第31話 五丈原に対峙する

「では行ってらっしゃいませ、姉御アネゴ

 陣門に立った関興が深々と頭を下げる。

 華奢な体つきに、関羽譲りの青龍偃月刀がいかにも重そうだ。

(大丈夫かな……)

 この間まで文官だったのに、急に完全武装させられているので、動くことすら大変そうに見える。


 そういう向寵の鎧も、通常より装甲を薄くして軽量化した特別製だった。俊敏性は人並み外れる向寵だが、筋力、体力は普通の女子だからだ。


 向寵は少数民族を中心とした手勢を率いて漢中へ向かった。


 ☆


 最前線の諸葛孔明はやせ衰えた姿で向寵を迎えた。

「丞相、そのお姿は……」

 向寵はそれ以上の言葉が出なかった。


 明らかに、孔明は病んでいた。


 本陣としている小さな邸の一室が孔明の居室になっている。部屋の隅に据えた卓の上やその周囲にも、決済すべき文書が山積みになっていた。


「向寵には、この文書を処理するのを手伝って欲しいのだ」

 だったら自分ではなく費禕ひいを呼び寄せた方が良かったのではないか、向寵は思った。あの人の事務処理能力は超人的なのだ。


「いや、成都は成都で忙しいからな」

 孔明は弱々しく笑う。戦争準備をしながらこんな事務までこなすとなれば、いかに孔明といえど身体が持つはずがなかった。


「わたし蔣琬しょうえんさまに文句を言ってきます」

 漢中の丞相府は今、蔣琬が取り仕切っているのだ。それなのに、こんなに仕事を回してくるなんて酷すぎる。

「ああ、ちょっと待て……」

 孔明が止めるのも聞かず、向寵は後方の丞相府へ向かった。



「それがなあ、向寵」

 丞相府の蔣琬は暗い表情で頭を振った。

「あの諸葛孔明という方は、仕事をしていないと死んでしまう生き物なのだ」

 普段は冷静な蔣琬が涙を流している。

「だから、こうやってわざわざ仕事を送って差し上げているのだよ」

 別に冗談で言っている訳ではなさそうだった。


 確かにそういう性格の人がいるというのは聞いたことがあるけれど。

「でもそれ本当ですか?」


「え、あ、ああ。……丞相ご自身が、うん。そう言っていた、…ような、いなかったような…」

 蔣琬は急に眼が泳ぎだした。これは怪しい。


「おい、蔣琬」

「はい。向寵どの」


「どれだけ怠けたがってるのにゃっ。ちゃんと仕事しろっ!」

「す、すみませんです」


 実は本気を出した蔣琬の事務処理能力は費禕にも匹敵する。孔明の執務室に山ほど滞留していた案件を持って来させると、ほんの一刻ですべて片づけてしまった。


「…いかがでしょう、…向寵どの」

 呼吸するのも忘れて仕事に没頭したらしい、蔣琬は荒い息をついている。

「さすがです。蔣琬さま」

 向寵は思わず拍手していた。それだけ見事な仕事ぶりだった。


 やれやれ、と安心して向寵は孔明の許に戻る。

 だが、きれいに書類がなくなった部屋の真ん中に孔明は倒れていた。あわてて駆け寄り抱きおこす。

「孔明さま、どうされたのです?!」


 うう、と孔明は低く呻く。薄っすらと目を開いた。

「おお、……向寵……」

 孔明は小声でなにか言った。

「何ですか、孔明さま」


「し、仕事がないと……、わたしは、もうだめだ……」


 蔣琬の言ったことは本当だった。孔明は病気、それも重度の仕事中毒だった。



「では、畑仕事でもしてください」

 そういって孔明を屋外へ追い出す。現に蜀軍は長期滞陣に備え、陣営の一角で野菜作りを行っていた。

 品種は何なのだろう、とにかく青菜の一種らしい。

 通称『諸葛菜』と呼ばれるこれは、木牛流馬を使用しても不足しがちな兵糧の助けにするのだそうだ。若い葉のうちは生でも食べられる。

「ちょっと苦みがありますけど、いいですね、これ」

 向寵はつまみ食いして、頷いた。


 ☆


 漢中から長安への最短経路は子午谷しごこくを抜けることである。かつて魏延が何度もこの子午道を通っての長安奇襲を進言したが、諸葛孔明はそれを許さなかった。

 たとえ長安を奪っても、それを長期に亘り維持することは困難である。魏延はその間に魏に対する反対勢力が蜂起するのを期待していたようだが、同盟国の呉ですら容易に兵を挙げない状況では、その可能性は非常に薄い。


 孔明は涼州を押えることで西域への通路を確保したかった。西域諸国の物産、そして兵力を蜀のものとするのである。

 だがそんな狙いさえも、魏の大軍の前に脆くも崩れ去った。一度は蜀に靡いた涼州も、孔明が軍を引き魏軍が襲来すると再び魏へ降った。

 毎回、この繰り返しだった。


 これは日本でいえば、上杉謙信と北条氏配下の土豪の関係に似ている。

 謙信が進攻して来れば関東の土豪たちは揃って上杉方に降伏するが、農繁期を迎え上杉軍が越後に戻れば、彼らはまた北条に忠誠を誓う。

 結局、土豪たちにとって、支配者など誰でもいいのだ。


「すでに漢の世ではなくなっている、という事なのか」

 孔明も痛感せざるを得ない。漢王朝のために命を賭して戦おうとする者は、もはやどこにもいないのではないか。彼の心痛の元はそこにあった。

 蜀漢には、存在意義が無いのか。 


「わたしは嫌いじゃありませんでしたよ。漢の世は」

 卓に突っ伏していた孔明は向寵の声に顔をあげた。

「曹操が荊州に侵攻して来るまでは、ですけれど」


 漢の丞相となった曹操は、荊州で向寵たちにゃお族を皆殺しにした。だから一人生き残った向寵は魏への反感を捨てられない。

「勝ちましょう、孔明さま。たとえ私たちの世代では不可能でも、その基礎を築くことは出来るはずです」


「そうか。でも向寵、お前が思う勝利と、わたしが思うものは違うのだろうな」

 向寵はふふっと笑う。


「当り前じゃないですか、わたしはネコですよ。でもネコが望むものは人間の平和です。だって、それが無くてはネコにも平安は訪れないんですから」


 ☆


 孔明率いる蜀軍はついに五丈原へ進軍した。


 すでに彼方には『魏』の旗を掲げた大軍が布陣している。

「いよいよですね、丞相」

 向寵の言葉に、孔明は頷いた。

「だが、良いのか。世の平安を望むのなら魏にくみするのが早道だと思うぞ」

 でしょうね。向寵は微笑んだ。


「でも、何だかあの人たち……ネコ嫌いみたいじゃないですか」

 そういうのは、敏感に分かるんですよ。ネコにはね。


 向寵の瞳孔がすっと細くなった。


 

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