第29話 蜀の新しい力

 向寵が机で事務処理を行っていると、大量の書類を抱えた男が入ってきた。

廖化りょうかさま。もう書類は、いりませんよ」

 うんざりした顔で向寵は呻いた。

「そう仰らず。これは若い者の仕事ですぞ」

 笑いながらそういう男も、見たところ20代後半に見える。


 じっと廖化を見つめる向寵に、彼は首をかしげた。

「わたしの顔に何か付いておりますか?」

 問われた向寵は慌てて手を振る。


「ああ、違うのです。……廖化さまってお若いなーと思って」

「いやいや。これでも来年は80歳になりますから」

「は、はあ……」

 向寵は絶句した。


 この廖化は劉備達が旗揚げした直後から、主に関羽の部将として戦ってきた。その後も蜀が滅亡する時まで最前線で活躍したという。もし本当なら黄忠以上の超高齢将軍ということになるのだが。


「あのぉ、どうすればそんなに若さを保てるのでしょうか。ちょっと最近、肌荒れとか、たるみが気になってるんですけど」

 向寵もそろそろ、そういうお年頃だった。


「ああ、それは簡単です。海産物を摂るのです」

 ほう、海産物。向寵は身を乗り出した。

「ええ。特にサザエ、カツオ、ワカメなどを週に一回ほど食べ続ければ、30年でも40年でも、同じ姿でいられるのです」

「なんと」


 だが、ここは内陸にある山国だ。そうそう海産物は手に入らない。

「それならば年に一回、正月に銅鑼ドラ焼きを食べるのもよいようです。これも同じ効果があると云います」

「ほう、ドラやきを。それは、わたしのようなネコにはぴったりな気がします」

 向寵は忘れないように、手元の紙に書きつけている。


「では、その書類の処理は、明日の朝までにお願いしますからね」

 そう言って廖化は部屋を出て行った。

「しまった。助けてー、ドラえ……」

 まあ、いいか。向寵はまた机に向かった。


 ☆


「あ、いい所に。向寵ちゃん、ちょっと来てくれませんか」

 仕事を終え、自宅に帰ろうとしていた向寵は後ろから呼び止められた。

 ぎく、と背中を震わせ、おそるおそる振り返る。

 メガネの女性がにっこりと笑っていた。孔明の奥さんの黄 蓮理さんだった。


「ほら、これどうですか」

「どうですか、とは。今度は、わたしにこれに乗れとおっしゃるのですか」

 向寵は川岸に置かれたその木製荷車のようなものを指差した。簡単に言えば、船に車輪がついているのだった。


「そうです。この前のはね、ちょっと、あれでしたけど」

 あれ、どころではない。川に出た途端、分解してしまったぞ。


「連理さん、前も言いましたけど、わたしは泳げないんですよ」

 危うく死ぬところだった。最前線よりも後方が危険ってどういう事だ。


「大丈夫です。今度は救命胴衣も持ってきましたから」

 蓮理さんの発案は素晴らしいが、工作精度に少なからず問題があった。

「だからこれは、一体何に使うものなんですかっ!」

 向寵は、もはや連理さんの手下みたいになっている諸葛均に捕まった。そのまま無理やりその中に放り込まれる。


「よくぞ訊いてくれました、向寵ちゃん」

 蓮理さんはそこで真面目な顔になった。


「先の戦役では、補給に難渋したと聞きましたからね」

 向寵は後方で補給を担当している李厳の傲慢そうな顔を思い出した。

 

 孔明と共に劉備の遺命を受けた李厳だったが、ほとんど意図的とも思える怠慢で蜀軍の足を引っ張っていた。

 荊州出身の孔明に対し、益州派閥を代表する李厳は事あるごとに対抗意識をむき出しにしている。

「蜀の桟道を通っての輸送など、これが限界なのだ。仕方あるまいよ」

 そう言ってせせら笑うのだ。


「孔明さまの邪魔をするなんて許せません」

 憤慨した様子で連理さんが右手を握りしめた。

「ああ、なるほど」


「では、均くんお願いします」

 諸葛均は向寵が乗った、その荷車とも船ともつかないものを川に押し出した。

「ま、待って。にゃ、にゃあーーーーーーーっ!!!」




 ぜいぜいと荒い息をつく向寵を見ながら、連理さんは満足げに頷いた。向寵の乗ったそれは、無事に陸に引き上げられていた。


「試験は成功ですよ、向寵ちゃん」

「そ、それはおめでとうございます」

 ところで、これは何なのだ。


「はい。林の中では牛のごとく着実に、川の流れの中では馬のごとく迅速に進む、名付けて『木牛流馬』という輸送機械ですっ!」

 ほう。これをいくつも連結して、兵糧輸送に使うのか。

「これ、使えそうじゃないですか。さすが連理さんですね」

「へへへ」

 蓮理さんは少女のように赤くなって笑った。


 ☆


 失敗に終わった諸葛孔明の北伐だったが、まったく収穫が無い訳ではなかった。

 蜀軍の接近で大混乱に陥った涼州から、新たに加わったものがいた。地方の役人だった姜維きょういは孔明に才能を認められ、彼に随行する事になったのだ。


「その才は馬良や李邵りしょうでさえ及ばない程の、涼州最高の人物」というのが孔明の姜維評である。この言葉からすると、当初、姜維は文官として見られていたようである。


 漢中の丞相府で姜維を見た向寵は、なんだか馬超を小型にしたような男だな、と思った。姜維はどこか華やかな雰囲気を持っていた。無駄のない身のこなしも、武人としての基礎ができている証拠だった。

 文武に優れた男なのは間違いなさそうだった。


 まさか、躊躇ためらいなく馬謖を斬ったのは、この男を手に入れたからではないだろうな、そこまで考えて、向寵はぶんぶんと首を振った。

 諸葛丞相はそんな人ではないはずだ。


「つまらない事を考えるな。またすぐに戦いは始まる」


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