最終話 ネコ将軍、最後の光芒  

 昏倒した孔明だったが、辛うじて小康状態となった。

 だが、みずからも長くない事を悟ったのだろう。主要な文武の諸官を呼び、後事を託していった。


 軍事的な後継者は姜維だが、現在ではまだ経験不足は否めない。そこで、蜀軍生え抜きの呉懿ごい、堅実な王平、馬岱。そして経験豊富な廖化らにその補佐の任が与えられた。


 一方、蜀の国政を担う丞相だが、これは皇帝の代理といってもいい。その人選には最大限の配慮が必要となる。当然、任命するのは皇帝自身である。


 孔明が危篤との報をうけた皇帝劉禅は勅使を派遣した。

 李福というその使者は、孔明の耳元で次期丞相には誰を就けるべきかを問うた。

「ならば、蔣琬でしょう」

 微かな声で孔明は答えた。


 なるほど、と李福はうなづいた。

「ですが、あの男は稀に見る怠け者です。果たしてこんな大任を受けますでしょうか」


 孔明は目を閉じ考え込んだ。

「その時は、費禕にお命じ下さい」

 蔣琬と費禕であれば、行政手腕は孔明にさほど見劣りしないだろう。


「よく分かりました。ですが……彼らはともに平時の能臣というべきです。彼らの他には誰か居りませぬか」

「……」

 孔明は黙り込み、やがてふと笑みをうかべた。


「ならば向寵か」

 ぽつりと言った。あのネコ娘は呉に対し意外な影響力を持っているようだ。二国が協調して魏に当たる際の丞相には適任かもしれないが。


 しかし、残念だが周囲がそれを認めないだろうけれど……。


「は、何と仰いましたか。丞相」

「いや、何でもない。もう、この先は臣にも……」

 分からない。そう言うと孔明は眠りに落ちた。


 ☆


「蜀軍の上に位置していた主星が、ついに落ちたぞ!」

 司馬懿が夜空を見上げて言った。


 この当時、人の命は天体の形象に現れると考えられていた。司馬懿はその占星術について造詣が深い。彼は勝利を確信した。


「必ず蜀軍は撤退を開始する、その時こそ……」


 ほどなく司馬昭が陣営に駆け込んできた。

「蜀軍の後方部隊が、斜谷やこく方面へ向け動き始めました!」

 司馬懿は勢いよく立ち上がった。


「蜀軍を壊滅させる好機だ。行けっ!」


 魏軍の猛進に、蜀の軍勢は脆くも潰走を始めた。全く抵抗する気配すらない。


「なんと諸葛孔明がいないと、ここまで違うものか」

 司馬懿は驚きつつも更に追撃の速度をあげた。


「父上、速すぎます。後続の部隊が遅れ始めました!」

「愚かな。この機を逃す訳にいくものか。奴らが二度と中原に出て来られないように叩き潰すのだ」

 引き留めようとする司馬師を叱咤し、馬に鞭をいれる。



 敗走を続けていた蜀軍が左右に別れた。

 その中央には一台の馬車が停まっている。車上には一人の男が白の道衣に白羽扇を持った姿で座っていた。

 司馬懿は手綱を引き、目を瞠った。


「と、止まれ。奴は」

 慌てて軍を制止させる。

「まさか、諸葛孔明は死んだ筈ではなかったのか?!」

 司馬懿は叫んだ。やっと蜀軍の潰走は擬態だったと気付く。


 ☆


 諸葛孔明はゆらりと手をあげた。

「どうした。かかって来ないのか仲達(司馬懿の字)」

 静かな笑みを浮かべる。


「お、おのれ孔明。よくも謀ったな」

 司馬懿が歯ぎしりしたその時、魏軍の背後で喚声があがった。

「後方に伏兵! 王平と馬岱ですっ!!」


 前方では、退却しながら左右に分かれていた蜀軍が孔明を守るように集結した。そしてその先陣に立ったのは姜維だった。


「司馬懿を討て!」

 姜維は槍を縦横に揮い、魏軍へ突入していく。三方から散々に攻め立てられ、魏軍は後ろも見ずに退却して行った。蜀軍もあえてそれ以上、深追いはしなかった。


 孔明の馬車が漢中へ向け斜谷道へ入った頃、魏軍を撃退した姜維たちが追いついてきた。

 涙に濡れた顔で、姜維は孔明の車の横に膝をついた。


「姜維よ、後の事は頼むからな」

 姜維は声にならないうめき声をあげる。孔明は優しい目で彼を見下ろし、何度も頷いた。


「向寵も、もう良いぞ」

 孔明は後ろで彼を支えている向寵に声をかけた。

「ですが、丞相」

 向寵は孔明の身体を支えているだけではなく、抜け出して行きそうな孔明の魂魄を押えているのだ。いま、この手を離したら……。


