第32話 孔明の失望

 蜀軍に対し最も深い恨みを持つ魏の将といえば、定軍山の戦いで討たれた夏侯淵を父に持つ夏侯かこうだろう。

 武芸に優れた彼は弟の夏侯威とともに先鋒を命じられると、勇躍して陣営を発し蜀軍に迫った。


 迎え撃つのは新たに蜀軍に加わった姜維と、宿老の廖化である。

 夏侯覇と姜維はお互いの姿を認め、馬を寄せた。

 武においてどちらの技量も卓抜したものだった。鋭い矛先が何度も身体をかすめるものの、お互い紙一重でそれを躱し、手傷を負わせるところに至らない。

 何合にもわたり激しく切り結ぶが、容易に決着がつくとも見えなかった。

 

 一方の廖化は夏侯威を打ち破り、そのまま夏侯覇もろとも包囲すべく陣を動かした。しかしそれも魏の郭淮によって阻まれた。

 蜀陣営からは呉班が増援に急行し、ふたたび乱戦となった。

 そのまま一進一退が続き、やがてどちらからともなく引き鉦が鳴らされた。



「このままでは、消耗戦に持ち込まれます」

 姜維は孔明に訴えた。そうなっては圧倒的な国力を持つ魏に敵う筈もない。

「ここは賭けに出るべきだと考えます」


 ☆


 蜀軍はその方針を転換した。

 これまでは、涼州を押さえ着実に支配圏を拡大していくという堅実な戦略を採っていた。だがついに孔明は直接長安を狙うことを決意したのだ。


 これは対峙する魏軍の背後を衝くという戦術的な意味もある。孔明が急に積極策に転じた背景には、新たに加わった姜維の影響もあるのかもしれない。


「そうであろう。そうでなくてはならん」

 魏延はかねてより長安攻撃を唱えていたが、そのたびにその作戦案は却下されてきた。それがやっと自分の意見が容れられたのだ。魏延は得意満面、孔明の前に大きな絵図面を拡げた。


