第28話 馬謖を斬るべき理由

 馬謖の軍をほふった張郃は、その矛先を王平の部隊に向けた。


 兵数は千にも満たない小勢の王平だったが、山間の隘路を利用し堅固な防衛線を敷いていた。時折、意表をついて突出しては、魏軍を散々に翻弄する。

 さらに、魏軍をわざと誘い込んでは、伏兵がいるかのような動きまで見せ、魏軍を牽制していた。


「これはおそらく諸葛孔明の本隊が到着するのを待っているのです。今のうちに一気に攻め込みましょう」

 司馬懿は逡巡する張郃に進言した。

「だが、それこそ罠の可能性があるのではないか」

「それはそうですが」

 歴戦の張郃、司馬懿にしても、王平の戦術を見極める事は難しかった。


 そのまま小競り合いを続けて数日。ある朝、驚くべき報告が入った。

「蜀軍が消えました」

 一夜のうちに蜀軍は撤退を完了していたのだ。


「やられましたな、張郃どの」

「うむ。だが、我らの目的は蜀軍を排除することだ。目的は達したと言ってよかろう。そうではないか?」

「ええ。しかしあの蜀の将軍。見事な手腕でしたな」

 司馬懿が感心したように首を振る。張郃も同意して頷く。

「あれはよほど、兵書を極めたものであろう。蜀にも人はいると云うことだな」


 そこで張郃は明るく笑った。

「感謝するぞ、司馬懿。最後に面白い戦いをさせてもらった」

 曹操や劉備と同じ時代を戦い抜いた老将は、この街亭の戦いを最後に表舞台から去っていった。


 ☆


 街亭に於ける蜀軍大敗の報せは、すぐに成都に伝わった。

 丞相府が漢中に移っている今、成都で孔明に成り代わり政治向きの任に就いているのは費禕ひいという男だった。

 報せを受け、すぐに碁盤の上に次の石を置いた。


 勤務時間中にも関わらず、下僚と碁を打っているこの男。決して怠けている訳ではない。今日の仕事どころか、明後日の仕事まで、僅か半日で片づけてしまっていた。


「おいおい、それは諸葛丞相らしくないではないか」

 普段と変わらぬ、のんびりとした口調で言うと、ゆっくりと立上った。


「では、勝負はここまでだ。今日もわしの勝ちだな」

 そう言って背を向けた費禕の顔に初めて緊張の色が差した。しかし努めて急がず、丞相府の執務室へ向かった。

「これは、まずいぞ」

 周囲に人影がなくなってから、口のなかでそう呟く。


蔣琬しょうえん、街亭での戦いの詳細を聞いたか」

 部屋に飛び込むなり、足早にこの部屋の主のもとへ駆け寄る。

「ああ聞いた。これから陛下に報告に行く。お前も一緒に来い、費禕」


 彼は成都に残る丞相府の責任者、蔣琬だった。冷静かつ謹厳実直を絵に描いたような男である。きわめて有能だが、その割に細かな事務はやりたがらず、ほとんど費禕に丸投げしている。何でも自分でやらなければ気が済まない諸葛孔明とは、そのあたりが少し違うようだ。


「どういう事だ。作戦案を聞く限り、大敗するほどの要素は無かった筈だぞ」

 費禕の言葉に蔣琬は振り返る事も無く、先を歩いていく。

「諸葛丞相といえど完璧では無い。敗けてしまったものは仕方ない。我々はこの被害を最小限に留める事だけを考えるのだ」

「あ、ああ。そうだな」

 ……まったくこの男は肝が太い、費禕は苦笑した。


「にゃ? 馬謖将軍を、捕らえる?」

 向寵は耳を疑った。

 街亭での蜀軍の敗戦は知っている。だが、そこは漢中よりもさらに遠い。この成都で近衛隊を率いている向寵に出される命令とは思えないのだけれど。


「奴は、成都に逃げ込もうとしているのだ」


 えーと。向寵は曖昧な表情で目の前の費禕を見た。

 普段は闊達な費禕が固い表情で押し黙っている。


「あ、まあ、何となく分かりました。では成都に入る街道を押えます」

「すまんな、向寵」

 どういたしまして、と向寵は頭を下げた。

 だが本当はよく分からない。馬謖が逃げている、とはどういう事なのだ。漢中で捕縛されたとも聞いたのだが。


 ☆


 諸葛孔明が主宰する丞相府は現在、漢中に拠点を置いている。

 左右に文武の官が居並ぶその広大な前庭に、縛られた馬謖が引き据えられた。

 彼を成都から護送してきた向寵が帯剣し背後に立っている。


 正面の門が開くと、諸葛孔明が側近の向朗を従えて姿を現した。孔明は一目で分かるほど憔悴している。青白い顔で、足元さえ覚束ないのが向寵にも分かった。


「馬謖」

 掠れた声で孔明は呼び掛けた。馬謖は僅かに顔をあげる。

「……お許しください、丞相。必ずや、次は……次こそは」


「勝敗は兵家の常、その事を責めるつもりはない」

 向寵は孔明の手が震えているのに気付いた。そしてすぐに、それが怒りによるものだと知った。


「だが、お前は自軍の将兵を捨て置き、一人だけ真っ先に逃げたのだ……。将軍であるお前がだ。古来、聞いたことがない程の醜態ではないか」


「あ、あれは違うのです。王平が、王平が私の命令に従わなかったので、奴を叱責するために……」

「黙れ、馬謖!」

 叫んだあと、孔明はぐらり、と揺らいだ。慌てて隣の向朗が彼を支える。


「この期に及んで、まだ他の者のせいにするか。亡き馬良が嘆いておるぞ。恥をしれ、この痴れ者」


 すると途端に馬謖は表情を変え、三白眼を孔明に向けた。

「あ、兄の事は言うな。あいつなど丞相に評価されるような器ではないのだ。俺が、俺のほうが断然優れていたのに!」

 なにかに憑りつかれたように大声で喚きはじめた馬謖は、執拗に馬良を罵り続ける。

 その異様さに文武の官はざわめいた。


 ごん、と鈍い音がして、馬謖は前のめりに崩れ落ちた。

 その後ろでは、剣の鞘を握りしめた向寵が眉を吊り上げ、荒い息をついていた。馬謖の後頭部を殴りつけ、強制的に黙らせたのだった。

「お前なんかが、馬良さまを侮辱するな」


「有難う、向寵。わたしも少し熱くなってしまったようだ」

 孔明は長く伸びた馬謖を見下ろし、額を押えた。


「ところで、馬謖は一旦、漢中の獄に入れたはずだ。誰か手引きをして逃がしたものがいるようだが、心当たりはないか」

 孔明はぐるりと視線を移していく。

 そして最後に、隣に立つ向朗に止まった。向朗はうなだれていた。


「ああ、やはりか……」

 向寵は肩をおとした。だがそれは馬良との友誼を忘れない、向朗らしい行いだと向寵は思った。


「丞相、お願いがあります」

 その向朗は孔明の足元に膝をついた。


「彼の兄、馬良に免じて罪一等を減じて戴けませんでしょうか。……代わりにこの向朗の命をもって償いをいたしますから」


 孔明は何も答えなかった。

「向朗。そなたには謹慎を命ずる」


 そして向寵に向き直った。

「この者を、将軍 向寵に任せる。向寵よ、くれぐれもよく監視するのだぞ」

 向寵はその意味を悟った。馬良に続き、馬謖まで失おうとしているこの”おじさま”を保護できるのは自分だけだと。

 深々と向寵は頭を下げた。



 その日のうちに、馬謖は斬られた。



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