「もう、いいのだ。向寵……お前には感謝するぞ」

 向寵は孔明をそっと車上に横たわらせた。

 穏やかな表情を浮かべた孔明の身体から、透明な何かが浮かび上がり、そして中空に消えた。


 ☆


 孔明が歿し、五年が過ぎた。


 後継者に指名された蔣琬は丞相にこそ就任しなかったが、尚書令として蜀の内政外交を取り仕切っていた。さすがに孔明の遺言とあれば、無下に断ることも出来なかったのだ。


「だけど、ほとんどの仕事はわしの所に回ってくるのだからなぁ」

 そう言って費禕がぼやいている。向寵は苦笑するしかない。尚書令になったとはいえ、蔣琬の性格は相変わらずのようだ。


 だが、孔明死去の隙をついて魏軍が侵攻して来ると、蔣琬は姜維とともに即座に対応し見事に撃退している。そこはただの怠け者ではないのだった。


 ☆


 ここまで、蜀の南西方面は張嶷が善政を敷き、比較的安定している。荊州との境界付近は向寵が何度も訪問して良好な関係を築いてきた。


 しかし西涼系の民族が多く住む漢中北西部は魏の誘いに応じ、叛乱の動きをみせた。その動乱は成都の西にあたる漢嘉かんか郡にまで及び、帝都へもその噂が届き始めた。


「魏の奴らが裏で糸を引いているのは間違いない。よって交渉は無意味だ」

 向寵とともに叛乱鎮圧に指名されたのは張翼という男だった。有能な武将だが、やや正攻法にこだわり過ぎる欠点があった。

「拠点を一つひとつ潰して行こう」

 だがこの場合、他に取るべき手段はない。向寵も頷いた。


 こうして、向寵たちは泥沼のような戦いに引き込まれていく。

 渓谷に点在する集落は、多くが騎馬による攻撃が不可能な地形だった。あきらかに魏から武器を供給されている叛乱軍たちを制圧するのは容易な事ではなかった。


 北方からの武器補給を絶つために馬岱も兵を送り込む。それでも最後の拠点を陥とすまでに、およそ一年を要すことになった。


 張翼は逃走した敵軍を追い、向寵は集落内の掃討にかかった。

 村外れの壊れかけた家を覗き込んだ向寵は、奥で何か動いたのに気付いた。

「誰かいるのか?」

 向寵は用心深く中へ足を踏み入れた。


「ああ」

 物陰で身を縮めている少女を見つけ、向寵は目を細めた。

「よかった。生きていたんだね」


 その少女は怯えた表情で向寵を見上げた。

 それは、かつて向朗に救われた向寵自身の姿に重なった。 


「大丈夫だよ」

 かがみ込み、少女に近づいた向寵の胸に激しい痛みが走った。


「え……」

 視線を下に落とした向寵は、少女の手に握られた短剣を見た。おそらく魏で造られたものだろう、鋭利な刃は彼女の軽量化された鎧を貫いていた。


「どうしました、向寵将軍?」

 家の外から兵士が呼び掛けた。

「……、何でもない。撤収だ。わたしもすぐに行く」

 苦悶を圧し殺した声で向寵は応える。

 了解しました、と兵士は姿を消した。


 向寵は剣の柄を握りしめる少女の手を引き離す。固い表情のまま、少女は家を走り出ていった。

「待て……そっちは、駄目だ」

 遠くで少女の悲鳴があがった。


 ああ、と向寵はため息をついて目を閉じる。


 ☆


 蜀の将軍 向寵は、叛乱を起こした漢嘉郡の異民族征討に赴き、そのまま行方不明となった。

 そして、張翼たちの捜索にも関わらず、向寵の痕跡は何も発見できなかったのだった。(公式文書には蕃族により殺害と記された)


 それを聞いた向朗は門を閉じ、数日間、誰とも会おうとしなかった。


「ネコは、最後の姿を決して人に見せないという。おそらく向寵もそうだったのだろう」

 後に、彼は身近な者にそう語った。


 だがここに、ある兵士の証言がある。

「向寵将軍は、巨大な豹の背に乗り、山中に消えた」のだと。

 いずれにせよ、それを証明する術はない。


 こうして三国時代の末期、ネコ将軍は突如として蜀の歴史に姿を現し、そして忽然と姿を消したのだった。

 



 終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ネコ将軍は五丈原へ行きたい ~ 三国志異聞「向寵伝」 杉浦ヒナタ @gallia-3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