「これは俺が長年かけて調べ上げた、漢中から長安付近へ抜ける間道の一覧だ」

 その漢中周辺の地図には、いくつもの細い径が朱線で表されていた。


 魏延は漢中の太守となって以来、この地方の地形を調べ上げ、長安攻略の作戦を練り続けてきたのだ。

 この執念には孔明も感服せざるを得ない。


「くれぐれも魏軍に気付かれないよう、慎重に行動するのですぞ」

 そう言って魏延を送り出した。


 五丈原へ布陣した孔明の本隊から別れ、魏延は山中の隘路へと軍を進めていった。やがて夕闇の中、峡谷になった場所から魏の陣営が遠望できる場所に出た。


「馬岱、あれを見ろ」

 魏延は副将の馬岱を呼び寄せた。

「ほお魏軍があんな所に見えますな」

「こうやってみると、兵がまるでゴミのようではないか」

 かかか、と大笑する。


「では馬岱。共に、ここから魏軍へ先制攻撃をかけようではないか」

「はあ?」

 不審げな馬岱の顔を見て、魏延は苦笑した。かつて黄忠と厳顔が同じことを言っていたのを思い出したのだ。

 あの時の黄忠たちの気持ちが今ならよく分かる。魏延もいよいよそんな年齢になったようだ。


 魏延たちが用を足していると、間道の崖下から声があがった。

「あれ、こんな天気なのに雨が降ってきたぞ?」

 慌てた声がそれに重なる。

「おい待て、上に誰か人がいる」

「何だと。蜀の奴らに気付かれたか。まずい、撤収するぞ!」


「なんだ?」 

 下を覗き込んだ魏延は、魏の小部隊が急斜面の草叢を逃げ去るのを発見した。兵員の規模からするとただの斥候だろう。


「敵だっ、残らず捉えて殲滅しろ!」

 これを一人でも逃したら作戦に齟齬をきたす。魏延は叫んだ。

 しかし山中のために、蜀軍も長い隊列になっていて兵力の集中が難しい。


 何度も足を取られ転びながらも隊長らしき男に追い付いた魏延は、その背後から斬撃を浴びせ掛けた。

 だがそれも、駆け戻ってきた新手に阻まれた。その二人は左右から魏延を牽制しつつ退却する。

「おのれ、邪魔をするな!」

 魏延が苛立ち、大きく吼えた。


「ぐわっ!」

 剣を振りかぶった魏延の顔面に、敵の隊長が脱いで投げつけた兜が命中した。


「魏延将軍!」

 魏延はそのまま仰向けに倒れる。馬岱たちが駆け付けると、魏延は白目を剥き、鼻血を出して気絶していた。

 結局あと一歩のところでその斥候隊を取り逃がすことになってしまった。


「やはり気づかれたか」

 魏の陣に目をやった馬岱は唇を噛んだ。

 逃げる兵が何か合図を送ったのだろう。魏の陣営に動きがあった。その一部がこちらに向かって動き始めたのだ。


 馬岱は全軍に帰還を命じた。


 気を失ったまま、魏延は兵士数人に担がれ山道を戻っていく。

 馬岱はそれを見ながら嘆息した。

「この男はよほど運が無いのだろうな。これで長安への経路は警戒され、もう二度と使えまい」

 魏延の悲願だった長安急襲作戦は、こうしてあっけなく潰えた。


 ☆


「言わぬ事ではない。まったく危ないところでしたよ、父上」

「だから兄と二人で、あれだけお止めしたのに」


 二人の息子たちからきつく説教されているのは、魏の総司令官、司馬懿だった。

 この司馬師と司馬昭の兄弟が左右から助けに入らなければ、司馬懿の命はなかっただろう。


「だが、蜀軍の動きが事前に分かったではないか。奴らは長安を狙うつもりだったに違いないぞ。これぞまさに怪我の功名……」


「それとこれとは話が別です!」

「もう二度と、父上みずから物見などと言い出さないで下さいよ。いいですね」

 はい、と司馬懿は項垂れた。



「この兜は、まさか……」

 孔明はそれを見て一瞬、絶句した。

「そうか。取り逃がしたか、この者を」

 そして、なんとも云えない寂しげな表情を浮かべた。


「何をそんな、しけた顔をしているのです。あんな斥候の一人や二人、討ち取ったところで何にもなりはせぬだろう。俺は無駄な殺生はしない男なのだ」

 鼻に布を詰めた魏延は肩をそびやかす。


「ああ。これが、天命というものか」

 魏延が退出したあと、孔明は呟いた。


 ☆


 その日から、魏軍は全く動かなくなった。

 固く陣門を閉ざし、蜀軍のどんな挑発にも全く反応しない。

 野戦による短期決戦を目指す孔明は、また頭を悩ますことになった。


「これを持って行くのですか?」

 向寵はその葛籠つづらに入ったものを見て目を丸くした。

「そうだ。これを私からだと云って司馬懿に届けてほしい」

 ですが……、と向寵は言い淀んだ。


「これ、女性が着る服ですよ?」

 女物の服を贈りあうような、そういう趣味があったのか、この二人。


「いや、向寵。お前、どうやら勘違いしているようだが違うぞ。これは趣味などではないのだ」

「にゃんと!」

 趣味でないなら、事態はもっと深刻ではないか。



「ほう、これをわしに」

 司馬懿はそれを葛籠から出して拡げた。目に鮮やかなだけでなく、生地が薄い。肌まで透けて見えそうだ。


 同席した司馬師が激高して剣に手をかける。

「なんと無礼な。武将でないなら、女物の服を着ろというのか!」

 向寵はひやりとしたものを感じ、首をすくめた。


「待て。……この贈り物はありがたく戴くぞ」

 そう言うと司馬懿は上着を脱ぐと、その服を身につけた。

「ち、父上」

「なんと情けない」

 そのあまりにもおぞましく、滑稽な姿に司馬師と司馬昭は目をそむけ、涙を拭った。


「どうかな。似合うか、ネコ」

 司馬懿は鋭い視線を向寵に注ぐ。片頬にからかうような笑みを浮かべている。


「これが司馬懿さまのお返事ですか」

 向寵は観念した。もともとこんな挑発が通じるような相手ではなかったのだ。これでは諦めるほかないだろう。


「ここから先は、一歩も通さんよ。諸葛どのには、そう伝えてくれ」

 向寵は黙って一礼した。


 ☆


「そうか。司馬懿は乗ってこなかったか」

 帰陣して報告すると、孔明は肩を落とした。

「なあ、向寵よ」

 俯いたままの孔明は弱々しい声で言う。


「わたしは戦に向いておらぬのだろうな。こうなると、戦術の才が乏しいという事をまざまざと思い知らされるよ」

 わたしは、と孔明は目頭を押さえた。

「駄目な男だ……」


 陣中で孔明が倒れているのが発見されたのは、そのすぐ後だった。




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