第30話 白と黒

大変てえへんだ、親分。大変てえへんでございやすぜ」

 そういって騒がしく向寵の執務室に駆け込んできたのは関興かんこうだった。関羽の第二子で、見かけは男装の麗人と言っていい程の美形なのだ。だが、それがなぜこうなったのだろう。向寵はため息をついた。


「関興さん。あなた張苞ちょうほうさんの影響をもろに受けちゃいましたよね」

「はぁ、何の事でぃ?」

 だからその口調にゃ。思わず怒鳴りかけて、その言葉を呑みこむ。


 張飛の長男だった張苞もこの世の人ではないのだ。それをあまり悪く言うのも気が引ける。

 今は亡き関羽と張飛だがその第一子もすでに亡い。関平は関羽と共に斬首され、張苞も北伐のなかで命を落とした。

 そしてその後をこの関興と張紹ちょうしょうが継いでいるのだった。どちらにも共通しているのは、長子は親に似て猛将タイプだったが、第二子の彼らは共に文官として仕えている事だろう。

 張紹は皇帝劉禅の側近として。そして関興は向寵の幕僚になっている。


「でも、どうしたんです。そんなに慌てて」

 そこで向寵も、関興がひどく青ざめているのに気付いた。いや、それどころではない。涙まで浮かべている。


「……趙雲将軍が」

 関興はその場に泣き崩れた。


 ☆


 五虎大将軍、最後の一人も遂に逝った。

 これで、ひとつの時代が終わったと云ってもいい。

 趙雲の国葬を終え、向寵は茫然と空を見あげた。


「久しいな、向寵」

 懐かしい声に向寵は振り向いた。それは趙雲と並び称され、永安の都督を長く務めた陳到だった。


「陳到さま。お久しゅうございます」

 向寵が会釈をすると、陳到は渋い笑顔を見せた。

「時の流れは早いものだ。お主と一緒に異民族を慰撫して回っていた頃が懐かしい」

 はい、と向寵は小さく頷いた。


「……ですが、あなたは」


 ああ、陳到は苦笑した。

「今日は趙雲を連れにきたのだ。長年の相棒であったからな」

 この数か月前、陳到もすでに歿していた。


「まあ、それにかこつけてお主に会いに来たのだが」

 そう言って向寵の頭をぽんと叩いた。


 白と黒。それぞれの鎧をまとった二人の武将は、鎧と同じ色の馬に跨り、空へと昇っていった。


 ☆


「さあ、どうぞお過ごしください李厳どの」

 粘りつくような笑顔で李厳に酒を勧めるのは宦官の黄晧こうこうである。普段は仏頂面の李厳も相好を崩し、酒をあおっている。

「それで今日は何だ、黄晧」

「実は、お祝いを申し上げようかと存じまして」

 ほほう、李厳は口元をほころばせた。もちろん心当たりがあった。


「諸葛の北伐はまた失敗したらしいではございませんか」

 窺うように見上げる黄晧の視線に、李厳は満足げに頷いた。前回とは違う経路で中原を目指した孔明だが、魏の将、赫昭かくしょうの守る陳倉城を陥とす事ができないまま、兵糧が尽き撤退していた。


「その通りだ。奴は無能なのよ。それが丞相などと、片腹痛いわ」

 椀になみなみと注いだ酒を一息に飲み干し、大きく息をつく。

「はい。先帝陛下に国政を任せられたのは諸葛だけではありませぬのに。それをあの男は独り占めにしたのでございました」

 李厳は孔明と共に、劉備から後事を託されたのである。


「奴はその報いを受けたのだ」

「まことに」

 よい気味でございますな。くくっ、と黄晧は笑った。


「ところで李厳さまは、戦場に送る物資の幾ばくかを我が物にされたとか?」

 漢中へ送るべき兵糧を自らの屋敷に入れ、それを市場に流し換金していると、もっぱらの噂だ。

「それくらいしても罰は当たらぬわ。いや、わしは諸葛の奴に収奪された蜀の民に施しをしてやっていると言ってもいい位だ」

 そう言って李厳は大笑した。

 それを眺めやる黄晧の表情に、妖しい色が浮かんだ。



「ああ、今宵は少し飲み過ぎた」

 左右から側近に支えられながら千鳥足で李厳は邸宅に戻る。その足が止まった。

「ああん、なんだ、あの連中は?」

 李厳は酔眼を細めた。

 その広壮な屋敷の門の前に、武装した軍兵が集まっていた。


「李厳どのですね」

 部隊の正面に立つ小柄な武将が鋭い声で誰何すいかした。やや甲高い声だった。

 あれは女か……? 李厳は、ぼんやりと思った。

「何者だ、無礼であろう」

 側近が怒鳴りつけるが、その将はまったく怯む様子はなかった。暗闇の中で、その両の瞳が野生動物のようにひかる。


「近衛将軍、向寵だ。李厳。貴様を軍法違反により逮捕する」

 彼女の合図で、部下の兵たちは李厳を取り囲んだ。

「言うまでもないだろうが、抵抗すれば……斬る」


 李厳は崩れるように、その場に座り込んだ。


 ☆


 後顧の憂いを絶った孔明は漢中の全軍を率い、中原へ進攻した。

 それに先立ち、向寵の元に孔明からの使者が到着した。


「関興を新たに近衛将軍に任ずる。将軍向寵は手勢をまとめ成都を発て」

 その使者は、茫然とする向寵に向けて続けた。



「そなたは即刻、北伐軍に合流するのだ。目的地は、五丈原である!」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る