおり

初恋は、


 自宅のドアを開くと、ひんやりとした冷気が肌を撫でてきた。



「……」



 夏が一層盛り上がってくる八月。


 外は蒸し暑くて、水分と塩分の補給を忘れれば危ないくらいの気温と湿度。


 一人暮らしのフリーターとしては、電気代がかかる冷房は、家を出るときに何度も確認するくらいには切っておきたいもの。


 切り忘れたのかとも思ったけれど、それにしても記憶している体感温度よりも低い気がする。



 もしかして、と結論に至ったところで、おかえりぃ、なんてのんきな声と共に、よく見知った顔が私を出迎えた。


「なんでいるの」


 私の問いかけに、相手は音がしそうなほど思いっきり瞬きをした。


 いや、そんな表情、私のほうがしたいくらいだよ。


「えぇ……。朱音あかね、違うでしょ。おかえりには、ただいまって答えるもんだよ」

「な・ん・で・い・る・の」

「わお、おでこに青筋立ってる」


 ケタケタと笑いながら私のおでこを指差す目の前の男、直輝なおきを睨む。


 それでも笑い続ける直輝に、なんだか馬鹿らしくなって、ため息をひとつこぼしながら靴を脱いで荷物を置いた。


 二度訊いても答えを言わないなら、こいつはたぶん、あと何度訊いても答えてはくれないのだろう。



 それに……恐らくだけど、答えの予想はついている。



 トテトテと部屋の奥から黒猫がやってくる。


「ノアも来てたの」

「朱音に会いに行くよって言ったら、ついていきたいって言ったもんだからさ」

「……うち、ペット禁止なんだけど」

「大丈夫でしょ」

「まあ、うん、まあ、大丈夫だけどさ……」


 小さくため息を吐いてしゃがみこめば、ノアはゴロンと寝転がってお腹を見せる。


 そして一声、にゃー、と鳴いた。


 撫でてやりたい。だけど、私にはそれができない。



 目の前にいる直輝が私と同じようにしゃがみこんで、代わりにノアのお腹を撫でてやれば、嬉しそうにノアは目を細めた。



 ノアは野良猫だ。



 私たちが高校生の頃に見つけたときは仔猫で、必死で鳴いてあとを追いかけてくる姿は、今思い出しても可愛くて、そして切なかった。


 私も直輝も、ペットを飼える環境にはいなかったから。


 もちろん今の私だって、そんな環境にはいないけれど。



「今日、お仕事どうだった?」


 ノアに向けていた視線を少し上げれば、柔らかな茶色い瞳がこちらをじっと見ていた。


 見慣れていたはずのその瞳に、胸のざわつきと苦しさを感じて、そっと視線をノアに戻す。


 ゴツゴツとした手に撫でられて、ノアは気持ちよさそうに喉を鳴らしている。


 少しうらやましい。なんて思うのは内緒だ。


「別に、普通」

「そっか。お疲れ様」

「そういや、あんたが好きだったマンガ、新刊出てたよ」

「え、マジ?」

「マジ。しかも最終巻だって」

「買ってある?」

「買えたはずないでしょ、開店と同時に即完売」

「うわぁ……」


 ノアを撫でていた手が上に上がる。


 目で追いかければ、直輝は手で思いっきり顔を覆っていた。


 よっぽどショックだったらしい。


 ざまーみろ、だなんて、元カレ相手に思う私は、相当底意地の悪い元カノに違いない、なんて。



 別れてはいない。……だから、まだ元、ではないのかもしれないけれど。


 でも、元、でいいんだ。


 元、であるべきなんだ。



「俺さ、明日実家行くんだよね」

「そっか」

「うん。……続き、買ってあるかなぁ」

「あるんじゃない? 知らないけど」


 おばさん、元気かな、なんて、少し思いをはせてしまう。


 なんとなく会い辛くなって、気がついたらこの一年、一度も会わずにいた。


 私の実家の隣に直輝の実家はあるけれど、結局会いに行っていないのだ。


「ああ、でも、あったとしても俺、読めないなぁ」

「……ねえ」

「うん?」



 私たちが終わったのは、どちらかが別れを切り出したわけでも、どちらかの気持ちが誰かに移ったわけでもない。



 私にとっての初恋は、直輝だった。


 ずっとずっと思い続けて、高校生になりたての頃、やっと付き合うことができた。


 楽しかった。幸せだった。……大切な五年間だった。



「直輝、キス、してよ」


 そして、なにも感じない一年だった。


「……できないよ」


 視界がぼやけていく。


 ああ、嫌だな。もしかしたら、これで最後かもしれないのに。


「ごめん、朱音、泣かないで」

「泣いてない」

「じゃあ目からボロボロこぼれてるのはなに?」

「汗」

「すごいねぇ、流石夏だねぇ」


 そう言いながら、腕を広げて直輝が近づいてくる。


 だけど、その腕は私を抱きしめるどころか、私にかすることもなく、直輝の元へと戻ってしまう。


「……ごめんね」


 くしゃっと、直輝が笑う。


「なんで……」


 なんで死んじゃったの、なんて、そんなこと言えるはずがない。


 言ったらいけない。


 ごめん、を聞きたいわけじゃないのだから。



 直輝は死んだ。


 交通事故だった。



 一年前、直輝が一人暮らしを始めた家がペットを飼うことができる家で。


 それが嬉しかったんだろう。



 私に内緒で一人でノアを迎えに行って、そして、ノアと一緒に車にはねられて死んでしまった。



 うちにおいでよ。



 そんなメールをもらっていたのに、結局直輝の家には、引越し直後の片づけに行って以来、行くことはなかった。


 誘ったのはきっと、部屋にいる予定だったノアを見せて、私を驚かせたかったんだろう。



 なんとか短大を卒業して、でも空っぽになってしまった私は、就職のことなんて考えたくなくて。


 当時のバイト先で、今も働いている。



 ただただ無理だった。



 直輝が大学卒業して、二人とも就職して、落ち着いてきて、それでもまだ付き合ってたら、結婚したいね、なんて話を、何度かしたこともあった。


 すると思ってた。


 だけど、できなかった。


「本当はね、様子を見に来たんだ。元気にしてるかなって。でも、ごめんね。朱音、霊感あったよね。視えちゃうよね。ごめん、そこまで頭回ってなかった。ごめん、ごめんね」



 幼馴染で、一番の理解者で、友達で、親友で、恋人だった人を亡くした。


 すごくすごく可愛がっていた、猫と一緒に。



 捨てないといけない。


 そう思うのに、私はまだ、この過去を大切に引きずって生きていくのだろう。

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