第33話 孔明、呪法を行う

 真っ青だった孔明の顔に血の色が戻った。

「おお、丞相」

 必死の蘇生を行っていた侍医や側近たちが安堵の声をあげた。


「……向寵、足を離せ。もう大丈夫だから」

 孔明は弱々しい声で向寵に抗議する。その向寵は孔明のとなりで何かを踏みつけているような姿勢になっている。


 そうですか、と向寵は足を上げた。

「向寵将軍、それは一体何をされているのですか?」

 侍医が訝し気な顔を向けた。


「え、ああ。ちょっと、孔明さまの霊魂が抜けて行きそうだったので」

「はあ……」

 向寵の目の前で、孔明の魂が元の身体に戻っていった。



「そうだ。向寵、いい事を思いついたぞ」

 孔明はゆっくりと身体を起こすと、悪い顔で笑った。もうすっかり調子を取り戻したようだ。

にゃお族の秘術で司馬懿を呪い殺すことが出来ないかな」

「にゃっ?」


 ☆


「まったく、ろくな事を考えない人ですね。そんなんじゃ長生きできませんよ」

「うむ。一言もないが、今はもう他に方法がないのだ」

 孔明は両手を合わせ向寵を拝む。


「だけど、殺すなんて凶悪な呪法は無いです」

 ちょっとだけ悪いことを起こさせるくらいだったら、無くもないですけど……向寵はむつかしい顔で腕組みした。


「失敗した場合の代償は大きいですよ。それで良ければお教えしましょう」


 孔明は先頭に立って、祈祷のための祭壇を造り始めた。

「よかった。丞相が元気になられた」

 そう言って姜維は涙ぐんでいる。


 だけど、元気になった理由が……向寵は口をつぐんだ。諸葛孔明、性格が悪すぎる。


「いいですか。たった今から、七日七晩、休まず祈り続けて下さい。もし途中で止めてしまったら最悪の場合、術者自身が命を失いますから」

 孔明はごくり、と唾を呑む。しかしやがて決然と顔をあげた。


「いいだろう。それで魏の野望を挫くという、わたしの願いが叶うというのなら」

 そう言うと、四方を注連しめ縄で囲った祭壇の前に座った。


 二、三度咳払いをした孔明は、向寵を振り返った。

「念のため聞いてみるのだが、もっと軽い呪いはないのかな。その……失敗した場合の反動が少ないもの、という意味で」

 すでに覚悟が揺らいで来ているらしい。


「呪った相手が足の小指をぶつけやすくなるだとか、外出すると必ず鳥のフンを落とされるとか、ですか」

「いや。そう云うのは、いらないかな」

 孔明は若干しょんぼりとした表情で、祭壇に向き直った。


「よし、では始めるぞ」


 ☆


「一体どうしたことかな」

 不思議そうに司馬懿が呟いた。

「どうしました、父上」

 うん、それがな……。司馬懿は頭を掻く。

「最近どうも、何もない所でつまづいては、転んでしまうのだ」

「それは、年齢としというものでしょう」

 司馬師と司馬昭の兄弟は無遠慮に笑った。だが、その二人も部屋を出た途端、足をもつらせ仰向けに転がる。

 二人は気味悪げに顔を見合わせた。



「魏の野望を打ち砕き、何としても滅ぼさせたまえ」

 水と僅かな食糧を口にするだけで、昼夜を問わず孔明は祭壇の前で祈り続けた。六日目ともなると、頬はこけ目は落ち窪み、幽鬼の様相を呈してきた。


 果たして意識があるのだろうか。孔明は細めた眼尻を吊り上げ、ただひたすら、魏を呪う言葉を発し続けていた。


「あんな状態で、丞相は大丈夫なのか」

 祭壇から離れた場所で、姜維は向寵を捕まえ小声で訊いた。


「他人を呪うには、それだけの覚悟が必要という事です。しかも相手が個人ではなく、魏という国家であれば猶更です」


 そういう向寵の表情も冴えない。孔明にこの呪法を伝えたのは失敗だったのではないか、向寵の頭を不安がよぎった。

 

 だがここ数日、明らかに魏軍の様子がおかしくなっていた。

 陣営内を動き回る兵卒の姿が減少し、歩哨に立つ兵士の動きも妙に緩慢だ。


「これは効いているのかもしれんぞ」

 姜維は半信半疑ながら、少しだけ表情に明るさを覗かせた。

「へえ、本当に効果があるんですね。あのおまじない」

「ん、何か言ったか。向寵」

「べつに」


「これはおそらく、蜀の者が何かしらの呪法を行っているに違いありません」

「蜀陣営に忍ばせた間諜からも、孔明が妖しい儀式を行っていると報告が」

 顔中アザだらけになった司馬師と昭の兄弟が、やはり手足のあちこちに包帯を巻いた司馬懿に訴える。


「やはりそうか。よし、師よ。一隊を率い夜襲をかけてみるのだ。だが、くれぐれも深入りはするな。あくまでも呪詛の妨害が目的だ」


 ☆


 まもなく七日目の夜が明ける時刻になった。このまま朝日が顔を出せば呪法は完成する。姜維は冴え冴えとした月が輝く空を見上げた。


「敵襲!!」

 前線から声が上がった。

 こんな時に、と姜維は舌打ちした。地面に拳を叩きつける。


「大変だ、丞相。魏軍の夜襲だ」

「一大事でございます。陣中に魏の間諜が潜んでおりました!」

 二人の男が同時に駆け込んできた。魏延と楊儀は、互いに相手より先んじようと、肩をぶつけるようにして孔明の前に進み出る。


 楊儀は孔明の補佐官を務めている。そして魏延と楊儀、この二人の仲の悪さは蜀軍内でも有名だった。


「やかましいわ、俺の方が大事だろうが。腐れ文官は黙っておれ」

「情報がすべて漏れているのだぞ。その危うさが分からんのか、この単細胞」

 やがて二人は取っ組み合いのケンカを始めた。

 そして、もつれ合うように倒れ込んだ。

 ―――孔明の前の祭壇に向かって。


 供御の品は散乱し、灯した蝋燭の焔もすべて消えた。

「お、おおおおう」

 絶望的な声をあげ、孔明は立ち上がる。そして糸が切れたように、静かにその場に崩れ落ちた。

「丞相!」

 姜維と向寵は慌てて孔明に駆け寄った。


「おのれ!」

 姜維は剣を抜きはらった。

 地面で取っ組み合ったままの魏延と楊儀は、それを見て目を丸くした。


 向寵が止める間もなかった。

 まず魏延、そして楊儀の首が地面に転がった。

「姜維どの、何て事をっ?!」


(俺たち、こんな所で死ぬ予定じゃなかったのに)

 ふたつの首は、揃って同じ表情を浮かべていた。


 孔明はまだ微かに息があった。すぐに陣屋へ運び込まれ、手当てを受ける。

 だが侍医は首を横に振った。

「今度ばかりは、もう……」



 いつの間にか陣営外の剣戟の音は絶えていた。魏軍の夜襲は王平と馬岱によって撃退された。



 ようやく、東の空が白み始めた。



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